社会 長いから畳むよ
「能力に応じて給料を上げる」ってスジの悪いやり口で、能力が高い人が重要な役に就いて自分らの報酬を上げたりしんどい仕事を風下に回したりができるようになりかねないのよね
そうなると、能力が高ければ楽して良い暮らしができるからそれを目指そうぜって発想が社会に浸透してしまうし、現場でしんどい仕事をしている人らは能力が低いんだから自業自得でしょってなってしまう 弱いものを守るって考えがどんどん退化してしまうのもまずいけど、何より「現場から人がいなくなって社会が回らなくなる」ってのがやばい
じゃあ能力以外に何で報酬決めたらいいのかというと、そりゃ「必要な仕事に人を呼ぶのに必要なだけ払う」ってのが妥当なはずなんだけど、上に書いた「能力に応じ」が邪魔してんのよね こんな簡単な仕事誰でもできるんだから報酬少なくていいでしょって発想をいつまでもやってるもんだから人が来ない 必要だから求人してるはずなのにね
「能力に応じ」から「必要に応じ」に早いとこ変えた方がいろんな人が働くチャンスを得られるし、社会がよく回ると思うよー
落ち込んでいる場合ではないので、森 元斎「死なないための暴力論」を本腰入れて読む。
石丸候補の得票が三割で二位についたのが事実だというなら恐るべきことだよというポストをXでもMastodonでも見ますな。
個人的に思い出さずにおれなかった話として。
フィリピン国民は政治的関心が高く大統領選挙の投票率は83%あったそうです。しかし独裁政権を敷いたマルコスの息子が圧勝。これの原因として一定以上の年齢の国民からの支持は低かったものの若年層の支持が高かったそうなんですね。フィリピンの平均年齢は24.2歳。かなり若いです。
・「前マルコス独裁政権」を知らない
ことに加えて
・Tik TokやFB等での独裁の否定や対立候補のこき下ろしキャンペーンが効いた
ことが大きな理由とされてるそうで。
日本は政治的関心が低く、平均年齢は高い。しかしネットリテラシーは、フィリピンよりは高い。気を付けるべきではあるが単純に比べることではできないと、個人的に思ってたんですよね。
でもちょっと今回、そのことを思い出さずにおれず、嫌な感じがしましたね。
ダンジョン飯、本当に偉大だなと思う。基本的に面倒でしかなかった食事の準備、最近少し楽しい。手際よく時間効率よくできると嬉しい。おいしいと嬉しい。うまく食材を使いまわせると嬉しい。ちょっと失敗しても嬉しい。食事は前から自分も作るのだが、嬉しくなってきたから担当できる回数が増えて妻も喜ぶ。食べてくれて喜ぶ。これが一番嬉しい。
料理していると、頭の中でセンシやライオスの言葉がこだまする。「人間はちゃんと寝て食べて、それから初めてやりたいことができるんだ」。ちゃんと寝て食べることより優先される仕事はあまりない。そのことがちゃんと腑に落ちて、ごく自然に自分の生活が変わってきてる感じある。
日々の忙しさにかまけて、生きることそのものが疎かになってだんじゃなかろうか。仕事だけじゃない。遊びにしたってそうだ。食事に限らず、家事全般、それは単なる生きることに伴うコストみたいに感じてたんじゃないか。どちらかというと、生きることそのものはそっちなのに。そんな感じがしてる。
生きるために必要な仕事を、楽しもう。その他の楽しみは、そのあとだよ。という感じか。今頃気づいたの?と言われてしまいそうですが。
頑張って生活するオタク フォロバお気遣いなく