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ほんとにそうだなと思いました。
わりと多くの人が「別姓を選びたい人には選ばせてあげたらえーやん」みたいなふんわりしたイメージで「夫婦別姓に賛成」なんじゃないかなと想像しますが、そもそも「選ぶ選択肢を 国に 増やしてもらおう/与えてもらおう」ってのが間違ってて。賛成意見でも、そういう受け身の反応になるように意図されていますよね。
分かっているようでいて、恣意的な議題設定ってものすごく思考の幅を狭めるものだなと実感します。まさに、カゴに入れられて飛べなくされたみたい。


そうですよね。

議題設定を疑うって、社会問題を考える上でも基本だと思うのですが、現状が当たり前すぎて、なかなか気が付かないというか、既存の枠の外にでて外から俯瞰することが難しいです。

自分の幸せは他人の幸せとは限らないので、他者の権利や自由を侵害したり、公共の利益を著しく損ねない限りは、基本自由なのが自由主義社会、リベラリズムだと思うのですが、何かを押し付けあったり、誰の迷惑にもならないのに何かを強制されることに慣れすぎてしまっているのかなとも思います。


言葉を選択する、名付ける側に、ものすごく権力が偏りますね。
選挙が始まると、どこの政党も大抵「今回は○○解散、○○選挙です」って名付けますよね、政権選択選挙とか、郵政選挙とか。今回石破さんは「地方創生解散」でしたっけ。さすがに取ってつけたようで苦しいな。。
国民総背番号制とマイナンバー、戦車を特車と呼んだり、退却、敗退を転進といったり、PKOの訳語は「活動」でよいのか、とか。相手の使う言葉をそのまま無批判に受け入れてしまうと、その時点で相手の土俵にのせられてしまうので、権力側が名付けたものや使う言葉はまず疑ってかからなければいけないなと思います。


はい、権力側から押し付けられるものだけでなく、euphemismは自分自身を騙して思考を鈍らせることにもなりやすいので、警戒しないといけないと思います。

まあ、地方創生は石破茂がずっと言ってきたことなので、逆にそうじゃないほうが違和感ありますが、そこから拡大して「日本創生解散」にしちゃうのはいかがなものかと思います。


あと、「既存の枠から出られない、慣れてしまっている」という点でわたしが自覚するのは、「権利は主張していい」という考えかたが芯から身についていないことです。

最近はなにかと危なっかしいNHKのクロ現ですが、なかなか良いなと思った回がありまして、地方の公共交通の衰退の話でした。ボランティアの自家用車を使ったライドシェアなんかの話のあと、同じようなサービスをフランスでも行っていると。1960年代ごろから車の普及によって公共交通が衰退してしまい、そこで定められたのが「交通権」、人が移動する権利を公が保証するという考え方できちんとサービスが設計されているよ、という話でした。それと、日本でも交通基本法策定のときに移動権が議論されたけど「時期尚早」とされた話や、滋賀県が検討してる「交通税」の話など。

わたしも地方出身ですが、こういうところで、発想が「田舎には人がいないんだからバスもタクシーもなくなってもしょうがないよね…」とか、民間企業への「お願い」ベースみたいなことになりがちで、「移動の権利は保障されて当然である」と とっさに思えない。あ、これ、要求していいんだ、って思ってしまう。
こういうのも慣れと訓練が必要だなあと思っています。

自民党が言うところの「地方創生」とかも、どうしても上から恵んでやってる感があり(それならまだマシで、単なるお友達への利益誘導にもなりかねないですが、この国。。)、根っこから思想が違うよなと思ってしまいます。
「夫婦別姓」も同じですよね。そもそも、市民が持ってる権利を「保証する」のが仕事であって、与えてやるのも制限するのもおかしな話ですよね。。

» バス廃止・減便にタクシー不足...ライドシェア解禁から公共交通の未来を考える - NHK クローズアップ現代 全記録
nhk.or.jp/gendai/articles/4874

”自家用車の普及が進み、路面電車やバスが相次いで廃止。公共交通が不便になった農村部から人口が流出しました。そこでフランスは、国民の移動の自由を守る交通権を法律で定めました。”


本来自由なはずなのに、「上」からの許可がなければ何もできないような思考回路を植え付けて、権力構造を固定化し従属させようとするのは、軍隊教育の基本ですよね。

こないだ元法務大臣の河井克行が自身の刑務所経験についてインタビューを受けた記事がありましたが、自由を厳しく制限されてそれに順応しよう頑張っているうちに、がんじがらめにされている方が居心地がよくなってしまう、というような話をしていましたが、あれはなにも刑務所の話だけではなくて、教育現場から職場、家庭、友達や家族との関係に至るまで、それこそ小さく前習えから始まって、死に方の強制まで、ひたすら自由を制限されて色々なものを押し付けられることに「順応」し過ぎてしまって、その方が心地よくなってしまっている面もあるのかなと思います。

権利の主張自体にも、本来誰からの許可も要らないのですが、誰かに良いと言って「もらわないと」なかなか主張できない。

だから政治との関係に関しても、積極的に権利を主張することを避けて、「誰かに考えて「もらって」、決めて「もらって」、お許しを「もらって」」と、許諾を前提とした、どこまで行っても受け身な言葉遣いになってしまうのかなと思います。

それは裏を返すと、決断の責任を上に押し付けているということでもあるのですが、この国に蔓延る主体性のなさ、無責任さは、そういうところにも原因があるのかなと思います。

自由がないということは、自分で考えて、自分で決断して、自分で行動した結果に責任を持たなくて良い、他の誰かに文句言ってるだけで良い、ということでもあり、不自由ではあるけれど、精神的負荷は低いので、確かに楽です。

河井克行が刑務所の中で感じたことは、程度の差はあれ、外にいる多くの人間にも似たような部分があるのかなと思います。


あのインタビューはいろいろ考えさせられました。
本当に次もう一度やったらいい法務大臣になるんじゃないかと思ってしまうくらい、とか言うとほうぼうで怒られるんでしょうが、ああいう感情の変化のようなものは、本当に「体験してみなければ絶対に分からないもの」だと思うし、それを知って言語化できる人が「刑罰のありかた」について発言するのは良いことだと思います。

誰かに決められる(決めてもらう)ことに慣れてしまうのは、本当に楽なんですよね。気に入らないときはちまちま文句を言うけれど、どうせ変わらないし無力だしって、考え 悩み 戦うことをしないで諦めちゃったほうが、エネルギーを消費しない。なんでも人のせいにしていられますからね。

「自由にしていいよ」と言われても、周りをキョロキョロしてけっきょく多数派と同じ選択をしようとしてしまうくらいには、押し付けられることに慣れすぎている。
みんなと一緒が安心だし、ほんとに「自由に」主張できる人を、異質な、和を乱すものとして排除してしまう。
押し付けられることに慣れているので、誰かに押し付けることにも抵抗がない。
自由や権利を主張しよう、と言っている人たちですら。

根深いですねえ。。


河井克行アゲインは勘弁してほしいです(笑)でも、あの人にしかできない社会への働きかけかたがあるはずなので、具体的に何かするのか、見ていきたいと思います。

「刑罰のありかた」と「排除」については、さっき投稿した「いじめっ子」に関するボイコットの件で、学校や行政へ対策を要求すること自体はとても良いことなのですが、要求内容が集団リンチの体をなしてしまっているのが危ういと思いました。

法治主義とか、もう完全に忘れて、熱狂した民衆が勝手に裁いて処刑までしてしまう、要するに私刑になってしまっています。

あの一件から子供達が学ぶのが、「悪いことをした人間は集団感情に任せて排除しても構わない」ということになってしまわないか心配です。

犯罪行為があったのなら、あくまでも法に基づいて裁かれるべきですし、教育のような公的な枠組みから誰かを排除するなら、法やルールに基づいて根拠とプロセスを明確にした対応が絶対に必要です。

なのに、間違いを犯した人、それも子供を「犯罪者」とか「悪人」のようなカテゴリーに入れて、しかも、犯罪者も含めた全ての人間に人権がある、ということを忘れてしまいがちです。

当然、「いじめ」自体が人権侵害なので、加害側の人権が一時的に一部制限されるのは仕方ないことですが、「いじめっ子」に対して、正当な裁きによらず、法の手続きも踏まずに社会から排除するという罰を与えることが正しいことだとは思えません。

刑務所を更生と社会への最適応の準備の場として捉えず、懲罰性だけを考えて運用しているのが日本の刑務所の問題だ、ということが河井克行の件でわかったはずなのに。

これが当たり前になると、知的障害者や、いわゆる境界知能と呼ばれる子供達や、家や環境に問題がある子供達をどんどん排除していくことになるのではと危惧します。

私も、いわゆる境界知能の同級生に怪我をさせられたことがあって、いまだに冬がくると傷が疼きますが、その子が排除された方が良かったとは思いません。荒れた田舎の学校でしたし、あれ以上悪い環境に行かせるのが良いとも思えないですし、決して裕福とは言えないお家の子だったので、そもそも無理だったと思います。

何かあるとすぐに排除だとか抹殺だとか、まるでファシズムみたいなことになってしまうのが怖いです。。。

日本でありがちな、いじめた子が何事もなく学校に戻りいじめられた子が転校を余儀なくされる、というようなことはもってのほかだと思いますけど、詳細が分からないにしても、あのニュースには少し怖いものを感じますね。

1000人からNOを突き付けられた子は、これからの長い人生をどう生きていったらいいんでしょう。

いったん自分から見えない場所に排除してしまっても、いつかは社会に戻ってきて同じ場所で暮らしていくわけで。懲罰だけ与えて、戻ってくる環境を与えないなら、一生刑務所に閉じ込めておくか極刑にするかしかなくなってしまいます。

ついこないだまで尊厳死で死を強制されることに猛反発していた人が、一度罪を犯した人の命を軽く扱えるのだとしたら、すごく怖ろしい。あのニュースを見て、自分がいじめられたわけでもないのに、恨みを晴らしたような、ざまあみろ、当然の報いだ みたいな「快感」を反射的に覚えてしまうような人が多いとしたら、それもかなり怖いです。。


いじめた側が、なんの責任も追わされず、反省もせずにのほほんと暮らしていくのは、私には絶対に許せません。正直、これまでの人生で、思い出すだけで未だに殺意を覚えてしまうような人間が複数います。

しかし、それが子供である以上、再発防止になるような対策を取らず、放置する保護者や教師や学校や教育行政や政治家や社会に、より大きな責任があると思います。

もちろん子供だからといって責任がゼロになるわけでもありません。当人はもちろんのこと、いじめに加担したり、傍観したりする場合もゼロではなく、止める責任を課すのは酷だとしても、少なくとも目の前にある不正義を正すために「何か」をする責任があります。

その自分の責任を棚上げして単に排除しろと要求するのは、他の誰かへの責任転嫁になってしまう場合があると思います。例えば、親から虐待を受けた子供に、暴力の連鎖を断ち切る責任を一人で負わせるのが「正義」なのか?と考えると、私はそうは思いません。

ああやって排除された子供が行き場を失って、その行き着く先を考えると、将来的にもっと多くの被害者を産むことになるかもしれない、ということまで考えてないといけないと思います。

私にも、恨んでる人間の不幸をつい願ってしまう気持ちはあります。しかし、相手の境遇次第では、その感情が消えることもあります。

金持ちがスリルを味わいたくて万引きするのと、お腹をすかした人がおにぎりを盗むのでは、同じ窃盗でも意味が全く違いますし、情状酌量のようなコンセプトはそのためにあるのだと思います。

この件で、懲罰感情的な快感を覚えた人がいたかどうかは、私にはわかりません。

私に言えるのは、一つの不正義への間違った対応や、検討が不十分な解決策が、別の不正義を産んでしまうことはほんとうによくあることだから、自分自身の正しさの判断能力の評価については、どこまでも謙虚にならなくてはいけない、ということです。

この件も、私がいつも言っている「正義の暴走」に当てはまる事例である可能性があるかなと思います。


ああ、わたしはたぶん、強烈な加害者経験や被害者経験がなく、結果的にいつも、第三者としてどうあるべきかを悩んでいるだけの人間なのだなと気付かされます。
わたしにはそこまでのいじめ経験はないので、「いじめられた側」への配慮に欠けていた、この事例でいえば、1000人で一人をボイコットする(私刑にする)ことの善悪を問うことのほうに目が向きすぎていて、そもそもの被害者の救済を(相対的に)軽んじていたところがあったと思います。そういう態度が、間接的に、Sethさんや、いじめを経験された方の痛みを軽んじることになって、反省しています。
被害者の強い処罰感情を「共有」できないというのが、わたしが一番間違いやすいところなのかなと思いますので、肝に命じます。

かくも「正義」は難しい…と、改めて思い知ります。。

法が、大人や社会が、最初の時点できちんとした対応を取らなければ、別の不正義を生むというのはとてもよく分かります。
わたしがずっと念頭にあったのは、ある高齢の加害者による交通死亡事故、加害者が高名な人物であったがゆえに、「彼が捕まらないのは上級国民だからである」という言説があふれた。わたしはあれが恐ろしかったのです。法の秩序や、人の平等や、社会への信頼に対する、一人ひとりの価値観をあっという間に塗り替えてしまうようで、すごく危険だと思った。近所の小学生から「ジョーキューコクミン」て言葉を聞いたときは本当にショックでした。

ああいう、法によらない処罰感情のようなものを、第三者的立場の「多数の」人が共有してエスカレートしてしまうことが怖い。その中にはもちろん、同じような交通事故被害者の方もたくさん含まれていることも分かります。自分もそういう被害者感情から、批判する対象や抗議の向け方を誤ったことがあるし、もちろん正当な反応である部分もあると思う。
それもこれも、「最初の被害者が救われなかった」「今までに救われなかった被害者がたくさんいる」「そこに自分の痛みを仮託してしまう」からという面もあるんじゃないかと。救われなかった苦しさをまた叩き起こされる感じは(少しは)実感として分かるので。。


処罰感情は、自分で決断することによってコントロールできます。私は、もし可能であれば、加害者に、可逆的な形で、私と同じ痛みを知って欲しいと思います。が、しかし、そんなことをしていると、永遠に報復が続いてしまいますので、自分がしたことに気がついて反省するまで絶対に許さないと決めていますが、実際には報復はしません。ハンムラビ法典の趣旨のように、過度な仕返しを抑えられる人は少ないですし。

私をいじめた人間が、私と同じ思いを味わうこと自体は理不尽ではないと思いますが、それではその人間も私と同じように壊れてしまう可能性があります。私はたまたま今まで生き延びてきただけで、同じ結果になるとも限らないです。

それよりも、加害者が更生も反省もせずに害悪を振り撒き続け、新たな被害者を産むような状況になることを阻止するのが一番重要です。それは一時凌ぎの排除や隔離では達成できません。まあ、一部の左派が言うように本当に社会から「抹殺」してしまえば可能ですが、それが「正義」なのでしょうか。

自分で殴り返せるようになった私はまだ恵まれています。加害者だけではなく、理解のない社会のマジョリティからもサンドバッグのように殴られ続けてる人もいます。

また、加害者の多くは、他の人間から受けた暴力に起因する怒りを、自分よりも下、自分よりも弱いと看做した人間に向けて暴力として再生産してしまったわけです。元々は子供で、弱者で、被害者だった人が、社会から見捨てられたが為に、感情の矛先も表現手段も間違えてしまい、いつのまにか加害者になり、社会から排除されてしまいます。どこかで誰かが止めないといけないです。

でも、矛先を間違えるのも、手段を間違えるのも、誰しもがやってしまうことです。私のTLにも、批判対象や解決手段を間違えて、無関係な人を踏みまくってる投稿が毎日流れてきます。

人権だの正義だの弱者救済だのと言いながら、「あいつらは悪人」、「自分たちは善人」と、あまりにも単純すぎる世界観で切り分けて、弱者まで社会から排除し、「原罪」が存在しなかったことにしようとする欺瞞が許せないのは、そういう浅はかで傲慢な態度も、暴力の再生産を許してしまっている一因になっていることすら理解できていないからです。


そうですね。どこかで誰かが歯を食いしばって止めなければいけない。
3人の娘さんを殺されても平和と共存を訴えているガザのお医者さんのことを思い出します。どれだけの葛藤があるか、想像もつかないです。

自分を傷つけた相手が個人や少ない人数だったら、反撃の相手を間違わないかもしれない。でもそれが、組織だったら、国だったら、社会構造だったら、有史以来の人間の「偏見」だったら、それらを相手に真正面から戦える/戦う気持ちになるだろうか。それよりも、自分より弱い人を相手に暴力をふるったほうが手っ取り早く気が晴れると思ってしまうのは分かります。というか、じつはみんな無意識に、本当の敵を見極めることをおろそかにして、自分をごまかしている部分があるのではないかとも思います。

セカンドレイプが酷い加害行為であると多くの人が知っていますが、いじめ被害者の方の苦しみを他人が軽んじたり、誰かと比較して矮小化したり、善悪や敵味方をジャッジしたりするのも、立派な二次加害ですよね。

オタクやネトウヨとかの言葉も、どういう意味で使っているのかと問い質したくなる投稿をよく見かけますけど、そのなかにいじめの被害者や、いわゆる境界知能や障害があったりヤングケアラーで学校や社会から距離ができてしまったひと、いろんな弱い立場の人がいて、そういうひとがいることを知っていてもなお侮蔑をこめてその名称で呼ぶのならば、それはその人に対する立派な二次加害なのではと思う。知らずにやってしまっているのなら、反省して、知っていく必要があると思う。

そういう雑な言葉遣いで二次加害を続けて、弱い立場にある人や傷つけられた人を追い詰め、彼らが怒りを向ける対象を間違わせ、いつか犯罪者にしてしまい、さらに排除して、何度も何度も「見捨て続ける」ような第三者にはならないようにしたいと心から思います。


鳥籠サイトでよく「ネトウヨ」や「表現の自由界隈」と呼ばれる人々と長っがいスレッド立てて何ヶ月も話してましたが、いじめの被害者、虐待の被害者、身体障害や精神障害がある人、重い病気を患った人、難病患者、貧困に喘いでる人、低賃金で疲れ果てるまで働いてる人、生活保護制度を活用してる人、色々な原因で引きこもりにならざるを得なくなった人など、様々な人がいて、みんな居場所がなくて、ネットで仲間を見つけたいだけだったんだな、と思うことが多かったです。

もちろん、なに不自由なく生きてきた圧倒的な強者なのに、どうしょうもなく傲慢で、承認欲求や自己顕示欲や支配欲のために他人を操作して差別を扇動してる人間もいますが、そうでなく、弱い立場に追い込まれてしまった人々も大勢いました。

自分が色々なものを抱えて苦しい思いをしている時に、バカにせず、甘い囁きで「君は悪くないんだよ、悪いのはあいつらなんだ」って擦り寄ってこられたら、コロっと行ってしまうと思います。

私だって、病気になって、家族も含めた全ての「人間」から見捨てられていた時に、もし誰か1人でも手を差し伸べてくれるひとがいたら、それがたとえ悪魔のような人間であっても受け入れてしまっていたと思います。

私がよく話していた「表現の自由」界隈の相互さんは、当時まだ高校生で、ルッキズムや障害者差別が原因で、同級生の女子から酷い扱いをされていたようで、女性恐怖症のようになってしまい、もう10年以上、お母さん以外の女性とは対面で話したことがないとおっしゃっていました。

そういう人をバカだとか無知だとか罵って、自己責任で見捨てて良いとは思えません。そうやって子供ですら「社会的害悪」のようなカテゴリーに放り込んで排除してしまおうとするのはあまりにも無責任だと思います。

その相互さんの投稿を最後にお見かけした時には、スーツを買ってもらって緊張すると言いながら就職活動をされていらっしゃいました。今頃はとっくに成人してどこかで働いていらっしゃるはずです。

一旦子供ではなくなってしまえば、個人に全責任が発生するという残酷なルールではありますが、あの相互さんは、これからも一生いろんなものを背負ったまま生きていくのだと思います。

社会が至らなかったのなら、社会が間違えてしまったのなら、社会がなんとかする必要があると私は思います。


以前にもここで、『弱者男性』=女性が差別抑圧され男性が極めて優位な社会において、病気や貧困や障害などによる「弱い立場」におかれた男性 の話をしたことがありましたよね。「強い」側であるはずの集団のなかにいる「強くない人」の境遇や苦しさについて。

「"弱者男性" など居ない」って言って透明化したり、どこまでも「自己責任」を押し付けていっても、本当に誰も救われない。
universeodon.com/@sethgodman/1

わたしがSNSで何か書くようになったのはたかだかここ数年くらいのものですが、たしかに世界は広がったし、いろんなことを知ったり教わったりしました。自分がいかに恵まれているかも、いかに抑圧されてきたかも分かった。
一方で、不安や恐怖や敵対意識をわざと煽ってくる力に足を掬われそうになったこともあります。そういうとき「リベラル」は意地悪だったし、右派には共感があった。

「あなたの苦しみを軽んじませんよ」というのがとても大事なメッセージだと思うのですが、それを言ってくれるのが「リベラル」ではなく、むしろ右派であることが多い気がしています。 [参照]


社会がなんとかしてあげるために、「構造」を変えるために、声を上げることも必要ですね。それとは別に、普段の自分の言動、軽々しく集団を括った「大きい主語」で語らないとか、相手の立場や痛みを想像してみるとか、頭ごなしに断定しないでゆっくり話を聞いてみるとか、自分の価値観を押し付けないとか、そういう「対人コミュニケーションにおける態度」で在ることがすごく大事なんじゃないかなと思います。

マストドンへ来てしばらく経って、なんだかここは家長が怒鳴り散らしてる茶の間みたいだなと思って、すっかり書き込むのをやめてしまっていました。自分から何も喋らなければ誰も踏まないし、怒鳴りこまれることもなくて安全だし。でも、目の前で起きていることに何もしないで放っておくことは、誰かを追い詰めたり、ゆっくりと社会を悪い方向に進ませたりすることに加担しているんだな、と思うようになりました。


リンクして頂いたスレを読み返して思ったのは、ご存知のように私は、この国では身長はわりと高い方で、体重80kgになってもまだ「適正体重」の範囲だったりしますし、見た目上は、障害があることも難病であることもわからないです。

自分から言わなければ、菜食であることも様々なアレルギー持ちであることもわからないですし、頻尿や下痢、血便といったトイレに関することでいつも悩まされて普段の外出にも困難を抱えていることや、合併症で難聴になったり、関節痛、筋肉痛が常にあったり、倦怠感で動けないことが多かったり、感染症にかかりやすかったり、日本語が苦手で、英語も中途半端で、、、と、様々な問題を抱えていて、そのことによって生活に大きな支障があることも、基本的に全て隠して生きているので、外からは一切わからないです。匿名なここででしか書かない/書けないことも多いです。

重たいものを持つと、いつも痛い指の関節や背中や腰や股関節や踵がもっと痛くなるので、「背の高いガタイのいい男なんだから重たいものを持って当然」と押し付けられたら、「そんなの健常者が持てよ」と言いたくなりますが、そう言ってしまうと難病であることがバレるので、ニッコリ作り笑顔で持ちます。

そういう無自覚なアグレッションやアビュースは、難病患者だけでなく、身体障害者や知的障害や精神障害などを抱える様々な人に日々向けられています。

さらに、調子が良い時しか出歩かないので、事情を知ってる人ですら、ベストな状態の私しか知りませんので、実際よりもかなり軽く考えている人が多いと思います。薬のせいでメンタルに影響があっても、外からは単にイラついたり、怒鳴り散らしたりしているだけの「嫌な奴」や「やべー奴」とみられてしまうので誰も助けてくれません。

今日も朝から、学歴や知的能力的に不利な立場に置かれた人々への無自覚な見下しがどんどん流れてきてイラっとしてしまいましたが、誰しも気がついていない/気が付きにくいことはあるので、無自覚にやってしまっているのは仕方ないと思います。


ですが、問題はその先にあって、「自分は人権派で、差別などせず、何事にも配慮できる正義の味方」みたいな傲慢な態度の人間から踏まれる辛さ、見捨てられる辛さは、経験してみないとなかなかわからないだろうと思います。

「大雑把な属性で括って差別的な対応をしてしまう」ことと、「相手の痛みが想像できない」という2点においては、右左は関係なくどんぐりの背比べで、「相手の痛みがわかってると勘違いして偉そうにわかったつもりになって正義だの人権だのと言いながら味方のフリしてガシガシ踏んでくる」という追加要素のぶんだけ左派の方がダブスタで冷酷に見える、というのが私の実感です。

まるでどこかの軍隊がやっているように、「悪人」と「善人」のような単純な世界の捉え方で、子供まで見捨ててしまえるのなら、そしてそれを自称「人権派」がやってしまえるのなら、この世に救いはないと思います。


「体格の良い中高年男性」は、権威や家父長制の記号になりこそすれ、配慮が必要であるとは 誰も思ってはくれず、でも「エラそうなおっさん」としての批判的な視線だけは受け続けるわけで、本当に「納得いかない」でしょうね。。わたしには想像もつかないです。。

マストドンに来てから、「リベラルにも踏まれまくっているので」というようなことをbioに書いてらっしゃる方を何人かお見かけしていて、どういうご経験なのか、わたしはどういうことに気を付けたらいいのだろうかとずっと気になっていました。おそらくSethさんと同じようなご経験をされている方なのだろうと拝察します。

「相手の痛みがわかってると勘違いして偉そうにわかったつもりにな」った言動が、誰かの絶望をさらに深めてしまうこと、どれだけの重みか今のわたしには測り知れないですが、肝に銘じます。


私は紛れもなく「偉そうなおっさん」であるので、そのことに対する批判は受けますが、私はお偉そうなおっさん100%でできているわけではないので。

でもそれは私だけの話ではなく、多くの人が様々な困難を抱えて生きていて、外からはわからないことも多いです。そういう方々を無自覚に踏んで、他者の痛みを無視して自分の価値観を押し付けたり、特定の特性を持った人々を排除したり、無自覚に差別したりしていることにすら気がついていないのに、「人権」だとか「正義」だとか語っているのをみて、失望されている方々を私もここで何人かお見かけしています。

しかし、そういう人の声はいつまでも無視され続けます。

だから、おっさんのいうことには納得できなくても、障害者の言うことなら少しは聞いてくれるかと思って、今までネット上でも隠して、中立的にしか語ってこなかったことを曝け出して、自分自身を差し出してみることにしました。それでもダメだったので、次は貧困に苦しんでいた自分を差し出し、それでもダメならと難病患者である自分を差し出し、そしていじめの被害者である自分も差し出しましたが、結局無駄でした。

そうやって様々なものを差し出させる行為がいけないことだと日頃から言ってるような人達、「インターセクショナリティ」とか言ってる人達ですら、なかなか理解しようとはしません。でも私はまだこうやって曲がりなりにもなんとか言語化して抗うことができるのでまだマシです。

ひたすら社会から、周りから殴られ続けている人も多いです。そういう人が、ここだけではなく、「ノンポリ」にも「ネトウヨ」にも「表現の自由界隈」にも「オタク」にも「低学歴」にも「バカ」にも大勢含まれています。

そんなことは、ちょっと相手と話してみればすぐにわかることです。その時間さえ惜しんで、何も知らないままに憶測だけで決めつけて、ひたすら相手を「悪魔化」することで相対的に自分を「善」側に置こうとする。そういう行為に失望しているのだと思います。

他にもまだ差し出せるものは残っていますが、これ以上はしまっておくつもりです。

ここしばらく、初めてお聞きするようなことをたくさん書いてらっしゃったので、なにか「意図」がおありなのかな、と思っていました。
知らなかったとはいえ、何げない会話のつもりが思い切り踏んでしまってたなと、幾つも思い当たります。

無駄だったってお感じになることが多いのも想像に難くないです。わたしの立場で何か言うのも本当に空々しいですが、感じるところがある方もいらっしゃるはずですし、蒔いた種がすぐ芽を出すわけじゃないことは、Sethさんが一番よくご存じのことと思います。

わたしは、揺らぎの幅をとっているつもりでもそこからはみだす事例にぶち当たってああ偏ってたと反省することばかりだし、「分かった!」と思った瞬間に間違い始めてるのではないかという感覚があります。

「正義に依存している」とある方が書いてらっしゃいました。
わたしは、「自分は間違わない、常に正しい方に居る、どちらが ”正義” か分かってる」という心理が分からない。「思い込んでる」のか「思い込みたい」のか、「分かってると思わなければ立っていられない」のか。本意は別のところにあるのか?

わたしが自分と感覚の違う人たちを「そういうひとたち」といって悪魔化してしまったら二の舞なので、どうにか理解したいなと思っています。


おっしゃるとおり、外部化して自分の問題から切り離してしまっては、同じ過ちを繰り返すだけになってしまいます。

正しさをどちらとも判断できない人々に苛立つ気持も、「正義」の定義にこだわる理由も、私自身にもそういう側面があるのでわかります。が、それ「だけ」ではダメな理由が様々あって、そのことに気がつくまで、随分とかかりました。

自分も一度通った道であるからこそ、どちらの言い分もある程度までは共感できる部分がある気がします。


わたしみたいなのは、「どっちが正義か分からないから、判断を留保して永久に中立でいる無責任な人」だと思われるのですかね。。それも否めないなあと思う部分もあります。

「いじめはダメ」とか「差別はダメ」だとか、揺るがせてはいけない部分はしっかり胸に抱きつつ、「構造を批判して当事者を責めない」とか、「行為を批判して、それを行っている集団の中にいる弱い人(中で抗っている人や、やむをえない事情でその集団にいる人)の存在を見落とさない」とか、「一度間違った人から人権まで奪わない」とか、できるかぎり踏んでしまう人を少なくする話しかたをしたいと思いますが、ほんとーーに難しいです。。


「どっちが正義か」という問い自体が、色々と間違えてしまう原因になるのかなと思っています。

「正しさ」や「正義」は属性ではないですし、陣営で争うべきものでも、部外者の立場から軽々しくどちらかを選択するべきものでもないです。「絶対に正しい存在」なんてないですし、それは集団や組織も同じです。

「アメリカが正義で、反対する奴は悪」とかなら、おかしいと気がつきますが、他のことになると、なぜかそういう話になってしまっていることが多すぎると思います。まあ、「アメリカが正義」と信じてる人は多いですが。。。

「正しい行い」はあるかもしれないけど、それだって一面的なことだったりします。

困ってる人への施しでさえ、相手の尊厳を傷つけたり、死に追いやってしまうことすらあります。

何が正しくて何が悪いことなのか、簡単にわかるなら法律も警察も裁判所も要りません。だから選挙で選ばれた代表が議論して合議制でルールを決めて、警察みたいな統治機構も用意して、権力が暴走しないように、市民が一方的に不利にならないように推定無罪原則とか国選弁護人制度とかも作って、行政側が証拠を集めて裁判所に提示して、弁明・弁護の機会も保証して、裁判官の国民審査も用意してと、みんなが納得できるプロセスを用意した上で、人ではなく「行為」を裁くわけです。しかし、実際に裁かれるのはその行為の責任者である「人」なので、刑事罰を与えると、一時的にその人の人権の一部を公権力によって制限/剥奪することになってしまう。だから公正に人を裁くために必要な3権が独立していて、プロセスも決まっていて、それらに権限を与えているのは主権者たる市民である、という建前になっている、民主主義の根幹だと思います。

このシステムに納得できない点があるとか、不備や不正があるという話しならわかりますし、日本は立法府である国会も警察も検察も司法も確かにものすごく酷いと思いますが、だからといって各々が勝手に「誰が正義なのか」みたいな誤った問いを立てて、行為ではなく人を裁き始めると、困ったことになってしまいます。。。


「アメリカ」はあんまり良い例ではないような…(笑えないですが…)
「自民党に任せておけば安心」神話はちょっと壊れたかなと思いますが、「アメリカは味方、アメリカは自由主義の守護者」と思ってる人のほうがやっぱりいまだ大半なのでは。。こういうことを既成事実化してしまって、問い直すことをやめてしまうのも、わりとこの国の風潮として強い気がします。

そうですね、「どっちが正義か」は間違いの元だと思います。
「どっちが正しいのか? どっちにも痛みも言い分もあるのに?」とすごく悩んでしまっていたときは、外部的に「争点」みたいなものを与えられてしまっていたので、あれはTwitterのせいだなあと思っています。。気を付けていないとすぐに、誤った二項対立の踏み絵を踏まされそうになるの、SNSのすごく怖いところだと思います。


はい、「アメリカは正義」と思っている人と話す時は、別のたとえを出したほうが良いと思います。オーディエンスを無視していては、いくら良いことを言っていても、いくら「正しい」ことを言っていても伝わりませんので。

おっしゃるとおり、「自民党に任せておけば安心」はある程度崩れたと思いますが、「じゃあ、どの政党に任せたら安心なのか?」と考えてしまっている人が多いのなら、やはり誤った2項対立的な設問からは離れられていないのかなと思います。「やっぱり野党はダメだった」となってしまう可能性もあるので。

政治はスポーツ観戦ではないので、提示された選択肢の中から誰が勝ちそうか予想したり、特定のチームを選んで応援する、みたいな受け身な姿勢ではうまくいかなくて、長期的にどういう国にしたいのかを各自が考えて、腐敗を防ぎつつ、権力を分散させつつ、私利私欲や党略や保身のためではなく、市民のため、みんなのために働いて、有効な政策を実現していける未来の為政者達を、どうやったら間違えずにみんなで選んで育てていくことができるのか、みたいな問いに置き換える必要があると思っています。

特定の政治家や政党に頼っていると、たまたま上手くいったとしてもいつか必ず腐るし、間違えるので、やはり仕組みとして、全体として実現していかないといけないことだと思います。それには、政治家を定期的に入れ替えたり、有望な次世代に色々やらせて経験を積ませたり、きちんと監視して報道するメディアも育てたり、といったことを市民がみんなで考えていく必要があるのだと思います。

改革者や「ヒーロー」的なものに頼ろうとすると、「郵政民営化に賛成か反対か」みたいな、わけのわからない争点を提示されて、小泉みたいな輩を選んでしまってネオリベ政策一色になってしまう、という結果になってしまいがちです。そういう属人的な捉えかたで政治を続けている限り、同じ過ちを繰り返すだけになる気がします。。。

現状打破のためにはそういう「カリスマ」的なものに一時的に頼るしかなかったとしても、長期的には、仕組みで実現しないといけない、ということを忘れないようにしたいと思います。

そうですね、自民党か〇〇党か、という問いを立てていても、永久に、正しい?より良い?答えは出てこないですね。100%、未来永劫、自分の意見と一致して自分の思ったように政治活動してくれる集団なんてありえないですし。
『夫婦別姓』に賛成か反対か、『憲法改正』に賛成か反対か、もそう。

右派だけでなく、案外 左派からも「どっちの味方だよ?」って迫られることがある気がします。。
誤った二項対立にうかうか乗せられちゃったり、自分の考える「正義」に賛同するよう他人に迫ったり、「〇〇はダメ」って簡単に他人の意見や集団そのものを断じたりしない、という態度でいたいなあと思います。

昨晩のNスペ、アメリカ大統領選がテーマだったんですが、断絶を乗り越えようとしている市井の人たちの話で、印象に残るフレーズがいくつかありました。

「妥協する人を弱い人だとみなしてしまい、大統領や議員にはふさわしくないとされてしまう」というのも、右派左派どっちもやってしまいがちだし、エスカレートするとすごく危険ですね。

「わたし自身にすぐにできることは、攻撃的にならずに人と対話することです」と言っている学生さんがいて、本当にそれしかないなと思いました。

なんというか、物事を良い方向に動かそうとする気持ちはとても大事だけど、その過程で意見の異なる人と断絶しないようにするということがそれ以上に大事な気がしました。手のつけようのない断絶になってしまわないように。アメリカの状況を見ていると、そんなふうに感じます。


「恣意的な2項対立のフレーミングでスパッと分断する」というプロセスを、"dichotomization"というそうです。頭のいい誰かがとっくの昔に考えて名前まで付けてくれてました。

メディアは権力側のダブスタを無自覚に内面化して、例えば、同じ税金が原資の補助金でも、貧しい個人相手だと「財政負担」、大企業相手だと「経済対策」とか「未来への投資」みたいに使い分けるので、提示された設問が妥当かどうか常に気をつけていないと、簡単に印象操作されて、感情まで乗っ取られてしまいます。

他の社会問題に関する「問い」にも、バイアスや扇動の意図が隠れていることが多いので、常に問い直しが必要だと思います。

「敵か味方か」というフレーミング自体、政治闘争ではある程度は仕方ないとしても、刑事罰などと同じように、言動に対してではなく、人の存在そのものに憎悪が向かってしまうのは危ういと思います。

そういう分断工作にのせられて、市民同士が敵対してしまっていることが権力側にとって都合がいい状況なのであれば、分断の圧力に抗うこと自体が権力が最も嫌がる抵抗運動になるのでは?とすら思います。

おっしゃる通り、妥協を許さず、よく考えもしないうちに「どちらの側か」という態度表明を迫るマッチョな感じも、アメリカだけの問題ではないと思います。

はい。アメリカみたいな状況にならないためには、「断絶しない」という目標で繋がっていくしかないのかなあと思いました。

どんなに「正しい」こと言ってても、意見が異なる人と完全に断絶しても構わないと思っているような物言いをする人と手をつなぐのはちょっと怖い。逆に、どんなに意見が違ってても相手を叩き潰してしまおうとしない人なら話ができるし尊重しあえる。

番組の中でも、民主党と共和党の支持者の方が話し合っていくうちに、「お互いを尊重し合おうという穏健派のグループ」を作ろうという意見に至っていました。まったく簡単じゃないでしょうし、綺麗ごとみたいだけど、悪意を持って断絶させて得をする人たちが居る以上、そうして抵抗するしかないのだと思います。

多くのアメリカ国民が、選挙の後に何が起きるかとても不安に思っている、というような状況はとても悲しいし、反面教師としていかなければいけないと思います。


昔、プログラミングの勉強をしていた時に、"divide and conquer"(分割し征服せよ)という手法を習ったのですが、問題をどんどん小さく分割していって、容易に対応できるサイズにしてしまえば、大きくて複雑な問題も機械的に楽に扱えるようになる、という内容でした。

元々は政治用語の"divide and rule"(分割統治)からきているのだと思いますが、ご存知のとおり、統治する側から見ると、市民がお互いに対立し、いがみ合ってくれてるほうが為政者である自分に批判の矛先が向かないので、市民を分断して連帯を防ぎ、力を削ぐことで安定した抑圧統治ができる、という話なので、まんまと分断されてしまっていては、為政者の思う壺だと思います。

この国の左派は、社民と共産しか選択肢が残されていないぐらいにまで小さく分割されてしまっていて、その中ですらさらに分断が進んでいる状況だと思います。

立場の異なる人々との対話を拒絶している間に、どんどん分断され、力を削がれて、いつの間にか「攻略」されてしまっているような気がしてなりません。

綺麗事だけではなく、したたかに、頭脳的かつ戦略的に分断を拒絶し、なるべく多くの人々と連帯していくしか、右傾化の流れに勝てる方法はないような気がします。。。


そうですね。分断されているのか、自ら分断していこうとしてるのか分からない感じすらしますが。。

「頭脳的かつ戦略的に分断を拒絶する」ためには何が必要なんですかねえ。。「旗」なのか共感なのかメッセージなのか「場」なのか、(一時的でいいから)リーダーなのか、もっとぜんぜん違うものなのか。何かよく分からない不安を抱えている人も、ちょっと潔癖で意見が曲げられない人も、ゆるやかに包含していけるもの。綺麗ごともしたたかさもどっちも必要で。難しいですね。。


私は、旗とか歌とかで無理矢理一体感を出して集団をまとめ上げようとするあの感じは危険だと思っているので、シンボリズムっぽいものは警戒してしまいます。シンボルの存在自体が分断を産んでしまうケースを見すぎましたし、誰かの作りだした「旗」をそのまま自分のアイデンティティにしたり、その旗の下に戦いを強制されたり、殺されたりしたくないです。

究極的には、個々人の「権力の都合によって分断されない」という決断が必要で、それは何かに所属したり依存したりすることなく連帯できる力なのだと思います。自律性というか、主体性というか、姿勢の違いなのですが、おっしゃるとおり難しいです。。。


はい、「旗」とかスローガンって、どんなに正しくても簡単に断絶のタネになってしまいますよね。「断絶しないようにしよう」って言葉も、いままさに誰かに命を狙われている人に、その敵と断絶するなと言うのは無茶なわけで、これを「正義だ」って振りかざしてしまったら誰かを踏んでしまいます。

「分割して統治せよ」を裏返せば、「分割されないし、統治されない」

「統治されない」は、権力を与えているのは市民の側だということを忘れずに、主体的に政治参加して監視を怠らない、みたいなことだろうか。抵抗すべきは、自由と権利を奪いに来る「権力」ですよね。おっしゃるように、エスタブリッシュメントとも言ってもいいのかも。
すごくシンプルですけど、『 ’分割して統治せよ’ に抵抗する』って考えると、何と戦うべきか見誤りにくくていいなと思っています。


はい、おっしゃるとおり、権力/体制側がプロパガンダやメディアや政策を利用してコントロールしてこようとした時に、怒りの矛先をきちんと権力に向ける、間違えて他の市民にその怒りを向けてしまって市民同士が分断されてしまわないように意識して抵抗する、という話で、ハラスメントとか差別とか犯罪とかの話ではないので、上から分断されてしまわないように気をつけつつも、不正義に対してはしっかりと声をあげていくことが必要なのだと思います。

反権力、抵抗運動の象徴だったはずの「旗」やスローガンやアイデンティティが、いつの間にか他者を排除し、見下すための踏み絵になってしまっていないか、自分の怒りがちゃんと上に向かっているか、横に向かって他の市民を殴ってないか、自分よりも不利な立場に置かれた人々を踏みつけたりしていないか、そういうことに気をつけないといけないのだと思います。


権力にいいように統治されないためになるべく多くの人と連帯するには、それを守るためなら手をつなぐことができる、という共有できる価値みたいなものが必要で、それが個人の自由や、選ぶ権利、基本的人権、個人が個人として尊重されること、なのかなと思うのです。

でもこの国では、個人は尊重されないし、人権は教えられない。連帯は連帯でも、個人を認めない連帯を教え込まれるばかりなので、左派を名乗りながらものすごくパターナル、みたいなことをすごく自然にやってしまいがちな気がします。集団のルールからはみ出したり、個人の権利を主張したりする人を、市民が積極的に自警団作って取り締まってしまうようなところがある。権力側からみたらこんな御しやすい「市民」、ほかにないですよね。

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以前にも書きましたが、時おり「正義(という言葉)を軽んじるな」というような言われかたを目にして、軽んじているわけでも相対化しているわけでも価値を下げたいわけでもないんだよな…どこでこの感じ方のズレが生まれてしまうんだろうと考えています。

「正義を軽んじられている」というのは、(誰が誰に対してやっても)その行為はダメという「確認」が、あやふやで曖昧にされると感じるからなのだろうか。わたしのような態度は、断固としてダメなものはダメと言う、「断固として」の部分が足りないように見える(または本当に足りない)、のかもしれない。。
たしかにそこをあやふやにしてはいけないと思うし、被害者の痛みを軽視したり中立を装ったりするのも違うと思う。法やルールが弱い立場の人に全然優しくなかったり、恣意的に運用されていたり、まったく「正義が行われていない」と感じるのも分かります。

誰がやってもダメなものはダメだよね、という共通認識を幅広く、近い強度で共有できることが大事なのかな…そのためにはどういう態度や表現が適切なのだろうか、と考えています。
と同時に、「誰がやっても」の部分があやふやなのは、ほぼすべての人が陥りがちなことなのではないか、とも思います。。いま世界で起きていることを例に挙げるまでもなく。


「いじめはダメ」というのは行為に対するジャッジメントで、「排除する」というのは存在に対するパニッシュメントの問題です。どちらも本来幅が広く、裁量があってしかるべきことですが、自分基準で単純な世界観に落とし込んで杓子定規に「いじめっ子は排除!」と短絡的に裁きたがる人が多いです。

本来、民主主義的な「正義」を追求するのであれば、選ばれた代表によって「何がいじめなのか」を慎重に定義する段階(立法)があって、その定義に基づいて法治主義の集団に与えられた権力(警察)を使って取り締まって、訴える側が犯罪の証拠を出し(検察)、被告が弁明する機会も十分に保証した上で、その行為がいじめだったかどうかを慎重に判断し(裁判)、その後、事件に至った背景や精神鑑定や家庭の事情などを情状酌量した上で罰(量刑)が決まりますが、それを全てすっ飛ばして「いじめた奴は問答無用で排除!」となるのがネット議論の薄っぺらな「正義」なのかなと思います。

「なにが正義かわからない」と言ってる人々と、「正義が足りない」と言って状況証拠だけで一気に処罰内容までひとっ飛びして即断即決を求めるような人々、どちらも正義を軽視してると思います。

「いじめはダメ」は、いじめという「行為」に対する話でしかないのに、「世の中にはいじめる人間といじめない人間がいて、自分はいじめない側」、という世界観にいると、「いじめる奴は絶対悪」となってしまい、行為ではなく「存在」で判定して、単にその存在を社会から排除すれば良いと考えるようになってしまいます。また、自分は「いじめない正義の側」にいると勘違いしてしまうので、自分がいじめたりいじめに加担してしまう可能性も考えなくなってしまいます。


態度については、おっしゃるとおり、「いじめという行為はダメ」、断固として許容しない、という毅然とした態度をとるという話と、それ以外の様々な側面への対応もしっかりする、ということは、きちっと切り分ける必要があるのかなと思います。

いじめはダメだし絶対に許さない。しかし、いじめる側が他の誰かにいじめられていた場合、保護者からネグレクトされていた場合、虐待を受けていていた場合、知的障害を持っていた場合、精神的な問題を抱えていた場合、等々、それらは個別に対処されるべき問題です。

前にも書いたかもしれませんが、貧困でお腹を空かせた人がおにぎりを盗むのと、金持ちがスリルを味わいたくて万引きするのでは同じ犯罪でも全く違います。被害者がいるので盗みは許容してはいけないですが、杓子定規に犯罪者のレッテルを貼って罰を与えて排除すれば良いというものでもない。戦争や暴力や差別も同じだと思います。

今ガザで起こっていることに限らず、何かの被害者が加害者になってしまうことはよくあることなので、尚更慎重さが必要とされるのだと思います。

人権や正義を重んずる市民の態度については、例えば、無実の罪で誤認逮捕され冤罪で裁判にかけられた時に、「おっしゃ任せとけ。俺は1万時間、頭の中でどっちが正義か見分ける訓練をしてきた正義のプロみたいなもんだからな。悪い奴は顔見ただけで一発でわかる。立証責任とか疑わしきは被告人の利益にとか、よくわからんけど、見てみ、あのいかにも悪そうな顔、あいつが犯人に違いない。なに?量刑は裁判官が決める?んなもん俺に任せとき。そうだな、悪そうな顔してるから極刑だ。うん、極刑が相応しい」とか言ってしまう裁判員に、自分が有罪か無罪かの判定を下されたいか?と考えて、そういう態度になってしまわないように気をつけたいなと思います。(実際、これと似たようなことを平然と言ってのける人が多くてびっくりします。。。)

「誰がやってもダメ」については、hypocriteにならないように気をつけるしかない気がします。。。


少し整理がついてきました。
そうですね、これ(行為)がいじめなのかどうかという判断にまつわる問題と、どういう罰に値するかという問題は、本来まったく別個に取り扱われるべきですね。

立法も審判も刑の執行も、全部一人の人間が(または大多数が寄ってたかって好き放題に)行っている状態は、その人たちが正しいとする命題じたいに共感できる部分がたとえあったとしても、やり方としてまったく受け入れられないですね。。その「正義」か「正しさ」だかがわたしのそれと少し齟齬が生じた時点で検挙されて投獄されてしまうのでしょうから。民主主義の手順をすっとばすのは、誰がやっても、どんないいこと言ってても「怖い」です。

ずっと感じていたもやもやした気持ち悪さがやっと輪郭をもってきた感じがしています。


そうですね。まずはどういう行為がダメなのかを知ることが大切で、この段階で躓いてしまっていて、世の中の不正義に無関心なまま態度表明すらしない/できない、という人々に対する苛立ちがあるのはわかります。

しかし、行為と存在の切り分けができておらず、プロセスも軽視して他人を断罪するのなら、それは正義とは呼べないと思います。

少なくとも、裁判で行われるように事実や動機を確認し、情状酌量の余地があるか検討し、罪と罰の重さが比例しているかも考えて、さらに更生機会の保障をどうするか。各段階を切り分けて考える必要があると思いますが、全部すっ飛ばしていきなりモブによる私刑まで行ってしまうような話が多くて恐ろしいです。。。

社会的に正義を担保するのは、制度であり、仕組みであり、建前であり、公正なプロセスだと思います。

勝手な思い込みで悪人だと決めつけられてはたまったものではないです。まあ、そのために名誉毀損のような救済手段が用意されているわけですが。。。

日本の警察、検察、裁判所は、このプロセスを軽視することで、膨大な数の冤罪を産み、多くの無実の人間を処刑してきたわけです。

もちろん、司法制度の問題はそれだけでなく、刑が軽すぎると感じることも多いですし、更生支援も全くもって不十分ですし、司法制度や機構全体としてうまく機能しているとは言いがたいです。

だからと言って、独裁政権もびっくりな高い有罪率を誇る悪名高い日本の司法以下のレベルまで下がってしまってはいけないと思います。


どんな犯罪者であっても、私刑ではなく司法によって裁かれる権利がありますね。

青い芝の会の「われらは愛と正義を否定する」を思い出したりしていました。
情状酌量も、誰が誰のほうを見て何のためにするのか、高いところから「酌量が必要じゃないの」とかいうこと自体、何様なんだと思い知らされます。

人権は「愛と正義」や「思いやり」によって担保されるものであってはいけない。
でもこの国の「人権」は、自助共助できて、みんなと同調できる人にだけ与えられるご褒美のようなもの、そのご褒美もせいぜい仲間扱いしてもらえる程度で、意見を言ったり和を乱したり迷惑かけたりしたらすぐ剥奪される。
「思いやり」という言葉でコーティングしているけど、そんな良いものじゃない、実際にはハラッサーがちらつかせる報酬みたいものでしかないんじゃないかという気がします。

戦後80年になるけど、今もまだ「臣民」のまま、同じ人権を持った対等な市民になれず、「仲間なの?同じ意見なの?おとなしく言うこと聞くんだったら ”人権” 与えてあげる」というのを、年齢や性別や政治的意見に関わらず、上から下までみーんなやっている国なのかな、と考えたらなんだか落ち込んできました。。

bookstand.webdoku.jp/news/2017


総理大臣が市民をさして「こんな人たちにわたしたちは負けるわけにはいかないんです!」と言うような国ですから目も当てられないですが、自分と意見や立場が違うだけの対等な市民を「あんなひとたち」とくくって、「わたしたち」は違う、と考えるのは、あのときの安倍晋三と同じ行為だなと思います。


愛や正義や思いやりって、ハラッサーやアビューザーもそう言いますし、おっしゃるとおり、その時の多数派の気分で変わるものだと思います。

浅はかだったり、独善の押し付けだったりすることもあるし、愛や正義や思いやりの対象にならない人間はそもそも排除されています。

安倍晋三のような、市民を敵と味方に分断するような言葉は、全ての人間の代表になろうとする政治家は絶対に発してはいけないはずなのですが、アメリカ民主党のエスタブリッシュメントは平気でそういうことを言って自滅してます。

その傲慢さは政治家だけでなく、多くの民主党支持者の左派リベラルも同じで「貧乏なで頭の悪いバカが、自分の利益に反する愚かな投票行動をとっていて嘆かわしい」と思っていて、それが言葉の節々に滲み出ています。日本も同じですが。。。

経済的に苦しい人達、自分よりも教育的、環境的に恵まれなかった人達、その他の社会的不正義に晒されている人々と話をしようともせず、人権すら忘れて、相手を見下してバカにしています。

そういう人達も味方に付けない限り、選挙で勝てることも、世の中が良くなることもないというのに、本当に多くの人を敵視して、権力によってまんまと分断されていることにも気が付かない。愚かなのはどっちなのかと思います。

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