BT
こうやって、問題をより正確に定義しなおすことが必要とされているんだと思う。

こういうのは極右の常套手段だけど、相手のずる賢い戦略にまんまと乗せられてしまっているうちは、いくら議論してもどこにも辿りつかないようにあらかじめ組み立てられているわけで、恣意的な議題設定に流されずに、何が問題なのかをちゃんと考えてリフレーミングしていかないといけない。


ほんとにそうだなと思いました。
わりと多くの人が「別姓を選びたい人には選ばせてあげたらえーやん」みたいなふんわりしたイメージで「夫婦別姓に賛成」なんじゃないかなと想像しますが、そもそも「選ぶ選択肢を 国に 増やしてもらおう/与えてもらおう」ってのが間違ってて。賛成意見でも、そういう受け身の反応になるように意図されていますよね。
分かっているようでいて、恣意的な議題設定ってものすごく思考の幅を狭めるものだなと実感します。まさに、カゴに入れられて飛べなくされたみたい。


そうですよね。

議題設定を疑うって、社会問題を考える上でも基本だと思うのですが、現状が当たり前すぎて、なかなか気が付かないというか、既存の枠の外にでて外から俯瞰することが難しいです。

自分の幸せは他人の幸せとは限らないので、他者の権利や自由を侵害したり、公共の利益を著しく損ねない限りは、基本自由なのが自由主義社会、リベラリズムだと思うのですが、何かを押し付けあったり、誰の迷惑にもならないのに何かを強制されることに慣れすぎてしまっているのかなとも思います。

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言葉を選択する、名付ける側に、ものすごく権力が偏りますね。
選挙が始まると、どこの政党も大抵「今回は○○解散、○○選挙です」って名付けますよね、政権選択選挙とか、郵政選挙とか。今回石破さんは「地方創生解散」でしたっけ。さすがに取ってつけたようで苦しいな。。
国民総背番号制とマイナンバー、戦車を特車と呼んだり、退却、敗退を転進といったり、PKOの訳語は「活動」でよいのか、とか。相手の使う言葉をそのまま無批判に受け入れてしまうと、その時点で相手の土俵にのせられてしまうので、権力側が名付けたものや使う言葉はまず疑ってかからなければいけないなと思います。


はい、権力側から押し付けられるものだけでなく、euphemismは自分自身を騙して思考を鈍らせることにもなりやすいので、警戒しないといけないと思います。

まあ、地方創生は石破茂がずっと言ってきたことなので、逆にそうじゃないほうが違和感ありますが、そこから拡大して「日本創生解散」にしちゃうのはいかがなものかと思います。


あと、「既存の枠から出られない、慣れてしまっている」という点でわたしが自覚するのは、「権利は主張していい」という考えかたが芯から身についていないことです。

最近はなにかと危なっかしいNHKのクロ現ですが、なかなか良いなと思った回がありまして、地方の公共交通の衰退の話でした。ボランティアの自家用車を使ったライドシェアなんかの話のあと、同じようなサービスをフランスでも行っていると。1960年代ごろから車の普及によって公共交通が衰退してしまい、そこで定められたのが「交通権」、人が移動する権利を公が保証するという考え方できちんとサービスが設計されているよ、という話でした。それと、日本でも交通基本法策定のときに移動権が議論されたけど「時期尚早」とされた話や、滋賀県が検討してる「交通税」の話など。

わたしも地方出身ですが、こういうところで、発想が「田舎には人がいないんだからバスもタクシーもなくなってもしょうがないよね…」とか、民間企業への「お願い」ベースみたいなことになりがちで、「移動の権利は保障されて当然である」と とっさに思えない。あ、これ、要求していいんだ、って思ってしまう。
こういうのも慣れと訓練が必要だなあと思っています。

自民党が言うところの「地方創生」とかも、どうしても上から恵んでやってる感があり(それならまだマシで、単なるお友達への利益誘導にもなりかねないですが、この国。。)、根っこから思想が違うよなと思ってしまいます。
「夫婦別姓」も同じですよね。そもそも、市民が持ってる権利を「保証する」のが仕事であって、与えてやるのも制限するのもおかしな話ですよね。。

» バス廃止・減便にタクシー不足...ライドシェア解禁から公共交通の未来を考える - NHK クローズアップ現代 全記録
nhk.or.jp/gendai/articles/4874

”自家用車の普及が進み、路面電車やバスが相次いで廃止。公共交通が不便になった農村部から人口が流出しました。そこでフランスは、国民の移動の自由を守る交通権を法律で定めました。”


本来自由なはずなのに、「上」からの許可がなければ何もできないような思考回路を植え付けて、権力構造を固定化し従属させようとするのは、軍隊教育の基本ですよね。

こないだ元法務大臣の河井克行が自身の刑務所経験についてインタビューを受けた記事がありましたが、自由を厳しく制限されてそれに順応しよう頑張っているうちに、がんじがらめにされている方が居心地がよくなってしまう、というような話をしていましたが、あれはなにも刑務所の話だけではなくて、教育現場から職場、家庭、友達や家族との関係に至るまで、それこそ小さく前習えから始まって、死に方の強制まで、ひたすら自由を制限されて色々なものを押し付けられることに「順応」し過ぎてしまって、その方が心地よくなってしまっている面もあるのかなと思います。

権利の主張自体にも、本来誰からの許可も要らないのですが、誰かに良いと言って「もらわないと」なかなか主張できない。

だから政治との関係に関しても、積極的に権利を主張することを避けて、「誰かに考えて「もらって」、決めて「もらって」、お許しを「もらって」」と、許諾を前提とした、どこまで行っても受け身な言葉遣いになってしまうのかなと思います。

それは裏を返すと、決断の責任を上に押し付けているということでもあるのですが、この国に蔓延る主体性のなさ、無責任さは、そういうところにも原因があるのかなと思います。

自由がないということは、自分で考えて、自分で決断して、自分で行動した結果に責任を持たなくて良い、他の誰かに文句言ってるだけで良い、ということでもあり、不自由ではあるけれど、精神的負荷は低いので、確かに楽です。

河井克行が刑務所の中で感じたことは、程度の差はあれ、外にいる多くの人間にも似たような部分があるのかなと思います。


あのインタビューはいろいろ考えさせられました。
本当に次もう一度やったらいい法務大臣になるんじゃないかと思ってしまうくらい、とか言うとほうぼうで怒られるんでしょうが、ああいう感情の変化のようなものは、本当に「体験してみなければ絶対に分からないもの」だと思うし、それを知って言語化できる人が「刑罰のありかた」について発言するのは良いことだと思います。

誰かに決められる(決めてもらう)ことに慣れてしまうのは、本当に楽なんですよね。気に入らないときはちまちま文句を言うけれど、どうせ変わらないし無力だしって、考え 悩み 戦うことをしないで諦めちゃったほうが、エネルギーを消費しない。なんでも人のせいにしていられますからね。

「自由にしていいよ」と言われても、周りをキョロキョロしてけっきょく多数派と同じ選択をしようとしてしまうくらいには、押し付けられることに慣れすぎている。
みんなと一緒が安心だし、ほんとに「自由に」主張できる人を、異質な、和を乱すものとして排除してしまう。
押し付けられることに慣れているので、誰かに押し付けることにも抵抗がない。
自由や権利を主張しよう、と言っている人たちですら。

根深いですねえ。。


河井克行アゲインは勘弁してほしいです(笑)でも、あの人にしかできない社会への働きかけかたがあるはずなので、具体的に何かするのか、見ていきたいと思います。

「刑罰のありかた」と「排除」については、さっき投稿した「いじめっ子」に関するボイコットの件で、学校や行政へ対策を要求すること自体はとても良いことなのですが、要求内容が集団リンチの体をなしてしまっているのが危ういと思いました。

法治主義とか、もう完全に忘れて、熱狂した民衆が勝手に裁いて処刑までしてしまう、要するに私刑になってしまっています。

あの一件から子供達が学ぶのが、「悪いことをした人間は集団感情に任せて排除しても構わない」ということになってしまわないか心配です。

犯罪行為があったのなら、あくまでも法に基づいて裁かれるべきですし、教育のような公的な枠組みから誰かを排除するなら、法やルールに基づいて根拠とプロセスを明確にした対応が絶対に必要です。

なのに、間違いを犯した人、それも子供を「犯罪者」とか「悪人」のようなカテゴリーに入れて、しかも、犯罪者も含めた全ての人間に人権がある、ということを忘れてしまいがちです。

当然、「いじめ」自体が人権侵害なので、加害側の人権が一時的に一部制限されるのは仕方ないことですが、「いじめっ子」に対して、正当な裁きによらず、法の手続きも踏まずに社会から排除するという罰を与えることが正しいことだとは思えません。

刑務所を更生と社会への最適応の準備の場として捉えず、懲罰性だけを考えて運用しているのが日本の刑務所の問題だ、ということが河井克行の件でわかったはずなのに。

これが当たり前になると、知的障害者や、いわゆる境界知能と呼ばれる子供達や、家や環境に問題がある子供達をどんどん排除していくことになるのではと危惧します。

私も、いわゆる境界知能の同級生に怪我をさせられたことがあって、いまだに冬がくると傷が疼きますが、その子が排除された方が良かったとは思いません。荒れた田舎の学校でしたし、あれ以上悪い環境に行かせるのが良いとも思えないですし、決して裕福とは言えないお家の子だったので、そもそも無理だったと思います。

何かあるとすぐに排除だとか抹殺だとか、まるでファシズムみたいなことになってしまうのが怖いです。。。

日本でありがちな、いじめた子が何事もなく学校に戻りいじめられた子が転校を余儀なくされる、というようなことはもってのほかだと思いますけど、詳細が分からないにしても、あのニュースには少し怖いものを感じますね。

1000人からNOを突き付けられた子は、これからの長い人生をどう生きていったらいいんでしょう。

いったん自分から見えない場所に排除してしまっても、いつかは社会に戻ってきて同じ場所で暮らしていくわけで。懲罰だけ与えて、戻ってくる環境を与えないなら、一生刑務所に閉じ込めておくか極刑にするかしかなくなってしまいます。

ついこないだまで尊厳死で死を強制されることに猛反発していた人が、一度罪を犯した人の命を軽く扱えるのだとしたら、すごく怖ろしい。あのニュースを見て、自分がいじめられたわけでもないのに、恨みを晴らしたような、ざまあみろ、当然の報いだ みたいな「快感」を反射的に覚えてしまうような人が多いとしたら、それもかなり怖いです。。


いじめた側が、なんの責任も追わされず、反省もせずにのほほんと暮らしていくのは、私には絶対に許せません。正直、これまでの人生で、思い出すだけで未だに殺意を覚えてしまうような人間が複数います。

しかし、それが子供である以上、再発防止になるような対策を取らず、放置する保護者や教師や学校や教育行政や政治家や社会に、より大きな責任があると思います。

もちろん子供だからといって責任がゼロになるわけでもありません。当人はもちろんのこと、いじめに加担したり、傍観したりする場合もゼロではなく、止める責任を課すのは酷だとしても、少なくとも目の前にある不正義を正すために「何か」をする責任があります。

その自分の責任を棚上げして単に排除しろと要求するのは、他の誰かへの責任転嫁になってしまう場合があると思います。例えば、親から虐待を受けた子供に、暴力の連鎖を断ち切る責任を一人で負わせるのが「正義」なのか?と考えると、私はそうは思いません。

ああやって排除された子供が行き場を失って、その行き着く先を考えると、将来的にもっと多くの被害者を産むことになるかもしれない、ということまで考えてないといけないと思います。

私にも、恨んでる人間の不幸をつい願ってしまう気持ちはあります。しかし、相手の境遇次第では、その感情が消えることもあります。

金持ちがスリルを味わいたくて万引きするのと、お腹をすかした人がおにぎりを盗むのでは、同じ窃盗でも意味が全く違いますし、情状酌量のようなコンセプトはそのためにあるのだと思います。

この件で、懲罰感情的な快感を覚えた人がいたかどうかは、私にはわかりません。

私に言えるのは、一つの不正義への間違った対応や、検討が不十分な解決策が、別の不正義を産んでしまうことはほんとうによくあることだから、自分自身の正しさの判断能力の評価については、どこまでも謙虚にならなくてはいけない、ということです。

この件も、私がいつも言っている「正義の暴走」に当てはまる事例である可能性があるかなと思います。


ああ、わたしはたぶん、強烈な加害者経験や被害者経験がなく、結果的にいつも、第三者としてどうあるべきかを悩んでいるだけの人間なのだなと気付かされます。
わたしにはそこまでのいじめ経験はないので、「いじめられた側」への配慮に欠けていた、この事例でいえば、1000人で一人をボイコットする(私刑にする)ことの善悪を問うことのほうに目が向きすぎていて、そもそもの被害者の救済を(相対的に)軽んじていたところがあったと思います。そういう態度が、間接的に、Sethさんや、いじめを経験された方の痛みを軽んじることになって、反省しています。
被害者の強い処罰感情を「共有」できないというのが、わたしが一番間違いやすいところなのかなと思いますので、肝に命じます。

かくも「正義」は難しい…と、改めて思い知ります。。

法が、大人や社会が、最初の時点できちんとした対応を取らなければ、別の不正義を生むというのはとてもよく分かります。
わたしがずっと念頭にあったのは、ある高齢の加害者による交通死亡事故、加害者が高名な人物であったがゆえに、「彼が捕まらないのは上級国民だからである」という言説があふれた。わたしはあれが恐ろしかったのです。法の秩序や、人の平等や、社会への信頼に対する、一人ひとりの価値観をあっという間に塗り替えてしまうようで、すごく危険だと思った。近所の小学生から「ジョーキューコクミン」て言葉を聞いたときは本当にショックでした。

ああいう、法によらない処罰感情のようなものを、第三者的立場の「多数の」人が共有してエスカレートしてしまうことが怖い。その中にはもちろん、同じような交通事故被害者の方もたくさん含まれていることも分かります。自分もそういう被害者感情から、批判する対象や抗議の向け方を誤ったことがあるし、もちろん正当な反応である部分もあると思う。
それもこれも、「最初の被害者が救われなかった」「今までに救われなかった被害者がたくさんいる」「そこに自分の痛みを仮託してしまう」からという面もあるんじゃないかと。救われなかった苦しさをまた叩き起こされる感じは(少しは)実感として分かるので。。


処罰感情は、自分で決断することによってコントロールできます。私は、もし可能であれば、加害者に、可逆的な形で、私と同じ痛みを知って欲しいと思います。が、しかし、そんなことをしていると、永遠に報復が続いてしまいますので、自分がしたことに気がついて反省するまで絶対に許さないと決めていますが、実際には報復はしません。ハンムラビ法典の趣旨のように、過度な仕返しを抑えられる人は少ないですし。

私をいじめた人間が、私と同じ思いを味わうこと自体は理不尽ではないと思いますが、それではその人間も私と同じように壊れてしまう可能性があります。私はたまたま今まで生き延びてきただけで、同じ結果になるとも限らないです。

それよりも、加害者が更生も反省もせずに害悪を振り撒き続け、新たな被害者を産むような状況になることを阻止するのが一番重要です。それは一時凌ぎの排除や隔離では達成できません。まあ、一部の左派が言うように本当に社会から「抹殺」してしまえば可能ですが、それが「正義」なのでしょうか。

自分で殴り返せるようになった私はまだ恵まれています。加害者だけではなく、理解のない社会のマジョリティからもサンドバッグのように殴られ続けてる人もいます。

また、加害者の多くは、他の人間から受けた暴力に起因する怒りを、自分よりも下、自分よりも弱いと看做した人間に向けて暴力として再生産してしまったわけです。元々は子供で、弱者で、被害者だった人が、社会から見捨てられたが為に、感情の矛先も表現手段も間違えてしまい、いつのまにか加害者になり、社会から排除されてしまいます。どこかで誰かが止めないといけないです。

でも、矛先を間違えるのも、手段を間違えるのも、誰しもがやってしまうことです。私のTLにも、批判対象や解決手段を間違えて、無関係な人を踏みまくってる投稿が毎日流れてきます。

人権だの正義だの弱者救済だのと言いながら、「あいつらは悪人」、「自分たちは善人」と、あまりにも単純すぎる世界観で切り分けて、弱者まで社会から排除し、「原罪」が存在しなかったことにしようとする欺瞞が許せないのは、そういう浅はかで傲慢な態度も、暴力の再生産を許してしまっている一因になっていることすら理解できていないからです。


そうですね。どこかで誰かが歯を食いしばって止めなければいけない。
3人の娘さんを殺されても平和と共存を訴えているガザのお医者さんのことを思い出します。どれだけの葛藤があるか、想像もつかないです。

自分を傷つけた相手が個人や少ない人数だったら、反撃の相手を間違わないかもしれない。でもそれが、組織だったら、国だったら、社会構造だったら、有史以来の人間の「偏見」だったら、それらを相手に真正面から戦える/戦う気持ちになるだろうか。それよりも、自分より弱い人を相手に暴力をふるったほうが手っ取り早く気が晴れると思ってしまうのは分かります。というか、じつはみんな無意識に、本当の敵を見極めることをおろそかにして、自分をごまかしている部分があるのではないかとも思います。

セカンドレイプが酷い加害行為であると多くの人が知っていますが、いじめ被害者の方の苦しみを他人が軽んじたり、誰かと比較して矮小化したり、善悪や敵味方をジャッジしたりするのも、立派な二次加害ですよね。

オタクやネトウヨとかの言葉も、どういう意味で使っているのかと問い質したくなる投稿をよく見かけますけど、そのなかにいじめの被害者や、いわゆる境界知能や障害があったりヤングケアラーで学校や社会から距離ができてしまったひと、いろんな弱い立場の人がいて、そういうひとがいることを知っていてもなお侮蔑をこめてその名称で呼ぶのならば、それはその人に対する立派な二次加害なのではと思う。知らずにやってしまっているのなら、反省して、知っていく必要があると思う。

そういう雑な言葉遣いで二次加害を続けて、弱い立場にある人や傷つけられた人を追い詰め、彼らが怒りを向ける対象を間違わせ、いつか犯罪者にしてしまい、さらに排除して、何度も何度も「見捨て続ける」ような第三者にはならないようにしたいと心から思います。


鳥籠サイトでよく「ネトウヨ」や「表現の自由界隈」と呼ばれる人々と長っがいスレッド立てて何ヶ月も話してましたが、いじめの被害者、虐待の被害者、身体障害や精神障害がある人、重い病気を患った人、難病患者、貧困に喘いでる人、低賃金で疲れ果てるまで働いてる人、生活保護制度を活用してる人、色々な原因で引きこもりにならざるを得なくなった人など、様々な人がいて、みんな居場所がなくて、ネットで仲間を見つけたいだけだったんだな、と思うことが多かったです。

もちろん、なに不自由なく生きてきた圧倒的な強者なのに、どうしょうもなく傲慢で、承認欲求や自己顕示欲や支配欲のために他人を操作して差別を扇動してる人間もいますが、そうでなく、弱い立場に追い込まれてしまった人々も大勢いました。

自分が色々なものを抱えて苦しい思いをしている時に、バカにせず、甘い囁きで「君は悪くないんだよ、悪いのはあいつらなんだ」って擦り寄ってこられたら、コロっと行ってしまうと思います。

私だって、病気になって、家族も含めた全ての「人間」から見捨てられていた時に、もし誰か1人でも手を差し伸べてくれるひとがいたら、それがたとえ悪魔のような人間であっても受け入れてしまっていたと思います。

私がよく話していた「表現の自由」界隈の相互さんは、当時まだ高校生で、ルッキズムや障害者差別が原因で、同級生の女子から酷い扱いをされていたようで、女性恐怖症のようになってしまい、もう10年以上、お母さん以外の女性とは対面で話したことがないとおっしゃっていました。

そういう人をバカだとか無知だとか罵って、自己責任で見捨てて良いとは思えません。そうやって子供ですら「社会的害悪」のようなカテゴリーに放り込んで排除してしまおうとするのはあまりにも無責任だと思います。

その相互さんの投稿を最後にお見かけした時には、スーツを買ってもらって緊張すると言いながら就職活動をされていらっしゃいました。今頃はとっくに成人してどこかで働いていらっしゃるはずです。

一旦子供ではなくなってしまえば、個人に全責任が発生するという残酷なルールではありますが、あの相互さんは、これからも一生いろんなものを背負ったまま生きていくのだと思います。

社会が至らなかったのなら、社会が間違えてしまったのなら、社会がなんとかする必要があると私は思います。


以前にもここで、『弱者男性』=女性が差別抑圧され男性が極めて優位な社会において、病気や貧困や障害などによる「弱い立場」におかれた男性 の話をしたことがありましたよね。「強い」側であるはずの集団のなかにいる「強くない人」の境遇や苦しさについて。

「"弱者男性" など居ない」って言って透明化したり、どこまでも「自己責任」を押し付けていっても、本当に誰も救われない。
universeodon.com/@sethgodman/1

わたしがSNSで何か書くようになったのはたかだかここ数年くらいのものですが、たしかに世界は広がったし、いろんなことを知ったり教わったりしました。自分がいかに恵まれているかも、いかに抑圧されてきたかも分かった。
一方で、不安や恐怖や敵対意識をわざと煽ってくる力に足を掬われそうになったこともあります。そういうとき「リベラル」は意地悪だったし、右派には共感があった。

「あなたの苦しみを軽んじませんよ」というのがとても大事なメッセージだと思うのですが、それを言ってくれるのが「リベラル」ではなく、むしろ右派であることが多い気がしています。 [参照]


社会がなんとかしてあげるために、「構造」を変えるために、声を上げることも必要ですね。それとは別に、普段の自分の言動、軽々しく集団を括った「大きい主語」で語らないとか、相手の立場や痛みを想像してみるとか、頭ごなしに断定しないでゆっくり話を聞いてみるとか、自分の価値観を押し付けないとか、そういう「対人コミュニケーションにおける態度」で在ることがすごく大事なんじゃないかなと思います。

マストドンへ来てしばらく経って、なんだかここは家長が怒鳴り散らしてる茶の間みたいだなと思って、すっかり書き込むのをやめてしまっていました。自分から何も喋らなければ誰も踏まないし、怒鳴りこまれることもなくて安全だし。でも、目の前で起きていることに何もしないで放っておくことは、誰かを追い詰めたり、ゆっくりと社会を悪い方向に進ませたりすることに加担しているんだな、と思うようになりました。


リンクして頂いたスレを読み返して思ったのは、ご存知のように私は、この国では身長はわりと高い方で、体重80kgになってもまだ「適正体重」の範囲だったりしますし、見た目上は、障害があることも難病であることもわからないです。

自分から言わなければ、菜食であることも様々なアレルギー持ちであることもわからないですし、頻尿や下痢、血便といったトイレに関することでいつも悩まされて普段の外出にも困難を抱えていることや、合併症で難聴になったり、関節痛、筋肉痛が常にあったり、倦怠感で動けないことが多かったり、感染症にかかりやすかったり、日本語が苦手で、英語も中途半端で、、、と、様々な問題を抱えていて、そのことによって生活に大きな支障があることも、基本的に全て隠して生きているので、外からは一切わからないです。匿名なここででしか書かない/書けないことも多いです。

重たいものを持つと、いつも痛い指の関節や背中や腰や股関節や踵がもっと痛くなるので、「背の高いガタイのいい男なんだから重たいものを持って当然」と押し付けられたら、「そんなの健常者が持てよ」と言いたくなりますが、そう言ってしまうと難病であることがバレるので、ニッコリ作り笑顔で持ちます。

そういう無自覚なアグレッションやアビュースは、難病患者だけでなく、身体障害者や知的障害や精神障害などを抱える様々な人に日々向けられています。

さらに、調子が良い時しか出歩かないので、事情を知ってる人ですら、ベストな状態の私しか知りませんので、実際よりもかなり軽く考えている人が多いと思います。薬のせいでメンタルに影響があっても、外からは単にイラついたり、怒鳴り散らしたりしているだけの「嫌な奴」や「やべー奴」とみられてしまうので誰も助けてくれません。

今日も朝から、学歴や知的能力的に不利な立場に置かれた人々への無自覚な見下しがどんどん流れてきてイラっとしてしまいましたが、誰しも気がついていない/気が付きにくいことはあるので、無自覚にやってしまっているのは仕方ないと思います。


ですが、問題はその先にあって、「自分は人権派で、差別などせず、何事にも配慮できる正義の味方」みたいな傲慢な態度の人間から踏まれる辛さ、見捨てられる辛さは、経験してみないとなかなかわからないだろうと思います。

「大雑把な属性で括って差別的な対応をしてしまう」ことと、「相手の痛みが想像できない」という2点においては、右左は関係なくどんぐりの背比べで、「相手の痛みがわかってると勘違いして偉そうにわかったつもりになって正義だの人権だのと言いながら味方のフリしてガシガシ踏んでくる」という追加要素のぶんだけ左派の方がダブスタで冷酷に見える、というのが私の実感です。

まるでどこかの軍隊がやっているように、「悪人」と「善人」のような単純な世界の捉え方で、子供まで見捨ててしまえるのなら、そしてそれを自称「人権派」がやってしまえるのなら、この世に救いはないと思います。


「体格の良い中高年男性」は、権威や家父長制の記号になりこそすれ、配慮が必要であるとは 誰も思ってはくれず、でも「エラそうなおっさん」としての批判的な視線だけは受け続けるわけで、本当に「納得いかない」でしょうね。。わたしには想像もつかないです。。

マストドンに来てから、「リベラルにも踏まれまくっているので」というようなことをbioに書いてらっしゃる方を何人かお見かけしていて、どういうご経験なのか、わたしはどういうことに気を付けたらいいのだろうかとずっと気になっていました。おそらくSethさんと同じようなご経験をされている方なのだろうと拝察します。

「相手の痛みがわかってると勘違いして偉そうにわかったつもりにな」った言動が、誰かの絶望をさらに深めてしまうこと、どれだけの重みか今のわたしには測り知れないですが、肝に銘じます。

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