でまあ思ったのだけれど、ネトウヨを批判する良識的な日本の人々もアタシからすれば対して変わんないっすよ、と平素から腐して嫌われてるわけですが。
なんつの、ネトウヨを批判するのも投影みたいなものが多分に含まれてるんだろなと。
日本という呪われた所で生まれ育ってしまったがために、”外国人観光客のせいで京都の町がゴミだらけに!”とかいう投稿を動画で見させられると”ああ、文化がねえ”とか一瞬でも俺でも思っちゃうし。
”いやいやインフラ足りてないせいだろ”とか思い直すけれども。
@upasampada
いつも発信ありがとうございます。
私もこの国の市民は右の人も左の人もたいてい差別を内包していて視野が狭く不寛容で人権の理解が足りていないと感じています。絶対に市民全員で勉強が必要だと思います。
発信してくれる方を見かけると立ち止まって考える機会が増えます。無意味どころか、とても重要。感謝しています。
日本人は、とか限定して言うつもりはなく、人間であれば、空気を吸って吐くとか、食べ物を摂取して出すとかと同じように、我々というものは情報に囲まれていて、それを取捨選択する、ということを余儀なくされているのだけれど。
その取捨選択プロセスの際に、批判的なもの、自分という存在を揺るがす情報というのを、脅威に感じたりするんだろうなと。
なんで脅威かというと情報処理にかかるプロセスが複雑になる→時間を消費する→避けたい、というほどの機序なのかしらねと。
ザックリいうと、面倒くさい→イヤだ、と。