死や暴力の話題 

死や暴力の話を見聞きすることに対してほとんど反射的な拒否感があり、特に写真や映像で目にすることへの強い恐れというか、「見てはならない」という気持ちを持っていて、目に入りそうになるとばっと目を背けてしまう。
ニュースもなかなか読めないしツイートなども目に入りそうになると逃げてしまう。
情勢をリアルタイムで追うことは避けて、余裕のある時にちゃんと学ぼうと思っても、そういう話題を目にするのが怖くない時が来ることはないし、次から次へと悲惨なことが新たに起き続けて、とても追い切れない。
無知なまま目を背けたまま生きていることへの後ろめたさがある。
のだけれど、今日ニュースを読んでいたらその間ずっと息を詰めていた……。

死や暴力の話題 

活字中毒なので小学生の頃から新聞を熟読していたのだけど、あれは3・11の頃からだったのかな、新聞から一度離れたらそれ以来読めなくなってしまった。
テレビももとからほぼニュースしか見ない家なのだけど、わたしはニュースも見なくなり、音や光の刺激自体苦手なのもあって、テレビがついてるだけでうっすらしんどい。
それではだめだという気持ちがずっとある。

でも、残酷な出来事の詳細な記述とか、死体の写真とかにうっかり接してしまうとずっと頭に残り続ける……。

死や暴力の話題 

わたしが中学〜高校時代を過ごした2000年代は、たぶん1990年代の「鬼畜系ブーム」の名残りがまだあったのだろう、周りの人たちの間ではエログロナンセンスを楽しめるのがクールという風潮が強く、拷問全書とか自殺マニュアルとかを読んでいる人が一定数いて、わたしは耳を塞いで悲鳴を上げて逃げ回っていた。
たしかイラクで日本人が殺害された時、(それはシリアスな話題として)部活の先輩たちが話していて、殺害方法にまで触れたのでわたしが反射的にびくっとしたら、「でもこれが現実だからね、向き合わなきゃいけないんだよ」ということを言われ、先輩たちのことは好きだったが、その時ばかりは「グロを娯楽にできるくらいには暴力や痛みへの感受性が鈍麻しているだけのことを現実に向き合っているかのように偉そうに言わないで」と思った。
ショッキングな写真などを見せて、「目を逸らさないで見てください、これが現実です」と言うようなやり方って啓蒙的な意図でなされていたりするけれど、「直視する」の比喩的な意味と文字通りの意味を混同しすぎではと思う。
けれどいま(ここ十年くらい)のわたしは文字通りの意味だけでなく比喩的な意味でも、直視することができずにいる……。

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痛みや傷の話題 

(ひとことでも)ひとのからだが深い傷を受けたような話を見聞きすると、じぶんのからだの同じ部位がぞわっとするし、強い身体的苦痛を伴うであろう話を見聞きすると、その恐怖や絶望が、想像してみるというのではなくて、フラッシュバックみたいに頭の中に立ち上がるのだけど、どうもそれは必ずしも一般的ではないみたい。
だからといってひとの痛みがわかるというつもりはなく、一番絶望的なのは、ひとの痛みなど決してわからないということだ……。

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