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私は、(世間の人が映像や音楽、動画で得ているであろう)フロー感覚を、下手な小説や下手なマンガからなら簡単に得られる、なぜなら技巧的達成度低く、だらだらしているからであり、投稿サイズの一定性がメディウムよりも強くなるからだ、という認識なんだが、朗読は動画的フローが好きな人が忌避する「読解」メディウムをフローに置き換える調整なんだろう。

そこで、一旦フロー化させたあとなので朗読を倍速にする契機が得られるというわけだ。となると、倍速というのは映画・音声問わず、そこに「読解」モードを持ち込む志向だ、となる? パラグラフリーディングやページぱらぱら読みをさせろよというやつ(その人が書籍に馴染んでるとは限らない)。

ふと思ったのは、蓮實派シネフィルはやんわりと読解拒否かもしれない。読解というよりも「同一化」志向があり、それはフローともまたズレる。
世の中の倍速けしからん勢も「観賞とは同一化である」側だろう。

「同一化的享受こそが道徳的」というコードが、文学的読解のモードの一つとしてかなり根強い。

作品内においてはキャラという点、ジャンルやメディウム史においては名作という点、への愛着と関心しか持てない姿勢(大半の人がそうだし人文系読者でもこういうスターシステム信仰は根深い)って、なぜそうなるかというと(身体的・精神的)同一化が前提だからだと思う。

とすると、広義のエロス的問題系が、作品鑑賞とか読書、視聴における問われざる前提となる。

読解のステージだと現代的学知との接合や比較が暗に求められる、そこで、そうした比較や学習の契機ごと回避しようとすると、啓示宗教的同一化の教えが強まる。シネフィルはそのため自意識においては読解モードではない、というふうに整理できる。

これは、オタクカルチャーだとファンダムの「考察」が相当する。「グラスルーツだから学知拒否」という孤立化を、共同体が求めるので、知的なものは密輸入が主となる。

で、ドゥルーズをはじめとする60年代思想とは、そこで汎エロス的契機の自覚化により、エロス的だが非有機的、とかいろんなトライアルを全面化させることにあった、となるのではないか。点的認知よりアジャンスマン(エージェンシーのネットワーク)だろとなる力点をうまく説明するとこうなのかなと思えてきた。

最初のtogetterの件だが、冒頭数本はそこそこ気を引いたが、後半は凡庸な意見しかないな。

後半にある「自分の好きなペースで進められるから、漫画とか小説の方が映像よりも好き」は私からするときわめてナイーブな見解で、漫画や小説も読む時間とリズムをある程度技法や形式が規定する、にもかかわらず、読者は「自分で決めている」と思っている、ということになる。

私の場合は椅子に座ってしまえばそこから離脱できない映画館よりも「動画や映像の方がフローが構築しにくいからだるい」がある。つまり「自分の好きなペース」を強いられるバランスにマッチングがうまくいかなくなる。

音声と映像の倍速でキレるのは、人体形象とエロス的同一化の軸が強いって話になりそう。アニメマンガ考察勢がやたらキャラの身振りの分析ばかりしてることと一致。他方、ページぱらぱらめくるのは文字への冒涜!!と怒鳴る奴がいないのがあのまとめの盲点。

非人称性とメディウムスペシフィシティの問いを遠ざけ、人称性とコミュニケーションの次元が覇権を得た状況は、同時に身体的・精神的なエロス的同一化(暴力の裏返し)の契機が全面化することであり、だからこそポルノの問いも全面化する、というふうに問いをまとめた方が見晴らしがいいな。

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