特別企画 藤原辰史「切なさの歴史学」web.sekaishisosha.jp/posts/293

 “一方で、私が彼らに伝えているのは、イラク戦争や、あるいはアフガニスタンの戦争なんかであったゲーム感覚の殺人です。『戦争と農業』(集英社インターナショナル、2017年)でも書きましたが、「これを狙おうぜ」「民間人がいるかもしれんぜ」「いいや、押してしまえ」「爆発した。爆発したぜ。わっはっは」という兵士たちの画像がYou Tubeに載っています。民間人が死んでいくことを誤差と考えるシステム、ゲーム感覚として殺すことと実際に殺されてしまうこと、つまり、爆風に吹き飛ばされ、体がもげて、血が流れるだけではなく、残された家族がいること、その家族がバラバラになった死体と対面しなければならないこと、画像の上で殺した人は、その行為を褒められることはあっても、咎められることはなく、キャンプに帰って音楽を聞いたり、お風呂に入ったり、ご飯を食べたりできること。それらのあまりにも大きなギャップについて、彼らに考えてほしいと思っています。なぜなら、私たちの国はどちらの戦争でも、イラクやアフガニスタンの民間人ではなく、アメリカの側にいたからです。 ”

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 「このあいだ、小さな男の子が、不在の家族のパンのストックを食べつくし、そのあと罪の意識から逃れるために首を吊った。」

 “テオドール・ボルフという人の文章の一節です。この人は『ベルリナー・ターゲブラット』という大変有名なベルリンの一流紙のジャーナリスト。彼が、1917年ぐらいに、新聞記事で書いた本当に短い一節です。第一次世界大戦期のドイツでは76万人の餓死者が出て、その半数は子どもでした。『カブラの冬』を書いた私のモチベーションは、もうこの一文にすべてが入っています。”

 “戦争の最終的な責任というものが、本来それを引き受けるべき大人が権力と金を使って保身に走ったとき、権力も金もないところ、脆弱なところに流れていっている。子どもがパンを食べて、罪の意識が芽生えてしまうというところで回収されてしまっているわけです。これは日本も変わりません。大人がきちんと責任を取らなかった戦争は、未完のまま、次世代の子どもたちに引き継がれていきます。次世代には未来があるからです。子どもたちの未来はしかし、不都合な過去が先送りされるゴミ捨て場になっています。ちょうど、核のゴミを地中に埋めるように。”

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