アレクシエーヴィチとの対話
「小さき人々」の声を求めて
iwanami.co.jp/book/b583375.htm

V 「小さき人々」を見つめて――アレクシエーヴィチと徐京植 

以前読んだきりだったので再読。

“アレクシエーヴィチ 私は京都で千手観音を見ましたが、悪はそれよりもっと多くの顔を持ち、人の心をしっかり捕まえているのではないか。そして今、闘いの場とはまさに人間の心なのです。人間の苦悩はまだ書かれていない。人々が死んでいくとともに持ち去られてしまう。それはたとえば「従軍慰安婦」にさせられた女の人たちの、自分では表現できなかった苦しみです。数千の物語が人々とともに消えていく。私たちが無知であるということは危険です。
 私たちが書くことは人々の体験のほんの一部に過ぎない。二〇世紀とはそれだけ恐ろしい体験、人の力では救い得ないような苦悩の時代だった。私がロシア文化育ちだからかもしれませんが、行き着くところまで追っていかないではいられないのです。これを人間がやる以上はすべてを語る必要がある。悪魔に対しては鏡を差し出してその姿を映し出してやる必要があるのです。
 しかし、それは人々に醜いものを見せ、恐ろしいことで衝撃を与えようとするためではなく、愛情のある行動として、人々が尊厳を持ち、力を持てるようにするためです。私たちはやはり、人間の尊厳をもって自分をまっとうするために生まれるんです。”

V 「小さき人々」を見つめて――アレクシエーヴィチと徐京植
iwanami.co.jp/book/b583375.htm
 

 “私が関心を持ってきたのは「小さな人」です。「小さな「大きな人」」と言っても構いません。苦しみが人を大きくするからです。私の本では「小さな人」自身が自らの「小さな物語」について語っていますが、それは同時に「大きな物語」にも触れることになります。私たちの身に何が起こったのか、何が起きているのかということはまだよく自覚できていないので、きちんと口にする必要があるでしょう。手始めにせめて何があったのか口にすべきです。それなのに私たちはそうすることを怖れ、いまだに自分の過去に向き合うこともできずにいます。ドストエフスキーの『悪霊』で、シャートフがスタヴローギンと対話を始める前にこう言う場面があります。「ぼくたちふたりは無限の中で......この世の最後に出会いました。そんな話し方はやめて人間らしく話してください!せめて一度でいいから人間らしい声で話してください」”

負け戦(いくさ)──ノーベル賞受賞講演
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“これを人間がやる以上はすべてを語る必要がある。”

アレクシエーヴィチとの対話
「小さき人々」の声を求めて
V 「小さき人々」を見つめて──アレクシエーヴィチと徐京植
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徐京植 
 “「愛」という言葉もやはり一度、試練をくぐってつかみ直されなければならない時代であるような気がします。九九の悲しみのなかでかろうじて光っている一粒の石のような愛を拾い上げてきたとき、九九の悲しみの部分を捨象して、その一粒の愛を商品のように消費しようとする動きがある。それに対して、私たちはどう対抗できるのか。それこそが、この「小さき人々」の物語を書くのがとても難しい理由なんです。すなわち悲しみの原因を作ったり、あるいはそのような状況を容認している人たちが、政治犯の母の愛、チェルノブイリの犠牲者の妻の愛は素晴らしいと称賛し、それがすぐさま美辞麗句のお題目となって消費されていく構造もまた、私たちの前に立ちふさがっている大きな壁だと思います。”
 

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アレクシエーヴィチとの対話
「小さき人々」の声を求めて
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V 「小さき人々」を見つめて──アレクシエーヴィチと徐京植

徐京植
 “たとえば監獄の独房は、囚人が隣の房にいる人間と顔を合わすことが決してできないように設計されています。しかし、獄中でガラスの破片とか手鏡をたまたま手に入れると、そんなことが見つかったら残酷な懲罰を受けるのですが、独房の格子から腕を出して隣を映してみることができる。私にとって優れた文学がこの鏡の役割をしてくれた。だから死ぬまでにもし可能だとしたら、果たすことのできないかもしれない夢ですが、誰かにそんな窓か手鏡として受け入れられるような作品を書きたいのです。”
 

アレクシエーヴィチとの対話
「小さき人々」の声を求めて
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V 「小さき人々」を見つめて――アレクシエーヴィチと徐京植
第15章 長い道

徐京植
 “もちろん、「私たちすべてが被害者(あるいは加害者)だ」というような粗雑な物言いは無意味であるばかりでなく、原因と責任の所在を曖昧にするという点で罪深いものですらあるでしょう。必要なことは、縺れ合い折り重なった加害・被害関係、を丁寧に解きほぐしていくことしかありません。しかし、膨大な知的労力、忍耐力、そして誠実さを求められるこの作業は、誰からも歓迎されません。国家は単純化された公式とスローガンを好み、わかりやすい「敵」のイメージを広めることを好みます。多くの人も同様です。あなたがいみじくも言うとおり、人々は自分で判断するより、「強力な指導者」に物事を決定してもらうことを望むのです。このことは日本についても同様です。”
 

アレクシエーヴィチとの対話
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V 「小さき人々」を見つめて――アレクシエーヴィチと徐京植
第15章 長い道

徐京植
 “スヴェトラーナさん、「粗連人(ソヴォーク)」というのが「ユートピアの夢を捨てられない人」の別称だとすればそれは私自身の身近にも、私自身の内部にも存在しています。いや、あなたのなかにも存在しているのではないですか?父親に注ぐあなたの複雑なまなざし(それを「愛」と呼んでもいいでしょう?)も、私は理解できるつもりです。
 それは、近代以降の歴史に激しく翻弄されてきた私たち、「ユートピアの廃墟」に立ち尽くしながら、それでもその廃墟で生きていく私たちに共通の思いであるからだと、私は信じたい。かつての「ソ連」と「粗連人」がそのままに復活することは望まないが、せめてその「負け戦」の痛い教訓から真実を摑みたい、そうでなければ、死んでいった(殺された)数百万人の犠牲はついに虚しいものでしかなくなってしまう。私はそう思うのです。そういう私は「ユートピアの奴隷」でしょうか?”

アレクシエーヴィチとの対話
「小さき人々」の声を求めてiwanami.co.jp/book/b583375.htm
負け戦──ノーベル賞受賞講演

 “敢えて言いましょう。一九九〇年代に訪れたせっかくのチャンスを私たちは逃してしまいました。どういう国にするべきか、強い国なのか、それともまともな暮らしのできる立派な国なのか。この問いに対する答えとして私たちは前者の「強い国」を選んでしまったのです。それで今再び「力の時代」になりました。ロシア人がウクライナ人と闘っている。兄弟と闘っているのです。私は、父がベラルーシ人、母がウクライナ人です。こういう人はたくさんいます。ロシアの飛行機がシリアを爆撃しています......。
 「希望の時代」は「恐怖の時代」に取って代わられ、時が逆行してしまいました。「使い古し(セカンドハンド)の時代」になってしまったのです。
 今は「赤い」人の歴史を最後まで書き終える自信がありません......。”

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