海外作品は、名作になるほど(また古ければ古いほど)翻訳の試みが何度にも亘り行われ、そのほとんどは異なる翻訳者によってなされる。もしかしたら同じ翻訳者で新たにいちから訳し直すなんてことが世界のどこかではあるかもしれないが、僕は知らない。
とまれ結果的に、われわれ読者は、どの翻訳者の仕事でその海外作品を味わうかを選択せねばならず、翻訳にまったく意識のなかった人でさえ誰の翻訳で読むかを意識せざるを得なくなり、そこで比較・検討が行われる。
だから古典名作を新訳なんていって新たに出版する際の、翻訳者の勇気と意気込みには賞賛することが多い。そこには先達への畏敬の念と、それよりも自分の方が良い訳ができるという自負心やより良い仕事をしなければならないという気概を感じられるからだ。
たまたまタイムラインに流れてきたこんなものを眺めながら、そんなことを思うのであった。
『車輪の下(Unterm Rad)』の中の訳語をふたたび吟味する ―魚編―(1)
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