折れてました。折れてしまえることを自分で詰ってて、詰るべきではあるが、それでいいことは一つもなかった。
外出。岡田一実『醒睡』 を傍らに。絶不調中で全然句ができないが、どうにかする。
ガザを詠めない。

「南風」読みましたよ!面白かったです!AIはどこまでくるんでしょうかね……。流暢に「人生」も語ってくるようになるかもしれません……。

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ありがとうございます。問題提起として残り行数とにらめっこしてキャッチーな方に寄せました。私自身は参照性にはなるほどと思うものの、新しい基準には肯定的ではないものの、しかし、それも俳句の型式は受け入れているんだな……って感じです

実は「全データベースを持ち得る」ことを強みだと考えるのが、個人的には、違うのではないかと思っています。「循環参照性俳句」の作家、まあ、私もそうですが、人間は全人格をかけて忘れるし、覚えている。
生身の人間の学習方法はAIとは違うし、想起の方法もAIとは違う。まだらで、よわよわで、要点主義とは違う、個人的な好感で引っ張ったり、全然忘れたりするところが人間の強みです。アブダクション推論みたいな、正確性に乏しい推論を使う。そこに、クリエイティビティがある。
いまのAIは「忘れられない」のが欠点なんですよね……。弱くなれない。AIは「記号のメリーゴーランド」だと、私も思います。流暢性だけがやたらと高い。

逆に、「人間」や「境涯」は、エモさを点数化したら、AIに学習可能かもしれない……。と、なったときに人間の「事実」が作品を上回るんですかね……。
「フィクションvsアンチフィクション」みたいな、今と変わらない問題が横たわる気が、私はします……。

私は、佐藤文香や安里琉太、岩田奎、もう少し加えるならば、生駒大佑、上田信治などを「循環参照性俳句」と定義し直すのは賛成です。でも、それは、若手だけでの風であるかもしれませんが(一方で壮年の「石田郷子ライン」と名付けられたところに、「無風」を感じたりもします。ジェンダーを超えて、現状に無批判できらきらした現実に「無風」性が宿るのかもしれない)

石田郷子ライン懐かしいですね。詳しい内容はあまりはっきり思い出せないですが、界隈がしばらくざわついたのを覚えてます。
石田郷子も昭和三十年世代ではあるんですね。俳句のためにフラットにエッセンスだけを無批判に享受する手法……(俳句の手法、スタンスとしてはそれはそれで別にどうぞというところです)

子規の俳句革新運動と同じように、これまでとこれからを隔絶し、片方を月並みと呼ぶなど、古臭いものと決めつけるようなやり方を伴わないと、広がることはないと思います。もしかしたら青木さんは文芸年鑑の論中でそれをやろうとしたのかな……?と少し感じています。しかし、循環参照性俳句自体は、写生よりもずっと敷居が高いので、広がりという面では弱いと思ってます。

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