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トランスジェンダー映画祭で「ノー・オーディナリー・マン」を観ました。
死に際してトランスであることを「暴かれた」白人トランス男性ジャズミュージシャンについてのドキュメンタリー。かれの人生の「語られ方」を紐解きながら、かれを演じる役者たち(トランス男性)の演技も織り交ぜ(「語られてきた」トランス男性を、トランス男性自らが語り直す)、マイノリティの歴史実践についての映画になっている。
つい最近まで、トランスジェンダーは「嘘つき」「世間を欺いた」と誹謗されていて、それはいまも続いている。かれらは自分のアイデンティティに正直に生きてきたのに。というアンビバレントな事実が胸に迫る。
マジョリティの快楽のために語られることにより、「歴史のない」「居場所のない」ひとびととされてきたトランスのひとたちが、自らのアイデンティティを語ることの重要性。過去にたしかに存在した、そのときは孤立していても、いま語ればつながっている個人の物語。「かれは孤独ではなかった」とトランスのひとたちが語り直す。
世間の好奇の目にさらされ、繰り返し父について問われてきた息子さんが、トランスのひとびとと話すことによって、自分の考え方は孤立していなかったと述べる箇所が印象的。

フォロー

かれの死後「かれは男性で、父親で、女性の身体を持つとは知らなかった、知っていたら別れていた」と話し続ける妻のインタビュー、彼女はもう亡くなっているのかもしれないのでこの映画には新しい映像はないが、彼女はなんら隠していないのだと思う。だってかれは男性だったのだから。

chutetsu.hateblo.jp/entry/2022
こちらのレビューではたくさんのテーマを解きほぐして解説されているので、付け加えて言うことはなにもないのだが、字幕の訳に間違いがあるっぽくて日本の観客はすっと入ってこなかった部分があるかなあというのが残念。でも短い時間で、たくさんの人物のインタビューや映像を使っているのに、すごくよくまとまっている映画だった。共同体の歴史実践ってこう描けるのか~

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