当代のファンかというと違ってて、あくまでパパの方のファンであって、当代は諸々、夢想していたとおりの役者にはならなかったんだけども〜…という感じ。
自分でも、今回観劇して思いのほか感慨深く帰路につき、はてこの気持ちは何だ?ブランドが保たれて嬉しいのか?パパの存在を追えることを倅と孫に託してしまってるのか?と首をひねる。
確かにそうなのかも。
こういう見物の姿勢て、伝芸の不健康さでは?鑑賞者として不健全なのでは?て気持ちも21世紀の今は自分のうちにあって、不思議な感じ。
多分もう、自分にとって「基本そこにある娯楽」として存在しすぎていて、おらが村のウン十年に一度の大事な祭りに参加できたど!的な感覚なんかな。
12團ちゃんの不動、やっぱりこれだわトッキーが膝下生足出したの。やはりさすが若いときの記憶は残っているな〜
極力少ない露出範囲で、裸体の女体をイメージさせるの、このときのトッキーと高野聖のお玉が印象深い。基本身体見せないものだから新鮮だった。
これは初代の頃の元禄スタイル再興を目指す公演だったので、そういう「ちとお行儀が悪い見せ方」がトッキーはいい塩梅に愛嬌あってよいのだよね。
昭和末期〜平成初期は、幕末期を知る人々と直に触れ合った経験を持つ世代がどんどん亡くなっていった頃だったので、リアル江戸バイブが消えていく焦燥感があったのか、復活狂言熱心だったなあと思い出す。
復活狂言をまずは真面目に国立でやり、各役者が個人公演で実験的にやる感じ。宗十郎とか。この頃はまだ元気だったはず。あれはもう誰もできないだろな。山東京伝の黄表紙のノリを再現できる人いない。才能ある役者がいればいいってもんじゃないもんなアレは
ゆるゆると滅びゆく芸能だから、どこまで生き残るかをあがくてことを言ってたのは初代辰だったと記憶してるけど、実際もう、この頃の感触とは違う。勿論改善もあり、但し喪失もあり