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あくまで理念的には、だけど、対象者に「得しかない」線引きは差別と呼ばれない。かといってそのひとに「損しかない」線引きも、おそらく差別とは呼ばれない(不可視化され、抗弁どころか認知の機会さえ与えられないのではないか)。

両極端のうち、「いつもかなり損するし、ほぼ得しない」線引きは良識や世間体、慣例、法律が防いでくれるようになってきた(漏れはまだまだあり、より深刻なものが現れてもいる)。

あちこちで揉めごとがこれから起きる、もしくはすでに起きているのは「損得がはっきりしない」ように見える線引きで、現にだれがどれくらい損・得をしているのか、当事者からも外野からも見えづらい。

その線引きは「なんだかはっきりしない」ことが特徴で、それはだれもが「だれかがずるい、無視されている、忘れられている」とつい感じる線引きでもある。

このような線引きはすでに俗に「逆差別」とか「反平等」とか言われているけれど、その線が生み出す損得そのものより、どの対象者をどのように分割するのかわからないまま、なんとなく「線を増やすな/減らすな」という気持ちを万人が持ちうるところが厄介なのだろうと思った。

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