ビルの外観こそあたらしいが、ここの空間はレトロモダン風にしつらえられている。もとは東京中央郵便局の旧局舎で、その一部を当時のまま利用しているからだ。
博物館にしてはあたたかみのある色合いの照明、古い傷がいくつも残る木張りの床。標本や鉱物などは、眺めるだけでじゅうぶん楽しい。あまり混むことがないのも、好ましい。
東京駅付近で時間をつぶすとき、おれは大抵ここで過ごす。ミンククジラの骨格標本の前で、何時間でもぼうっとできる。
(───あいつはどうかな)
あいつは、にぎやかなところでもやっていける男だから、こんな場所はきっと退屈だろう。
きょうの打ちあわせと苦手な人混みで、疲れているのかもしれない。思考が妙にひねくれてしまう。
そんなことを考えていたのと、床板のきしむ音に耳を傾けながら展示ケースのあいだを歩いていたせいで、背後から近づく気配にまったく気づかなかった。
「……だーれだ」
「!」
おさえたボリュームで名前を呼ぶと、ようやく視界がひらけた。
うしろを振りむく。両手を上げて降参のポーズをしたスーツ姿の光忠が立っている。いたずらっぽい笑みを浮かべて。
「怒った?」
「怒った」
「ごめん、はしゃいじゃった。待った?」
「いや、おれが早く着きすぎただけで……あれ? 丸善に行ってからここに来たのか?」
「ううん、直接こっちに来た」
「はあ? なんで……」
「だって広光、前に言ってたでしょう、ここが好きだって。駅の近くはだいたいどこも混んでるから、もしかしたら人がすくない場所で時間をつぶして、それから丸善に戻るんじゃないかとおもってさ」
「…………」
光忠の簡潔な説明を聞いたおれは、ずいぶん間の抜けた表情を晒してしまったようにおもう。
胸の内側がむずむずする。おれの内面を想像して臨機応変に動いてくれたこと、いたわりを寄せてくれたことがうれしい。でも、照れくさい。なんと返したらいいのかわからない。
「いいところだね。静かで。ぼくの仕事帰りに待ちあわせをするときは、今度からここにしようか」
そんな提案をしながら、光忠はすぐそばにある巨大なマサイキリンの骨格標本を見上げた。「あー、すごい。大きい。びっくり」と、ひどく素朴な感想をつぶやいている。
「……いや、今度と言っても……きょうはぐうぜん……」
「うんうん、近くで仕事だったんだよね。銀座?」
「有楽町」
ゆうらくちょう、と繰りかえす光忠のくちびるを、おれは恋に落ちたばかりの気持ちで見つめてしまう。
「ぐうぜんでもなんでも、連絡をくれてうれしいよ。仕事が終わってすぐ広光に会えると、なんかぼく、元気になっちゃう」
光忠はキリンから視線をはずし、おれにまっすぐ向きなおってやさしく言った。まなざしに込める愛情を、まるで隠そうとしない。
こういう男と恋愛をしていることについて、ときどき、ひどく新鮮に感動してしまう。
「……家に帰れば会えるだろ」
「あはは、そうだけどさ!」
おれのかわいげの無さなど、光忠はまるで気にならないらしい。うきうきと手をつなぎ、背をかがめ、こちらの顔をのぞきこんで言った。
「ねえ、夜ごはんの前だけどさ、なにか甘いもの食べたくない? 一階の千疋屋なんてどう?」
「…………」
見抜かれたくやしさより、通じあう喜びが勝る。いつだって。
おれは光忠の手をそっと握りかえし、「……パフェが食べたい」とちいさな声で欲しがってみせた。(了)
@iknm_day
とつぜん、目の前が暗くなる。聞きなれた声がする。
「…………」
視界をてのひらで塞がれたのだ。
そう気づくのに数秒を要するくらい、おれは驚いてしまった。驚けば驚くほど派手なリアクションができないタイプなので、傍目にはごく冷静に見えたかもしれないが。
こんなクラシックすぎる手口を照れずに堂々とやってのける男、この世でひとりしかしらない。
「…………だれだろうな」
「当ててみて」
気取ったささやきと一緒に、つむじにくちびるが押しつけられる。
「まったくわからない」
「やだなぁ。さみしいこと言わないでよ」
男は愉快そうに笑い、調子に乗って耳の裏やうなじあたりにまでキスしはじめた。
「おい、待て……くすぐったい」
「ほら、がんばって思いだして」
「わかった、思いだしたから。光忠、みつただ」