1982年8月30日 当時WWF(WWE)の本拠地と言われたマジソンスクエアガーデンで初代タイガーマスクが登場、保持していたWWFジュニアヘビー級王座をかけて好敵手だったダイナマイト・キッド相手に防衛戦を行った。
当時のタイガーはWWFだけでなくNWA世界ジュニアヘビー級を保持するなど二冠王に君臨、奪取後はウルトラマン、キッド、ブレット・ハート相手に防衛戦をこなしていた。
新日本プロレスでは「ブラディ・ファイトシリーズ」が開幕しており、29日の田園コロシアム大会ではブラック・タイガー相手に防衛していたが、その夜にWWFインターナショナルヘビー級王座に挑戦する藤波辰巳と共に渡米、到着してすぐにキッドとの防衛戦となったが、MSG登場はWWF側のオファーではなく、テレビ朝日側の要請でタイガーをMSGのリングに上げたいということから、WWF会長だった新間寿氏がビンス・マクマホン・シニアに依頼して実現したものだった。当時のWWFは表向きはビンス・シニアが取り仕切っていたものの、密かに息子であるビンス・マクマホンへの移譲が既に始まっており、そのことはマクマホン一家とはつながりの深かった新間寿氏さえ知らされていなかった。
タイガーはMSGのリングでも颯爽と登場し、いつもの通りにトップロープを駆け上ってファンにアピールした。日本では大人気だったタイガーマスクも、インターネットが普及していなかった当時はまだアメリカのファンには知られておらず、微妙な反応だったものの、試合が開始するとタイガーはキッド相手に四次元殺法を披露、最後はラウディングボディープレスで3カウントを奪い勝利を収め防衛を果たした。最初こそはMSGにいた選手や関係者の夫人たちが「日本人のマスクマンなんて」と厳しい視線を送っていたが、ビンス・シニアと一緒に来日してタイガーの試合を見ていたシニア夫人が「まあ、あなた達、見ていなさい」と全員にタイガーの試合をしっかり見るように薦め、終わってみると厳しい視線で見ていた選手や関係者、観客までもスタンディングオベーションでタイガーを称えた。しかしタイガーは感慨にふける余裕もなく、同じくMSGのリングでジノ・ブリットを破ってWWFインターナショナルヘビー級王座を奪取した藤波と共に翌日には帰国して新日本のシリーズに合流、強行スケジュールぶりにタイガーもニューヨークどころか、アメリカを満喫するヒマすらなかったが、タイガーはMSGでのキッド戦がベストバウトに挙げるなど、想い出深い遠征となった。
アメリカでの大好評を受けてWWFは再びタイガーにオファーをかけるが、今度は長期にわたってのオファーだった。新日本も最初こそは日本でも大人気であるタイガーを長期にわたってWWFに送り込むことには難色を示していたものの、暮れの「第3回MSGタッグリーグ戦」ではハルク・ホーガンやアンドレ・ザ・ジャイアント、ディック・マードック、マスクド・スーパースターなど強豪外国人選手が中心になるためタイガーの出番がなく、またメキシコのUWAからもオファーを受けていたことから、タイガーを長期にわたってアメリカのWWF、メキシコのUWAに送り込むことを決定する。
11月10日に日本を発ったタイガーはメキシコに上陸、現地に来ていた平田淳嗣、ジョージ高野、保永昇男、ヒロ斎藤、グラン浜田らと再会しUWAで5試合をこなした後で、15日深夜にアメリカに上陸、フィラデルフィアに到着したタイガーにはWWFでは幹部を務めていたゴリラ・モンスーンが出迎えてくれるというVIP待遇を受けたが、メキシコとは時差があり、また飛行機の中では満足に寝れなかったことで、早くも疲れがピークに達していた。
タイガーは土曜深夜に放送しているTVマッチの収録に参加、1日かけて3週間をまとめ録りを行った。この時はWWFの幹部だけでなく、トップ選手も勢揃いし、映画撮影と同じで出番までの待ち時間も長く、タイガーは収録に来ていた当時のWWF王者だったボブ・バックランドと再会したが、タイガーがアメリカとメキシコを3往復する強行スケジュールを聴いて呆れたという。
17日にはTVマッチにも参戦して当時若手で後に”ミスター・パーフェクト”となるカート・へニングと連戦し連勝、そして19日にはWWFジュニア王座をかけてエディ・ギルバードと対戦した。エディは技巧派レスラーであるトミー・ギルバードの息子でドリー・ファンク・ジュニアの指導を受けていた。試合はエディがドリー譲りのスピニングトーホールドに苦しめられたが、タイガーが勝利を収めて防衛するも、タイガーはこの「ツアーの中で一番素晴らしい選手だった」と高く評価していた。
しかし20日の試合でマットが固かったためかレッグドロップを放った際にタイガーは臀部を負傷、21日にはギルバードと再戦したが勝利はしたものの苦戦を強いられてしまったが、そこでタイガーに長州力がツアーに合流する。長州は藤波に対して「噛ませ犬」発言をして反旗を翻しており、「第3回MSGタッグリーグ戦」には参加せず革命軍を結成するためにWWFで試合をしていたマサ斎藤の元を訪れていたのだ。長州とマサ斎藤と一緒に行動したことで気持ちもリラックスすることが出来たタイガーは22日にMSGに再上陸、藤波がWWFジュニア王座を奪った相手だったカルロス・ホセ・エストラーダと対戦、タイガーは側転してからのクロスボディーアタックを初披露して勝利を収めた。
23日には猪木と対戦したことのあるチャーリー・フルトン、ジャンボ鶴田と対戦したことのあるジョニー・ロッズとも対戦、25日にはエディと再び再戦したが、長州とマサ斎藤にタイガーのマスクを引き裂いたことで一躍ライバルとして伸し上がった小林邦昭も革命軍に参加するためにニューヨークに訪れており、そのことはタイガーは全く知らされていなかったという。そしてタイガーは日本に来日したことのないビック・レジェンドであるバディ・ロジャースとも対面、当時のロジャースはジミー・スヌーカーのマネージャーを務めていたが、この日は一夜限りの復活を果たしてリングに上がっていた。
27日にUWAに参戦するために一旦WWFのサーキットを離れたタイガーはメキシコではビジャノⅢ相手にWWF王座の防衛をこなし、アメリカに再上陸するもメキシコは高所で気圧が違うためコンディション調整に苦しむも、今度はヘビー級でWWFではマサ斎藤とのコンビでWWFタッグ王者となっていたミスター・フジと対戦、塩を投げつけられて反則勝ちを収めるが、タイガーがフォール勝ちを収められなかったのはフジ戦だけだった。
再び1日かけて3週間をまとめ録りを行ったが、その中の相手の一人がなんとマサ斎藤だった。斎藤は上手くタイガーを引き立たせる試合運びをして、タイガーが勝利を収めたが、マサ斎藤がこれから一旦日本に戻って長州と組むことを知らされていたのか、このことはタイガー自身も秘密にしており、アメリカでは放送されたものの、日本では長く公開されることがなく、後にJ-SPORTSで放送していた「WWFヴィンテージコレクション」にて放送された。
タイガーは8日の試合が終わり、本来なら9~10日の試合にも出て、10日の試合を最後に再びメキシコへ向かうはずだったが、残り2試合は急遽キャンセルとなった。それはビンス・シニアから後を受け継いでいたビンス・マクマホンの計らいでタイガーのハードスケジュールぶりを見ていたことから、WWFへ貢献してくれたご褒美として休暇を与えたのだ。
9日にメキシコへ向かい10日には初めてのオフをもらえたタイガーは心身共にリフレッシュし、ペロ・アグアヨなど防衛戦をこなして日本へ戻り、過酷だった旅を無事を終えることが出来たが、WWFへの遠征がこれが最後となった。
83年3月にはWWFは再びタイガーにオファーをかけたが、この時はタッグでキッドと対戦した際にツームストーンパイルドライバーを食らってしまい首を負傷、シリーズを途中欠場してしまい、復帰はしたものの第1回IWGPではヘビー級中心になることから大事を取って最終戦を除いて欠場、この頃のタイガーの周りにがショウジ・コンチャが個人マネージャーとして取り巻いていたことから新日本との関係は壊れ始めており、またアニメ原作者である梶原一騎も逮捕されたことでタイガーの改名問題まで取りざたされるようになった。8月10日にタイガーは引退を表明すると、直後には新日本内でクーデター事件が発生したことで新間氏は新日本から追われたことでWWFへの遠征計画は幻に終わった。
WWFでタイガーに何度も挑んだエディ・ギルバードが初来日したのはタイガーが引退した後の10月で、まだ若手だった高田延彦に敗れ、剛竜馬戦で敗れた後で負傷し途中帰国するなど実力を発揮できなかった。エディは1993年11月に怪奇派マスクマン・ブギーマンに変身してW☆INGプロモーションに参戦、1995年に薬物依存からくる心臓発作で死去した。
昨年獣神サンダー・ライガーがWWE殿堂入りを果たし、今年授賞式に参加したが、1983年のWWFは既にNWAから脱退して全米侵攻の準備に入っていたことから、新間氏が失脚していなければタイガーもWWFの全米侵攻部隊の一員となって、WWFで活躍してジュニア部門を確立させ、WWF殿堂入りを果たしていたのかもしれない
(参考資料 Gスピリッツ ARCHIVES Vol.1 「初代タイガーマスク」MSGで行われた初代タイガーマスクvsダイナマイト・キッドは新日本プロレスワールドで視聴できます)
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アメリカでも席巻した初代タイガーマスク
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