以前書いた「永遠の海」「海の味」とかは結構、悲しくなるほど渇望している他者の他者性の話だったなーと思いつつ(そして正しく愛撫の話であり、エロスの話であり、自己と他者との間にある断絶を超えられないことの話だった)、これらは今まで私の中で答えがなくて、「まあ突き詰めようとしても特に良いことがないので毎日普通に暮らしましょうよ」みたいな、一種の世界苦扱いをして終わらせるしかなかったんだけど、今回レヴィナスの思想を少しばかり学んで、他者によって傷付き、侵され、変えられてしまいながら他者に手を伸ばして未来へ吸い込まれ続けていつかは滅ぶ、その落下そのものが人生であり、その不断の「傷付き」(つまり他者によって変えられ続けること)が「取得」であり、「傷」(変化)が「得たもの」なのではないかなあ、と思ったりした。

他者そのものは得られない、所有できないのだけれど(所有した途端、それは他者ではなくなってしまうから)、他者が自分を不断に侵し、変貌させる証/徴としての傷は、確かに自分に残るんだよな、と。まあ別に傷じゃなくても、変わってしまったな、という実感とかでも良いと思うんだけど。

他者がいなければこうはならなかった、というその、我が身の内にある他者の足跡、他者の残り香、傷、というものをもって、少しは根源的な寂しさを宥めてやることはできるかもしれない。
あるいは愛撫に内在するもどかしさと渇望とを抱えて、他者に手を伸ばして未来へと落下して滅ぶ、そのこと自体を幸せだと感じるようになるか。

永遠に手に入りやしない、けれど自分を不断に変えてくる存在がいて、その様な浸潤をもって愛する他者が自らを訪い続けてくれるなら、それで良いではないか、それは一つの幸せではないか、その様にして他者に我が身を差し出して、死んでゆくことは。

今、「永遠の海」を読み直していて思ったけど、死んだらまた引き離されるのか、という不安や寂しさ、「一緒である」「一体である」ということが永続しない寂しさは、レヴィナスの思想の果てでは解決するような気がする。死は「我」的なもの、「我」に同じゅうする「我」的世界からの脱出なので。他者が死へ退引していくのを私が追いかけ、私が死んで私の世界がクローズするなら、それはつまり、私が私から脱出することを意味しているような気がする。

私が他性の世界に行くことを意味しているのか、はたまた徹底的な消滅を意味しているのかは分からないけれど、それでも、それは少なくとも彼我の間に横たわる断絶の消滅だし、全てがひとしなみになるという意味で一致でもある気がする。il y aからの脱出。

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いや、レヴィナスがそう言っているとかじゃなくて、そういう物語が書けそうですね、っていう意味です。

· · Tootle for Mastodon · 1 · 0 · 0

これ、「鳥が呼ぶもの」で同じようなこと書いたな。死っていうのは、命がこの世とは成り立ちの違う世界へ行くことだ、みたいな。

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