誰も排除しないようにするという目標を掲げる場合、そこにはある程度の「善意への信頼」が必要になるんだと思う。他者の善意を信用できない場合、私たちは安心や安全のためにその「信用し切れるわけではない他者」を排除する方向性を、完全な排除ではないとしても選んでしまう。それは仕方のないことだと思う。頭でわかってもどうにもならないものがある、その範疇にあるもののような気がする。

善意を前提とした思考やコミュニケーションではなく、悪意を前提としたそれらをおこなってしまうのはなぜか。なぜ私たちは善意よりも悪意を注視してしまうのか。その理由のひとつは、過去に受けた加害や裏切りなどであり、それはつまるところ差別被害と同義になる。なんらかの被害を受け、傷つけられ、その傷が十分に「ケア」されていない場合、その者は他者を「善意で動く者」として信用し切ることはできない。ゆえに加害者と同じ属性を持つ者を筆頭に、他者を排除する方向で自らの安心・安全を得ようとしてしまう。

悪いのはなんなのか。まずは差別行為。そしてケアが不足しているということ。差別に反対することが排除を生んでしまうジレンマの解消には、ケアが必要だということ。悪意と恐怖の克服は、他者によるケア=善意で回復しなくてはならない。

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善意への信頼を回復できないまま反差別の実践をしていると、どうしても排除の方向でものごとを進めなければいけなくなる。なぜなら「被害者の安全第一」が守れなくなってしまうから。しかし排除の方向性を許せば「属性=加害可能性」という判断基準での排除=差別を許すことにもなる。それは「誰のことも排除しない」という反差別の目的と乖離する。

差別に反対するのは、この「差別を受ける→他者の善意を信用できなくなる→排除の方向で安心安全を得ようとする→新たな差別のもととなる→差別を受ける」という循環を生まないため、生まれてしまったそれを断ち切るためなのだと思う。

そして、反差別運動をしている者ほど被害経験があり、また十分なケアがなされていないままの場合が多い。トランス差別もペド差別も、反差別という同じ目標を掲げているにもかかわらず起きてしまうのは、このような理由があるからではないだろうか。

自論に対して異論や批判がなされたときに拒絶をしてしまうのも、他者の善意を信用できるだけのケアがなされていないからなのかもしれない。反差別という目的を同じくしているのなら、自論に不足や誤りがあるなら改善したいと思えるし、改善可能なはず。しかしそれを拒絶してしまうのは、その異論や批判が自分の「存在そのもの」を否定してくるように思えてしまうからではないだろうか。

であるならば、やはりなによりも重要なのは十分なケアになる。

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