バーガーは結局は構成主義だしなあ。別な用語を使えば、常識の「潜在機能」と構造の話をしているだけであって、既存の秩序を疑っているわけではないような。
本格的に脱・常識なのはむしろフランクフルターとかダーレンドルフとかのマルクス寄りの人であるように思う。

(唐突に社会学の話)

ちなみに社会学の皆さんは小田亮さんの一連の議論て読まれてます?

学会をサボって大分になるので、「みなさん」がどうかはよくわからないですが、少なくとも僕は読んでません…

文化人類学の人なんですけど、1990年代からずっとレヴィ=ストロースの真正性の水準という概念を使って文化相対主義とか社会構成主義を批判的に再構築しようとしててエキサイティングなのでおすすめです。

このスケッチからもその片鱗は伝わってきますね!
minpaku.ac.jp/sites/default/fi

ただ、そうですね、最近、厚東洋輔が『社会的なものの歴史』で書いているのですが、社会学者というのはあるステージから「降りて」しまった人たちなのだ、という自己定義があって、僕はそこに共感する部分があります(厚東が意識しているのはマルクス主義のことなのですが、この場合「真正性」180度違いながら、社会学から見ると重なっている部分があるように思います)。

なんというか、フィクションとしての「社会」に立脚しつつ、自らそれを解体するというような、そんな営為をふと妄想したりします。

そのへん、ラカン派の臨床社会学の立場からアンソニー・ギデンズの再帰的自己に恒常性を対立軸に置いた樫村愛子2008にレヴィ=ストロースの真正性の水準を掛け合わせて二重社会論に発展させてたんですよね。そこの話が変に文化人類学と社会学の間で別れちゃってるような気がしてて。もう自分の属してる社会のことを内部からやるか、他の共同体を外部から見るかみたいなことは問題にならなくなってきてると思ってて。ステージから降りるなんてことの不可能性を認識しなきゃならないというか。

完全にではないんですが、何となくわかります。

そうですね、自分を正当化するつもりも、社会学を代表するつもりもないんですが、僕は社会学というのは根本的に間違ったスタンスで、近代社会が生み出した知性の病を象徴するようなものだと思っています。

しかし、自ら病んでいるからこそ、問題を見つけられるような点があって、そこから離脱していける人を作っていくような役割は果たせるんじゃないかなあ、と考えたりしてます。

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僕自身ははじめの頃はいろいろな宗教を学んでいましたけれど、人里離れて内省を行う隠遁生活の期間を取ったとしても、また俗世間に戻って市井で実践者となることのほうにより共感が持てるんですよね。だから当事者研究の方に向いてるんだろうなと思います。

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