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私は本を読むことは大好きで、それがちょっと行き過ぎて少し活字中毒みたいなところがあって、手持ち無沙汰の時などどうでもいいチラシからメニューに至るまで活字追ってないと時間がもたないみたいなこともあり、この間仕事のちょっとした待ち時間、机の上に置いてあった官公庁の電話番号案内みたいなものを手に持って、全く興味もない、ただ電話番号書いてあるものを熱心に読んでいる自分に途中で気がついて自分で呆れたことがあったがそれはそれとして。

議論にもならない意見のぶつけ合いみたいな中で、その人の論拠の元になってると思われる本をあげられて「それ読めばわかるから、読め」と指示される、みたいな光景をネット上でよく見かけるけど、自分の口で内容をかいつまんで説明も出来ない本を他人に薦めるなよと思うわけだが、そもそもとして活字ならなんでもいいって言う俺ですら、そういうふうに言われたものはなかなか読む気にはならないよね。しかもそう言う時は大体そう言ってる本人が自分では読んでいない、誰かの説明の受け売りだったりすることが多いのものだ。

でもこの数年、あまりにわからないことだらけな問題に触れる機会があり仕方ないから読みたくもない本を何冊か手に取ったけど、そこで改めて確信したよね「やっぱり、あんたら、読んでないだろ」ってね😅

読書量と見識の高さは比例しない。それは俺が証明しているし、故人の名を出して申し訳ないけど、児玉清さんなんかも同じだよね。まあ児玉さんと俺を比較するのも失礼極まりないけども。でも児玉さん、随分と安倍晋三を推してたじゃない?保守の立場は理解するけど、加藤陽子の本読んでてそれに感銘受けてて、なんで安倍なのよって思うじゃない、普通はさ😔 加藤陽子の何を読んだら、そうなるのよってね

本読めって言ってる方が本当はちゃんと読んでいないで、言われた方が仕方なく読んで、でも読んだらやっぱり意味がわからなかった、書いてあることがめちゃくちゃだったと言うことは往々によくあることで。ここで言えることは、「新しい教科書」を欲しがっているのは、右も左も同じだと言うことだ。真実がどうとか、科学的に正しいとか、そんなことは関係なく、自分たちの求める答えがそこにあれば(もしくはあるように感じられたら)それで良い。右側は単純化、断定化されたモノを欲しがり、左派は複雑化された、目新しさに特化されたモノを欲しがる。極の左右は結局同じ事をする。ミラーリングされているかのように。ジョージオーウェルの指摘を待つまでもなく、極の左右は互いに罵り合い、一緒になって社会的弱者や労働者階級を置き去りにし時には蹴り上げながら、空中戦に日々勤しんでいる。

少し皮肉を言うと、ついこの間、全く読む気はなかったが、一応何を言っているのか内容を確認する意味で読んでみた本は、薦めている人どころか、書いた本人ですら、自分が何書いてんのかわかってないんじゃないのか?と思われる記述のオンパレードであった。こんなの他人によく薦められるよなと呆れるばかりで、編集者、仕事しろよと思ったが、ガッツリ仕事の結果がこれだったという可能性もあり、なかなかに絶望は深い。

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