北斗信仰について引用メモ。

「その信仰方法にはいろんなものがあったわけで、北斗の字を朱書することや、 剣に七星を描くこともその一つであったろう。なかでも、最もオーソドックスな信仰方法は「四方拝」であり、それは、道教教典 『北斗本命延生経』などに記載されている。(→)
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「この四方拝を飛鳥時代の皇極天皇が、今の明日香村稲淵で行ったことを『日本書紀』が皇極元年(六四二)八月の条に記録している。それ以後、飛鳥から奈良、平安時代にかけて、四方拝は行われつづけたように思われるが、 史料では確認できない。平安時代の宮廷儀式を詳細に記録する大江匡房の『江家次第』(巻一)には、 京都の宮廷で元旦に行われた四方拝の儀式は寛平二年(八九〇)の『御記』に初めて見えると記している。(→)

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四方拝は次のようにして行われた。清涼殿の東の庭に屏風を八帳立て三つの座を設ける。北斗七星を拝む座、天地を拝む座、そして山 (父母の)を拝む座の三つである。まず北斗七星を拝む座で天皇の生年にあたる星の名が七遍となえられる。その星の名は次の通りである。
子年貪狼星 丑亥巨門星
寅戌禄存星 卯酉文曲星
辰申廉貞星 巳未武曲星
午年破軍星

(画像はdainichiji.jp/u_knowledge04.ht)

「さらに再拝して、次のような呪文がとなえられる。
賊寇之中 過度我身
毒魔之中 過度我身
毒気之中 過度我身
危厄之中 過度我身
五鬼六害之中 過度我身
五兵口舌之中 過度我身
厭魅呪咀之中 過度我身
万病除愈 所欲随心 急々如律令
(→)

「次に天地を拝む座において、北に向いて天を拝み、西北に向いて地を再拝。このあと、南の座において山陵に向かって再拝する。「急々如律令」で終わることでもわかるように、これが道教に基づく呪文であることはだれが見ても 明らかであろう」(福永光司・千田稔・高橋徹『日本の道教遺跡を歩く』)

「日本での北斗信仰は…古くから伝わっていた。 昭和四十七年(一九七二)に発見された極彩色の壁画古墳、奈良県高市郡明日香村のあの高松塚の天井には北斗七星の図が描かれている。四十九年四月には石川県羽咋郡志雄町寺山にある寺山古墳群の横山古墳でも、天井に点描されているのが見つかった。平成十三年(二〇〇一)にデジタルカメラが 撮影した明日香村のキトラ古墳の天井石にも金箔の星座が描かれていた。(→)

「『続日本紀』の霊亀元年(七一五) 八月の条によると、左京の人で大初位下の高田首久比麻呂が霊亀を献上した。その亀は、左目は白く、右目は赤い。 頸に三公 (に相当する星文。 三公とは北極星の左右にある三つの星)、背に北斗七星の文様があったとある。この年の九月から年号は和銅から霊亀に変わるが、それにはこの献上された亀が関係あるらしい。(→)

「目の色や頸の星文よりも、北斗七星の文様が、とりわけ注目されたのではなかろうか。奈良・正倉院宝物の一つに、スッポンをかたどった容器 「青斑石鼈合子」というものがあり、その背に北斗七星が金泥や銀泥で描かれていたことが、近年の科学調査で明らかにされており、この献上した亀と何か関係がありそうだといわれ、当時の北斗信仰 を考える手がかりとなる」(同)

〈青斑石鼈合子〉これだな。拡大すると反転した北斗七星が甲羅上に見える。「蛇紋岩製での形を彫り出して蓋として、腹の部分に八稜形の皿が収まるようになっている。鼈の両眼は深紅色の琥珀をはめ込んでいる。…甲羅には、北斗七星を反転した形が金と銀で描かれている」 shosoin-ten.jp/info/treasures/

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