仮に「属性≒行為可能性≒加害の危険性があること」を理由に排除することをよしとしてしまうなら、男性→女性の性加害が実際に生じている以上、男性という属性を持つ存在は排除されなくてはなりません。そもそも、この「属性だけで排除する」こそがまさに「差別」の原理です。
わかりやすい例としてトランスジェンダー差別を考えてみましょう。トランスを特定の場所から排除する言説の基盤にあるのは、まさにこの「(いまそこにいる個々のトランスが実際に性加害をするかどうかは関係なく)可能性がある=危険だから」です。
まとめます。児童への性加害を行なった者「の中に」小児性愛者が存在しているのであり、小児性愛者=児童への性加害者(の全員)ではない、ということを、まずは理解してください。この後者の理論=行為と属性を結びつけて排除することを認めてしまったら、あらゆる差別が正当化されることになります。
9月上旬のこの投稿は「ペドフィリア」などの言葉は使わずに書いていますが、上記のことを念頭に置きながら執筆したものです。あらゆる性加害に反対することと、ペドファイル差別に反対することは、両立します。両立させねばならないのです。
性加害はあらゆる属性があらゆる属性に対して行う可能性があるもので、実際にそうなっています。ペドファイルのみを危険視して排除しても「(子どもへの)性加害をなくすこと」は達成できません。むしろトランス差別などの「ほかの差別を正当化する根拠」として悪用されてしまいます。
さらに考えるべきことは、性加害のすべてが「性欲」由来のものではない、ということです。むしろ「支配欲」や「加害欲」を由来としたものが多く、支配=主従関係を構築しやすい「大人-子ども」間ではその傾向が顕著になります。