"人々は生まれながらにして、治療したり、慰めたり、移動したり、学んだり、自分の家を建てたり、死者を葬ったりする能力を持っている。この能力のおのおのが、それぞれひとつの必要(ニーズ)をみたすようにできているのだ。人々が商品には最小限頼るだけで、主として自分でできることに頼るかぎり、そういう必要(ニーズ)をみたすたの手段はあり余るほどある。こういう諸活動は、交換価値を与えられたことはかつてなかったけれど、使用価値を持っている。人間が自由にそういう活動を行うことは、労働とはみなされない。"

イヴァン・イリイチ著 渡辺京二/渡辺梨佐訳
『コンヴィヴィアリティのための道具』1989

この本には、わたしたちが「自分の手で出来ることはやってみよう」と取り組み始めた根っこになっている違和感の、構造的な理由について書いてあった。

寝落ちしながらも、ジリジリジリジリ読んできて、分ったつもりになって飛ばし読みしなくて、良かった。
イリイチはここまでの過程で、わたしたちの「道具」が利便性をもたらす姿から、拡大し、システムとなり、わたしたちを奴隷にする過程と、その境目、どのような姿になるとわたしたちの自立共生(コンヴィヴィアリティ)を損なうのか、について書いています。

たとえば、わたしたちの生活を豊かにしてくれた自動車ですが、自動車が整った道路を要請し、道路網が拡張していく過程で、「車は距離をつくりだす」「徒歩と自転車にとっての環境を破壊する」と言います。
集落にひとつはあった商店が消える。商店街が寂れスーパーマーケットすら潰れて、郊外型マーケットだけが残る。技術は進み、さらに早く、空も飛びます。いずれわたしたちは、それを利用せねばならなくなるでしょう。そのために一生懸命働くでしょう。

人口減だけではない。車社会になったから、と云われるこの現象を引き起こしているのは車という「道具」。
自動車を否定する必要は全く無いけれど、人が道具の奴隷にならないためには、知っていること、コントロールする側であること、が必要なのだと思います。

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中国の人々が、人民服を着ていたころ。
「朝の景色」として自転車の大群が写されていた。

もちろん鉄道網もあったけど、正に大動脈。広大な大地を繋ぐ事が目的だった。
人々の「足」は自転車。 住居も、工場も、農地もその行動範囲にあった。

『貧しい姿』の扱いだったし、高度経済成長後の日本には素敵には映らなかった。

でも、アレこそが「人間の暮らし」の正しい姿だったのだ、と思う。

排ガスは問題にならない、「危険な工場」や、原発は作れない。
もしもの時は、人間の暮らしは全て成り立たなくなるのだから。
なんせ自転車で行ける範囲に「全て」があるから。

所が、中国政府自身がソレを否定する。
「工業立国」の道を選ぶのだ。

この国土の狭い日本は、戦後直ぐに「工業立国」を邁進した。
中国は広大だから、人民を飢えさせる事なく工業と農業を両立させたが
日本に同じ事は無理だ。
その上、アメリカ追従がスタンダードだから自動車🚗と、道路の整備が先行して
第一次産業は衰退の一途を辿る。
生き残りを賭けた農業、水産業が生み出した「付加価値」が、工業すら衰退する日本の「売り」なのは、強烈な皮肉だ。

原発に代表される「電気神話」がまやかしなのも、指摘しておきたい。

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