YOASOBIの「英語詞で韻を踏んでないからだめ」という議論は英語を第一言語としないソングライターによる英語詞をどう評価するのかという方向にいかないと「ネイティヴスピーカー」を絶対的な権威におく日本における英語受容のヒエラルキー(英語への無関心とコインの裏表だと思う)に吸収されてしまう気がする。多くの議論が「英語圏で生まれ育った英語話者が書いた英語詞」と「J-POPの英訳」を素朴に対照しているのはなにか居心地がわるい。

世界には「英語話者ではないが英語で表現をするソングライター」ってそれなりにいるはずで、そうした人々が英語による押韻を自分のものにしていたり、あるいはそれにとらわれずにユニークな表現をしていたり、というのを見ようともせず、英米の「洋楽」にばかり目を向けるのは不健康だと思うにゃんね。

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正直そういう違和感はありますよね。同じ英語詞でもローカルな解釈と変形が行われるのは自然なことであって、それを「英語圏の押韻構造に則ってないからダメ」というのはあまりに理論が先行しすぎではないかと。

「英語圏のオーディエンスに受け入れられるためのローカライズ戦略として必須」っていうならそれはまさにそうだと思うんですけどね。とはいえそういう話をする前提にまでも至ってなさそう、というのが一連の流れをざっと見ての感想というか……

まさに英語圏に受け入れられるように作品に改変を施すことは一種のローカライズなんだという視点が欠落していて、結局鎖国か開国かみたいな昔ながらの枠組みを反復しているというか。同じ英語詞でも、英米で受けたいのか、中南米で受けたいのか、東南アジアで受けたいのかで全部戦略が変わってくるわけで。まぁテクニカルで細々としたマーケティング戦略の話まで皆の共通理解になるべきかとまでは思わないですが。

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