「律川村においても、宗族リーダーが存続した。このことは大躍進期の飢饉時において農民たちが生き延びる助けとなった。律川村では宗族リーダーは外部のリーダーには取り替えられなかった。この村は自然条件に恵まれ農作物の不作を経験してはいない。しかし、1959年から1960年に人民公社はすべての食糧を徴収していき、食糧の供給はきわめて限られていた。これは人為的な理由による飢饉を引き起こした。しかし、程金華などの宗族リーダーは、その智慧と宗族の結束力をもって困難を乗り越えることができた。第1に、人民公社から稲の種の配給があった際に、種を食用とすることを罰さず、飢餓から逃れるために種もみを食べさせた…次に、リーダーたちは勇敢にも収穫量を低く申告した。それでもやはり、過少申告と転用では限られた量の食物しか確保できず、食堂を数日しか運営できなかった。結果的に律川村のリーダーは食物を隠すという第3の戦術を使用した。人々は以前に祠堂であった食堂に大量の棺桶をおき、その中に大量の里芋を隠した…伝統的に祠堂にある棺桶に外部の者が手を触れることは不適切であると考えられていた…大躍進期に律川村では餓死者は出なかった。祖先の庇護を受けた里芋はすべての子孫たちの命を救った。このように宗族リーダーの存続、宗族の結集力がこの奇跡を起こし135
「1949年から1979年までの間、政治権力を用いた国家による再構築の努力は、国家と農民の間に理想的な社会契約を構築することを目的としていた。そのような再構築は宗族システムの解体を要求していた。なぜなら新しい社会契約の安定性は、農民の忠誠心が伝統的な血縁に対するものから現代の国民国家へのそれへと切り替えることにかかっていたからだ。しかし、老瞿村・東于村・律川村の研究は、政府は宗族によるリーダーシップを一時的には破壊したが、伝統的な宗族共同体そのものが根本的に揺らぐことはなかったことを明らかにした。…農民は、中国社会の近代化のプロセスの中でもっとも近代性を備えておらず、かつもっとも権力がない集団であり、農民たちの利益は守られる必要があった。そのために、大躍進運動や粛清運動といった経済政策や政治運動に起因する国家による社会契約の破壊が進んだ際には、農民たちは伝統的な社会資源である宗族に頼るしか、自分自身の利益を守り生き延びるための方法はなかった。さらに、農民たちは、大躍進運動から教訓を得て、その団結力は、国家権力の増長に伴い皮肉にも伸長した。…政治権力は、血縁と地縁を基盤とする個人間の連帯を切断することができなかった」140頁
Dube, Leela. (1986) “Seed and Earth: The Symbolism of Biological Reproduction and Sexual Relations of Production,” in Leela Dube, Eleanor Leacock and Shirley Ardener (eds.), Visuality and Power: Essays on Women in Society and Development, Oxford University Press, pp.22-53. =長岡 慶・押川文子訳「種子と大地——生物学的再生産と生産における性的関係をめぐる象徴性」、170-97頁
「前期の首長墳について、その分析結果をまとめると、おおよそ次のようになる。
・古墳時代前期(5世紀中葉以前)において、各地域の中心となる首長墳の中核部分に熟年女性が単独で埋葬されている例、複数埋葬のうちの中心人物が熟年女性である例などを含めて、女性首長の存在は、九州から関東にまておよぶ。
・副葬品からみて、地域政治集団の女性首長は祭祀権だけではなく、軍事権・生存権をも掌握しているとみられ、同時期の男性首長と同様の主張権を持つ。
・小集団を背景とする女性小首長の中には、祭祀的・呪術的性格の濃いものも含む。
・成人男女2体の首長埋葬や、男性首長につぎ第2の地位を女性埋葬が占める例も多く、首長権の一部を分担した女性が広く存在した。
・男性首長の単独中心埋葬は、女性首長例に比べてわずかに多い程度で、男女2体を中心部に埋葬する例よりは少ない。
・大王墓を含む巨大古墳の多くは、現在も発掘が制約されていて、被葬者の性別を判断できない。
…日本の古代に、女性首長がまれな例外としてではなく、男性首長と肩を並べて広く存在していた、ということだけはほぼ間違いなくいえよう。『風土記』の伝承には、それを生み出すだけの現実的背景があったのである」212頁
「『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』といった書物からわかる日本古代の婚姻は、妻問婚といわれるものである。ツマというのは、一対の片方をさす言葉で、男からみた妻もツマ、女からみた男もツマである(この用法は、現在でも短歌の世界などには残っている)。男女どちらかが、自分の気にいった相手に『あなた、わたしのつれあい(ツマ)になってくれませんか?』と求愛・求婚の問いかけをし、相手がOKすれば、ただちに2人はむすばれる。結婚生活がはじまっても、普通、すぐには同居しない。それぞれの親・兄弟と生活・労働をともにし、夜になると相手方に通い、朝には帰る。男女どちらからの通いもあるが、多くは男が通った。子どもが生まれると、自然の成り行きとして、母方で育てられる。子どもが何人か生まれるころには同居するが、ずっと通いのこともあり、同居に至る前に関係が切れることも、同居後に別れて出ていくことも頻繁にあった。夫婦関係は、のちの時代とは比べものにならないくらい、流動的だったのである」228頁
「律令制以前には、男女を交えた集団労働が行われ、生産物は集団的に貢納されていた。男女個々人を厳格に台帳上で識別する必要はなかったのである。しかし、律令租税制のもとでは、調庸は人頭税として成人男性の一人一人に課される。実際には女性の生産物であっても、男性の名前で納められ、効率的・計画的な国家財政システムの構築が可能になった。徴兵制の成立と戸籍制度の成立は密接不可分で、成人男性を画一的に徴発する律令軍団制も同時に整った。奴婢は氏姓をもたないことで一般良民と区別され、さらに男女で法制上の扱いが異なるので、戸籍上の婢の名前にはすべて『メ』がついている。女性名接尾辞『メ』は、それまで集団として生存していた人々の一人一人について、生物的に男・女の区分(セックス)を判定し、それを公的負担上での”男””女”の区分(ジェンダー)に転化・明示する意味をもつ記号だったのである」243頁
「いわゆる『姉妹型一夫多妻婚』とは1人の男性の複数の妻が姉妹同士であることを指している。そのような婚姻形態は、古代の世界各地のさまざまな民族における一夫多妻婚の段階にしばしば見られる。例えば…中国の周代の『腰制』はそれである。そしてこのような婚姻形態は春秋時代にも引き続き見られた。…日本の『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『日本後記』『先代旧事本紀』などの古代史料の中でも、こういった婚姻形態は枚挙にいとまがない。…中国古代の魯と斉の国の間の婚姻は、日本の古代文献に記載される『姉妹型一夫多妻婚』という婚姻形態からいえば同じである。しかし中国の場合『姉妹型一夫多妻婚』を行う一方で『同姓不婚』という婚姻規則を貫いているのに対し、日本古代では『異母兄妹婚』が普遍的に見られることから、両国の婚姻形態・婚姻規則は異なる性質を持ったものであるといえる」246-7頁
「父系制社会では父方平行イトコ婚、母系制社会では母方イトコ婚が禁忌される。父の兄弟とその子供および母の姉妹とその子供は自己と同じリネージの人間であると考えられているため、平行イトコ婚が禁止されている社会では、社会的血縁関係は父系と母系に分かれるばかりでなく、父系親族・母系親族どちらもがそれぞれリネージとなり得る。つまり血縁集団構成員資格(membership)の継承・伝達においては父系と母系が独立した位置に置かれているのである。このような血縁構造は『双系出自』(『二重出自』、『両系出自』/bilinear filiation)といわれる。この『双系出自』(『二重出自』、『両系出自』)はすべて平行イトコ婚を禁止し、父と母の血統が分けられるのを前提としているのである」253頁
「中国古代の魯・斉両国間の婚姻は生物学的に近親婚である。しかし、『同姓不婚』の婚姻規則は、両国間で行われたような『姉妹型一夫多妻婚』による近親婚を父系宗族の範囲外で行うことにした。このような族外婚制は血縁親族の構成員を血族と姻族に分け、父系と母系という異なる血縁系統に分けるという重要な役割を果たす。まさにこのような意味において、中根千枝氏は『族外婚』を父系制・母系制と連動した重要な婚姻規則であると考えている。
中国古代における『同姓不婚』を前提とする『姉妹型一夫多妻婚』とは異なり、日本古代社会では『姉妹型一夫多妻婚』と同時に『異母兄妹婚』も広く行われていた。…このような婚姻は平行イトコ婚でも交叉イトコ婚でもなく、父方から見ても、母方から見ても文化人類学的には族内婚と見なされる。このように日本古代社会における『姉妹型一夫多妻婚』は『異母兄妹婚』と同時に現われるところにその重要な特徴がある。…日本では血縁構造を父系・母系に分かつことはできない。それは『母系制』『父系制』『双系制』のいずれでもない。つまり『出自』系統は持たない。無系的および血統上での未分化のキンドレッドの範疇に属するべきものである」255頁
「日本では、女子も祖先の血統を受け継ぎ、結婚後も男性と同等な『血縁集団構成員資格(membership)』を有したということである。皇族には、同一祖先の下の男性と女性が含まれるということになる。…したがって、こうした血縁集団は血縁の『系統』を持たず、それゆえ『母系制』『父系制』のいずれでもない。そして『双系制』は単系を前提としている以上、日本古代の血縁集団は『双系制』でもなかったはずである。
また、この社会では、父の兄弟または子女との婚姻が普遍的なものであったために、西野[悠紀子]氏は『父系近親婚』と名づけた。しかし著者は、このような婚姻形態のもとでは必然的に父方の近親婚だけでなく、母方の姉妹とその子女との近親婚も存在していたと考える」262頁
「中国では『同姓不婚』という婚姻規制によって、その血縁集団構造が典型的な父系単系出自集団となった。これに対して、日本古代では同父同母の兄妹婚は禁忌として排除されたが、同父異母・異父・同母の兄妹は通婚範囲内にあった。しかも女性を血統上排除するという中国のような規制がなかったために、血縁は父方母方双方を通じて無限に拡散することになった。ゆえに、日本では祖先からの血縁の『系統』をたどるような出自集団が形成されなかった。したがって日本古代社会の血縁集団は無系あるいは父母双方の血統が未分化の状態にあるキンドレッド構造であり、それ以外の母系制・父系制・双系制出自集団や父母双方の血統が分化した『双方親族集団』とはなりえなかった。日中両国の互いに異なる血縁集団の構造はそれぞれ異なる婚姻形態・婚姻規制によって規定されたのである。婚姻形態・婚姻規制が異なれば形成される血縁集団の構造も異なる。血縁集団の構造は直接に婚姻形態・婚姻規制によって規定されたのである」264頁
「日本の伝統的家族は、社会政治的な制度というよりはむしろ、ビジネスのためのユニットだったようなのである。儒教道徳は、もともと中国では政治的な目的を備えていたのだが、日本では経済的目標へと方向づけられ、家父長はビジネスリーダーだった。他方、両者の間のきわめて示唆的な類似点は女性の地位が低いことであり、これは大部分において儒教からの影響だったといえる。
…ベトナムの伝統的家族は中国の大家族にみられたような社会政治的制度の性質を備えてはいなかった。…各村落は血縁によって直接結ばれた核大家族(親族集団)の成員によって構成される村の諮問会議(族表〔tôc biêu〕)という独自の自主管理のメカニズムももっていた。儒教は、こうした村落共同体の日々の活動において、比較的小さな影響力しかもっていなかったといえる。…
こうした村落組織において、家族の一般的形態は準ー核家族(semi-nuclear family)とよべるような何かだった。両親と祖父母は一番上の息子と同居し、他の息子や娘たちは原則、結婚して別の家庭を築くのが習わしだった。…血縁で結ばれた拡大家族(ゾンホ〔dong ho〕)のつながりの強さは、実際には感情と相互扶助の側面だけにしかみることができなかった」286頁
「宗族をめぐる子どもたちの序列は、南北でずいぶんと違っている。まず南ベトナムでは『長男』や『長女』を表す特定の言い方がない。一番上の子は『次男』や『次女』、つまり2番目の子とよばれるのである。そしてこの序列にもとづいてさらに下の子どもたちが数えられ、最後は『末子』となる。北部なら、子どもたち世代の代表者はあくまで長子であって、より多くの遺産を相続すると同時に、年老いた両親の世話と先祖祭祀の責任を負う。これと対照的に、南部では、この役目を引き受けるのは末子となる。両親は末子の家に同居し、その死後の供養をするのも末子なのである。息子がいない場合には末娘がその役に当たることになるが、この場合はふつう末娘の結婚相手(義理の末子)が供養を行うことになる。遺産相続はふつうすべての子どもたちの間で均等に分割されて行われる。もしいくぶんかの優先権が与えられることがあるとすれば、それはやはり末子に対してである。したがって南部においては、年長の者に敬意を払うことが当然視されている一方で、『長子優先(trương thương)』の原則が何らか実効性をもっていないことになる。そして、まさにこうした事実が、南部の農村部において、家族の核家族化のプロセスを容易に加速させたといえる」291頁
「近世前期の嫁は、生家の財産を継承することを前提として生家の檀那寺を婚家に持ち込んでいた。嫁は財産に付随した先祖祭祀を主体的に担うことを期待されていたといえよう。さらに嫁が持ち込んだ檀那寺は子どもに継承され、先祖祭祀も子どもに継承された。しかし、一家一寺が浸透するなかで、嫁の持ち込んだ檀那寺は子どもに継承されなくなり、続いて嫁が持ち込んだ檀那寺も婚家の檀那寺に変更される。
持ち込み半檀家から一家一寺への転換において、他家に嫁いだ女性が生家の檀那寺を持ち込むことは否定された。そのことは、嫁いだ女性が生家の先祖祭祀を主体的に行なわなくなるとともに、先祖祭祀の根拠である財産も継承されなくなることを意味していたと考えられる。嫁入婚が支配的な社会においても、財産や先祖祭祀の持込みを背景に女性の婚家での地位は低くなかったと思われる。しかし、女性が生家における継承権を失って生家帰属から婚家帰属となっても、婚家においては依然として主体的な継承権は与えられず、女性の地位は相対的に低下したのではないだろうか」311頁
「社会学的家研究は、家の本質を生活保障の場としての経営体と見なす『経営体としての家論』(有賀…)、超世代的に連続する直系家族と位置づける『直系家族としての家論』(鈴木…)、普遍的概念である家長的家族とみる『家長的家族としての家論』(戸田…喜多野…)に大別される。従来の理解では、これらの説の相違点ばかりが強調されてきたが、意外にも基本的に認識では共通点が多い。
第1の共通認識は、<家業と家産の維持>を伴うものを家と捉えている点である。…第2には直系親族または嫡子により<一子相続>される点である。…第3はこれらの特質を持つ家は世帯構造の点から見ると直系家族になると捉えたことである。
さらに上記の特質を持つことの大前提として家は<永続的に存在するもの>とみなされてきた。…
つまり、①世代を超えて永続すること、②家業・家産を維持すること、③相続は一子相続であること、④世帯は直系家族構造をもつこと、これらの特質を備えた世帯が家と考えられてきた」313-4頁
「〈『家(Chia)』と家族〉…
中国語で『家庭(Chia-T’ing)』と訳される家族という概念は、実際には外国から輸入されたものだといわれてきた…これまでのところ適切な英訳がなかった家こそが、『家族』の真の本質である。家族研究者はまた、1947年に費孝通が提案したように、家の定義には伸縮性があるという点に合意している。家は、もっとも近しい夫婦家族単位(conjugal unit)のメンバーのみに主観的に限定されることもあれば、同じ父系親族集団に属するメンバーや、出身地が同じ人、同じ政治的利害関係にある人にまで拡大されることもある。王崧興は、家という概念はその定義が柔軟であるのみならず、家庭(domestic unit)と『家族(ジャズー、family)』という概念では性質が異なることを示した。王によれば、これら相互に関連する2つの概念の根本的な違いの根底には、中国の家族制度に埋め込まれた構造的な特性があるという。つまり家庭は家族分裂の産物であり、社会組織の不可欠な基本単位として、その重要な役割において本質的に排他的な性格をもつが、『家族』は、家族融合の自然な発展過程から生じた概念的な単位であり、本質的に弾力的で非固定的である」414-5頁→
(承前)「既婚の兄弟の房はルーツが同じということで家族が融合するように、父系継承が存在することで『家族』のメンバーシップを定める根本的なルールが維持される…したがって同じ姓をもつ親族集団、(父系親族集団)のネットワークに関係するあらゆる親族関係が、『家族』という概念には含まれうる」415頁