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「一般的に女性の『本質』がそのセクシュアリティと同一視される状況があった。女性の本質は罪深いものとみなされるのが一般的だった。ある文献では、すべての始まりのとき以来、すなわち創造主が最初に5大元素と3つの世界を創り、次に男女を創造したそのとき以来、女性は罪深いものだとされた…女性は剃刀の刃、毒、蛇、火を1つにしたものである…人間が創生されたとき、マヌは女性に、嘘つき、怠惰、宝飾品への見境のない執着[😅]、怒り、卑劣、不実、また不品行を割り当てた…シャタバタ・ブラーフマナではすでに、女性、シュードラ、犬、カラスはいずれも、嘘、罪、暗黒を体現したものと述べている…女性の生来的な性質が卑しく邪悪であるという観念が広く浸透していたために、仏教文献にもその言及がある。あるジャータカ物語(本性譚)では、女性というのは邪悪と狡猾さからなる性なので、嘘を真実とし、真実を嘘とするとされた…他のジャータカ物語では、『怒りこそ女、悪口のかたまり、仲違いと闘いを煽るもの』と述べられている。女性は本能によって動くもので、その激情はとどまるところを知らないのである」30-1頁

「初期インドの家父長制国家は姦通を社会における大『罪』の1つとみなした。この時代において、仏教文献では、罪については2つの機能のみが親族と結びつけられている。その1つは家族に対する罪を犯した者、すなわち姦通者を罰することであり、もう1つは財産に関する罪を犯した者、すなわち盗人の処遇である。国家の成立以前においてもすでに、女性のセクシュアリティの統制は、政治的権威を付与され氏族を構成する男性共同体の関心事であったとみられる」38頁

「国家の成立後、バラモン教の規範的文献、および準世俗的な文献であるアルタシャーストラが、性規範の違反に関する罰則を定め、王はそれを執行することが期待された。これらの文献は、男性としての宗教的義務を果たすために子孫が必要であり、『正当な』相談を行わなければならないという、夫たちがもつ一般的な心配事ともに、カーストにもとづく階層的社会秩序の維持に関する懸念をも反映している。カーストは、浄ー不浄の原則を侵すことなく再生産されなければならなかったのである。カーストの再生産の責任が女性に課せられることで、姦通の意味はより重くなった。マヌは姦通に関する記述において、以下のように断定する。『姦通により、人々の間でカーストの混合が引き起こされる。その罪は、根さえも切り刻みすべての破壊をもたらす』」38-9頁

「男女の結合に関するカースト規範に未婚の少女が違反した場合は、それほど咎められない。マヌの考えでは、高位カーストの男性を誘惑する『少女』を王は見逃すことができるという(つまりこれは明らかに許される過ちとされていた)。だが、低位カーストの男性と交際する少女は家に閉じ込めておくべきであるという…少女の罪はパティブラターダルマに違反していないため、妻の罪よりも軽いのである」40頁

林由紀子(1998)『近世服忌令の研究——幕藩制国家の喪と穢』清文堂

「中国と日本古代の[服忌令の]このような大きな差異は、親族組織および婚姻形態における彼我の相違にもとづくと考えられる。
 第1に親族組織であるが、古くから中田薫・牧野巽両氏によって、養老儀制令五等親条が唐礼の五服制を模倣したものであるのに対して、養老喪葬令服紀条はわが国固有の親族制を反映したものであることが指摘されている。そして中田薫氏は、わが国固有の親族制の特徴として、(1) 母党母族が中国におけるよりもはるかに高い地位を占めていること、(2) 姻族関係が最小限度において認められているにすぎないこと、(3) 親族分類法として独自の分類法、すなわち直系尊属以外の親族は、己系・父系・祖系の3系を通じて、その始祖に対する各親の世数に従って、これを縦に類別する方法がとられていたこと、を挙げられる」51-2頁
↑ 中田 薫(1943)「日本古代親族考」『法制史論集』3

「日本古代の親族組織は、中国のそれと異なっており、服紀条にはそれが反映されていたといわれているが、第2に、婚姻形態も中国のそれとは相違していた。
 中国の婚姻形態は、妻が花轎(紅色の装飾を施した花嫁用の駕籠)に乗って夫の家に迎えられるという方式に端的に示されているように、妻が婚姻によって夫の宗に入り、これに所属することになる、というものである。すなわち嫁入婚であった。
 これに対して日本古代の婚姻形態については、周知の通りさまざまな議論がなされていて定説を見ないが、多くは妻問にはじまり、やがて夫婦関係に至るものの、必ずしも夫方居住ではなく、妻方居住や独立居住も少なくなかったとするのが、現在における一般的見解かと思われる。
 したがって古代の日本の婚姻形態は、中国のような婚姻によって妻が社会的に夫の宗に帰属する婚姻形態とは異なっていたと考えてよいであろう。日本では、多くの場合、婚姻によって妻が夫方の集団にとり込まれるのではない、ということが、親族組織の相違と相俟って、中国の礼制とは異なる、妻から見て実家中心的な令の服紀令を生み出したといえよう」52頁

「近世の嫁入婚における出稼女の生家帰属と関連して、従来、次のような研究がなされている。
 ①民俗学の研究によって、嫁入後も生家とのつながりが強固である婚姻形態——たとえば嫁のセンタク帰り、ヒヲトル嫁など——が存在したことが知られている。
 ②社会人類学の立場から清水昭俊氏は…特殊な嫁入婚だけでなく、一般的な、妻が夫の家に入る嫁入婚においても、嫁は、時期によってウェイトがどちらに置かれるかの差はあれ、婚家と生家に両属するものであったと指摘されている。
 ③江守五夫氏は、これを両属とみるのではなく、出稼女が婚家に帰属する嫁入婚の他に、出稼女が生家に帰属する嫁入婚が、古くから存在したのであると主張される。
 ④洞富雄氏は、古代から明治民法前までの日本で、妻が生家の氏を名乗るのが通例であったことから、妻の異族的性格を看取された。
 ⑤山中永之佑氏はこれを受けて、明治前期において妻に対して所生の氏を称することが強制されたのは、家族における妻の異族的性格を明確にさせ、妻の劣位を確定する意義と機能を果したものであり、妻をも含む広義の家族概念と、妻を含めない狭義の家族概念が存在したと述べられ、このような妻への『所生ノ氏』の強制と狭義の家族概念は、江戸時代の武士的氏観念、『家』観念を継承したものにほかならないと」57頁→

(承前)「⑥高木侃氏は、未亡人となった母が息子によって実家に返される例を紹介され、嫁が姑になった後ですら、婚家における地位は安定したものではないことを示された。
 ⑦川島武宜氏は、日本の伝統的な婚姻である嫁入婚において、嫁は婚家に異分子として入ってゆくのであり、これが婚家に同化させられるために苦しい嫁づとめが必要とされると述べられ、脇田修氏は、江戸時代の縁坐に関連して、『結婚によっても夫の家に完全に属していない』といった観念がどこかにあったのではないかとされ、こういった観念が家庭の形成にあたって妻を異分子とみる見方にもつながると指摘されている」57頁

phrabat somdet phra mongkut klao cao yu hua(ラーマ6世). (1947) “Priap namsakun kap chue sae,” in phra racha niphon ratchakan thii 6〔ラーマ6世著作集〕, rongpim thai pitthaya, pp.7-20.
=北島義和・落合恵美子訳「家名(ナームサクン)と姓(セー)の比較」、86-92頁

「中国語の『セー(sae)』は、スコットランド語の『クラン(氏族)』に類似し、仲間や集団を意味する。あるいは、宗教的な用語を使えば、セーは『サムナック』(同じ分派や宗教団に属している学派や集団…)と類似している。サクンという語は、英語の『ファミリー』と同じ意味である。セー(クラン)とサクン(家族)の間の重要な違いは、同じセーに属する人々は必ずしも互いに血縁関係にない一方で、実際に血縁があるか養子にならない限り同じクランとみなされることはないということである。
 セーすなわち『クラン名(氏族名)』は、ナームサクンすなわち『家名』よりずつと以前から存在した伝統である。…
 中国人が『セー』、スコットランド人が『クラン』、そしてイングランド人が時に『トライブ』とよぶような多人数の集団形態は、人々が高いレベルの進歩(文明化)を成し遂げる以前に起こったものだ。人々は、互いへの思いやりにもどつく道徳を実践する方法については、まだ知らなかった。それは人々がいまだ食物や住居や女性を手に入れるために互いに争い、殺し合っていた時代であった。より多くの仲間を得た集団が、より少ないあるいは仲間のいない集団に勝り、生き残ったのだ。そのため、自身の集団の成員数を増やす方法を考えることが必要となった」86-7頁→

(承前)「同じ地域に住んでいれば人々はお互いを知っているが、時に人々は分散し、故郷を離れる必要があった。集団を去り、故郷から離れた場所で出会ったものの、互いに同じ集団の出身であるとわかっていない場合には、人々は何らかの理由で傷つけ合ってしまうかもしれない。そのため、同じ集団に属していることがわかるように、違いを認識する何らかの方法が必要であった。最初は同じ装いをすることが決められた。…そして、人々がさらに文明化してその思考がより高いレベルに進歩したとき、成員のファーストネームにつけるセーを選択するというアイデアを発展させたのだ。こうして、同じ集団の成員がどこかで出会ったとき、セーを尋ねるだけで違いが認識できるようになった。こうして、中国人は『セー』を発展させ、スコットランド人はクラン名をもち、アメリカのインディアンは『トーテム』名をもつようになった。彼らは、集団の成員が互いに認識できるシンボルも用いた。例えば、スコットランドでは『タータン』…とよばれる一種の模様つきの衣服を着た。それぞれのクランは特定の種類のタータンを用い、そのクランの人々は皆同じ装いをした」87頁

「中国のセーやスコットランドのクランやインディアンのトーテムの目的は、敵を撃退し自分の集団の成員を助けることであったため、セーやクランやトーテムといった名は(その集団の)誰もが有しており、その使用は血縁関係にある人々だけに限られていなかった。…クラン名を使うというスコットランドの伝統は、中国の伝統と類似している。セーとクラン名は同じ目的をもっているのだ。…中国人のセーやスコットランド人のクラン名やインディアンのトーテムの使用は、同じ言葉の人々がチャート(ネーションもしくは国家、国民)として集まるより以前に、時代の必要性に合わせて考えられた実践であり、過去においては有益であった伝統なのである。
 …さまざまな集団が、同じように進歩したわけではなかった。中には他よりも早く進歩した人々もいた。…このため、今日の世界にはさまざまな伝統が存在する。例えばインド人はセーも家名ももたず、アメリカのインディアンはトーテム名のみをもっており、中国人はセーをもっているが、彼らはみな家名をもってはいない。家名をもつのはより進んだ人々の習慣で、彼らは他よりも遅れて発展したが、そこに追いつき追い越すことができた」87-8頁

川島武宜(1948)「日本社会の家族的構成」、112-22頁

「わが国で『家族制度』とよばれるものは、決して一様のものではない。第1に、<民法の規定>のみが、われわれの問題の対象であってはならない。民法に規定されている『家族制度』は、武士階級的家族制度の一部分であり、そうして武士階級的家族制度は、わが国の家族制度の一部分にすぎないのである。また注意しなければならぬのは、わが国に支配的な『家族制度』の<教説>は封建的支配階級のそれ、すなわち儒教的家族制度論であり、わが国で『家族制度の美風』が説かれるときには、ほとんどいつもきまって、儒教的家族倫理が説かれてきた、ということである。しかし、直接生産者たる農民や漁民やまた都市の小市民の家族の制度は、これとは異なる別の形態をもっている。…わが国の『家族制度』は、あきらかにこの2つの類型のものを含んでおり(わが国には典型的な近代家族は<きわめて>まれであるし、またそれはここで分析批判の対象としてとりあげる必要もない)、この2つの類型の原理が、しばしば多かれ少なかれ混りあいまた滲透しあって、われわれの生活を構成しているのである。…右の2つの類型は、相互にかなりその原理を異にしながらも、民主主義的な、すなわち『近代的』な原理(特に家族原理)と対照して眺めると、いずれも『前近代的』なものとして1つの共通な姿においてあらわれる113

「<庶民家族の基本原理>…
 私の見るところでは、民衆の家族生活には、儒教の家族制度とは異るものがあるように思われる。武士や地主——特に上層地主——や貴族等の儒教的家族においては、全家族の生活は家長の財産、家長の地位に依存しており、家長以外の家族は家長に寄生する。そこでは、家族生活の秩序は家長の権力に集中し、これから分化した独立のものとしての夫権や親権の存在は弱いと認められる。しかし、民衆の家族生活の構造はこれとは異っている。典型的な例として、直接に耕作に従事する農民の家族を考えよう。そこではすべての家族員が、女はもとより子供も老人も、それぞれその能力に応じて家族集団の生産的労働を分担する。全く労働能力のない者以外は、だれも家長の財産に寄生はしない。またそのようなことは経済的に許されない。だから、そこには、儒教的家族におけるような型での家長の権力や権威は存しないのである。ここでは絶対的な権威と恭順とではなく、もっと『協同的な』雰囲気が支配する。各人がそれぞれに固有の生産物労働を分担することに対応して、各人は家族内で固有の地位をもち、したがって戸主権とともに、父権、夫権、主婦権等が分化して成り立っている。あの儒教的な縦の支配関係のかわりに、ここには、『たがいにむつみあう』横の協同関係が存在する」116頁→

(承前)「このことだけを見るならば、それは近代的であるかのごとき外観を呈する。しかし、この家族の制度もまた近代的-民主的とは言われえぬのである。では、それはどのような理由によってであるのか。
 まず第1に、ここでも家族の『秩序』は1つの権威である。それは、永い伝統によって、動かしがたい抗しがたい客観的制度に固定しており、その中に生きている人々に対し絶対的な権威として君臨する。人々は、その制度ないしその規範に対し、自主的に対立し自分自身の独立な判断によって自分の行動を決定し得るわけではない。家族秩序は、人の自主的精神によって媒介されるのではなく、直接に『外』から人を拘束するのである。のみならず、ここでも権力ないし権威の現実のにない手たる人間がいないわけではない。権威は家長・長老・父・主婦等に分属しているのであり、ただ絶対的な専制がないというだけのことである。これらの者は、伝統によって固定した一定の<職分>をもっているのであり、それはやはり犯しがたい抗しがたい権威をそなえている」116-7頁

「しかしここで注意されねばならぬのは、権威はここでははなはだ<人情的情緒的>性質をおび、だから権力が権力としてあらわれない、ということである。権威は、あたたかな人情的情緒的<雰囲気>のなかにあり、だから、同時に協同体的意識をともなっている。個々の人間の『権威』はしばしば希薄となり、家族の全体的『秩序』のみが全体に対し『権威』をもっているにすぎぬものとなる。ここでは、かの儒教的家族におけるような、形式主義的な恭しい畏敬は支配しないで、<くつろいだ>・<なれなれしい>・<遠慮のない>雰囲気が支配し、それを、且つそれに媒介されて、客観的な秩序が貫徹しているのである。
 …儒教的家族制度は、外的力そのものの強制によって——したがってまた、政治権力や法律による強制によって——維持され得るしまた維持される必要があるが、ここではそのような外的力によっては秩序は維持されないし、またそのようなものによって維持される必要もない。ここでは、人情・情緒が決定的である」117頁

「しかし、だからと言って、この家族が、同様に法律や政治権力によって強制されるのでないところの近代家族と同一の原理・同一の精神的基礎の上に立っているわけでは全くない。両者の間には決定的な差異がある。なぜかと言えば、ここで家族的人情や情緒を決定するものは、人間の合理的自主的反省を許さぬところの盲目的な慣習や習俗であるが、近代家族においては、合理的自主的反省、『外から』規定されることなく自らの『内から』の自律によって媒介されるところの『道徳』が支配するからである。だから、ここでは何びとも<個人として>行動することはできないし、<独立な個人としての>自分を意識することはできない。何びともつねに、協同体的な秩序の雰囲気につつまれ、そこに支配する<必然性の客体>として、自らを意識しなければならない。
 …すべての意識と行動との根拠であり原因であるのは<雰囲気>である。何びとにも責任感はなく、責任があるのはただ雰囲気である。またここでは<近代的>な人格の相互尊重も存在しない。そこには専制支配はないが、その関係は自主的な個人によって媒介されているのではなく、むしろ自主的な個人を不可能にするところの全体的雰囲気のなかにおいてのみ個人は存在しているからである」117-8頁

王朔柏・陈意新(2004)「从血缘群到公民化——共和国时代安徽农村宗族変迁研究」、『中国社会科学』1、183-93頁
=黄蘊・陳玲・平井晶子訳「血縁集団から市民化へ——人民共和国期における安徽省農村宗族の変遷」、123-49頁

「共和国時代の国家権力が農村に浸透した際には宗族が存続したが、反対に農村における国家権力が弱体化した際に、宗族が強化されたのではなく解体された」125頁

「宗族ならびに宗族制度は、村レベルで維持されることになったのみならず、生産大隊のリーダーシップとしての役割を果たすか、あるいはそれに対するパランスをとっていた。人民公社が設立された際に、老瞿村と他の8つの村は一緒になって生産大隊を形成した。そのうち、張姓・瞿姓・蔡姓の宗族が、この順番で大きな人口をもっていた。そのため、生産大隊の3つのおもな役職はこの3大宗族姓にそれぞれ割り当てられた。…
 土地改革から人民公社の設立まで、国家は中国農村部の政治システムを完全に作り変えた。それはいかなる意味においても、地主階級のエリートが地域の権力を支配する可能性を排除し、制度化された宗族システムに終止符を打った。しかし、その変革は農民たちの日常生活のスタイルを変えることはなく、その結果、この日常生活のあり方から生じる宗族を基盤とする組織とその観念、リーダーシップの構造を除去することはなかった。…伝統的な宗族の構造を基盤とする人々が、新しい制度下でもリーダーを務めたということである。このことは宗族と政治権力の合体を意味する。毛沢東は井崗山において、すでにこうした新しい政治制度と伝統的社会組織との同質性を見抜いていた。彼によれば村落における党の組織は、居住地域の関係でしばしば同じ姓の人が1つの党支部を構成しており132-3

「[大躍進中の]相対的に低い死亡者数は、宗族のリーダーシップによるものであった。1960年3月までに腐った山羊が食べ尽くされた。麦とエンドウ豆の苗が生え始めていたので、村人は生き延びるために、まだ育ちきっていない苗を食べたに違いない。人民公社は農作物の苗を食べることを厳しく禁止していた。リーダーである于紹才と于紹林は、農民たちに自分たちの前では食べないようにと指導した。今でも東于村の中年以上の飢饉を経験した農民たちは皆、生き延びることができたのは農産物の苗を食べたおかげだと認識している」135頁

「律川村においても、宗族リーダーが存続した。このことは大躍進期の飢饉時において農民たちが生き延びる助けとなった。律川村では宗族リーダーは外部のリーダーには取り替えられなかった。この村は自然条件に恵まれ農作物の不作を経験してはいない。しかし、1959年から1960年に人民公社はすべての食糧を徴収していき、食糧の供給はきわめて限られていた。これは人為的な理由による飢饉を引き起こした。しかし、程金華などの宗族リーダーは、その智慧と宗族の結束力をもって困難を乗り越えることができた。第1に、人民公社から稲の種の配給があった際に、種を食用とすることを罰さず、飢餓から逃れるために種もみを食べさせた…次に、リーダーたちは勇敢にも収穫量を低く申告した。それでもやはり、過少申告と転用では限られた量の食物しか確保できず、食堂を数日しか運営できなかった。結果的に律川村のリーダーは食物を隠すという第3の戦術を使用した。人々は以前に祠堂であった食堂に大量の棺桶をおき、その中に大量の里芋を隠した…伝統的に祠堂にある棺桶に外部の者が手を触れることは不適切であると考えられていた…大躍進期に律川村では餓死者は出なかった。祖先の庇護を受けた里芋はすべての子孫たちの命を救った。このように宗族リーダーの存続、宗族の結集力がこの奇跡を起こし135

「1949年から1979年までの間、政治権力を用いた国家による再構築の努力は、国家と農民の間に理想的な社会契約を構築することを目的としていた。そのような再構築は宗族システムの解体を要求していた。なぜなら新しい社会契約の安定性は、農民の忠誠心が伝統的な血縁に対するものから現代の国民国家へのそれへと切り替えることにかかっていたからだ。しかし、老瞿村・東于村・律川村の研究は、政府は宗族によるリーダーシップを一時的には破壊したが、伝統的な宗族共同体そのものが根本的に揺らぐことはなかったことを明らかにした。…農民は、中国社会の近代化のプロセスの中でもっとも近代性を備えておらず、かつもっとも権力がない集団であり、農民たちの利益は守られる必要があった。そのために、大躍進運動や粛清運動といった経済政策や政治運動に起因する国家による社会契約の破壊が進んだ際には、農民たちは伝統的な社会資源である宗族に頼るしか、自分自身の利益を守り生き延びるための方法はなかった。さらに、農民たちは、大躍進運動から教訓を得て、その団結力は、国家権力の増長に伴い皮肉にも伸長した。…政治権力は、血縁と地縁を基盤とする個人間の連帯を切断することができなかった」140頁

キム・ヘギョン(2009)
=山本耕平・小林和美訳「『核家族』をめぐる言説の競合——朴正煕政権下における核家族言説の類型と変遷」、150-67頁

「韓国で『核家族』という語が最初に現れたのは、産業化が始まった1960年代半ばであり、広く使われ出したのは1970年代からである」153頁

Dube, Leela. (1986) “Seed and Earth: The Symbolism of Biological Reproduction and Sexual Relations of Production,” in Leela Dube, Eleanor Leacock and Shirley Ardener (eds.), Visuality and Power: Essays on Women in Society and Development, Oxford University Press, pp.22-53.
=長岡 慶・押川文子訳「種子と大地——生物学的再生産と生産における性的関係をめぐる象徴性」、170-97頁

「法、社会、通過儀礼を記述する古代およびその後のサンスクリット文献では、受胎という現象は女性の畑に落ちる男性の種子と表現されている。…結婚のおもな目的は子孫を得ることとされたが、特に男児後継者を得ることに明確な重点がおかれていた」171頁

「タンバイアは、マヌ法典における種子と畑の相対的重要性が、さまざまな出自を異にする性的結合(上昇婚と下降婚に大別される)によって生まれる子孫の地位の決定にもつ含意を考察した。女性が男性の1つ下の地位にある結合から生まれた子どもの地位については、法典の間に意見の違いがあり、子どもに父親と同じカースト地位を認めようとしたものもある。一般的には上昇婚は承認される一方で、下降婚は承認されなかったといえる。なぜなら、上位の種子が下位の畑に落ちることはありうるが、下位の種子が上位の畑に落ちることは許されないからである」173頁

「インドでは、少数の例外地域を除けば、父系出自原則が、集団への所属、相続の方向、および継承権の基本とされている。また結婚後の一般的な居住形態は父系拡大家族である。女性に認められてきた権利は、被扶養権のみだった。大部分の地域のヒンドゥー教徒に適用されてきたミタクシャーラ法体系によれば、男児は出生時に先祖代々の財産に関する譲渡することのできない権利を得る。相続財産共有の観念がこの法の運用を統御してきた」184頁

「インドのさまざまな地域の民族誌や文献は、ウルスラ・シャルマが『土地は本来的に男性形資産であると特定するイデオロギー』…と語ったものの存在を示している。娘に結婚に際して小さな土地を与えることが慣習である地域でさえ、それは財産の取り分ではなく贈与とみなされていることは重要である」185頁

「父系アイデンティティは所属集団の決定や資源へのアクセス権において決定的に重要である。「『種子の流れは財産の流路を拓く』とは、あるインフォーマントが父親ー息子の絆の生物学的および社会的な重要性を端的に要約した言葉である」…子どもに対する父親の権利は同じ論理の別の側面であり、重要な人的資源を確保する権利を示している」187頁

義江明子(2005)『つくられた卑弥呼——『女』の創出と国家』筑摩書房、13-109頁

「<滅ぼされた土蜘蛛八十女たち>
 …肥前国風土記に描かれているのは、いずれも頑強に抵抗して滅ぼされた女性小首長の姿ということになる。…各地に女性の小首長がいて、たてこもり、抵抗して、殺された、という話が、ごく自然に通用する伝承世界だった、ということはわかる」202-3頁

「播磨国風土記では、女神と男神の牧歌的な神話の形ではあるが、生産・労働・政治に関わる、首長としての日常的活動の側面をうかがいみることができた。…古代には男性首長も女性首長もいて、その首長としての機能には、性別による違いや分担はあまりなかった、とみてよいのではないだろうか」210頁

「前期の首長墳について、その分析結果をまとめると、おおよそ次のようになる。
 ・古墳時代前期(5世紀中葉以前)において、各地域の中心となる首長墳の中核部分に熟年女性が単独で埋葬されている例、複数埋葬のうちの中心人物が熟年女性である例などを含めて、女性首長の存在は、九州から関東にまておよぶ。
 ・副葬品からみて、地域政治集団の女性首長は祭祀権だけではなく、軍事権・生存権をも掌握しているとみられ、同時期の男性首長と同様の主張権を持つ。
 ・小集団を背景とする女性小首長の中には、祭祀的・呪術的性格の濃いものも含む。
 ・成人男女2体の首長埋葬や、男性首長につぎ第2の地位を女性埋葬が占める例も多く、首長権の一部を分担した女性が広く存在した。
 ・男性首長の単独中心埋葬は、女性首長例に比べてわずかに多い程度で、男女2体を中心部に埋葬する例よりは少ない。
 ・大王墓を含む巨大古墳の多くは、現在も発掘が制約されていて、被葬者の性別を判断できない。
 …日本の古代に、女性首長がまれな例外としてではなく、男性首長と肩を並べて広く存在していた、ということだけはほぼ間違いなくいえよう。『風土記』の伝承には、それを生み出すだけの現実的背景があったのである」212頁

「<女性首長と武器・武装>
 弥生から古墳時代前期を通じて、女性首長が広く存在していたこと、彼女たちは、もっぱら祭祀を担う巫女的首長とか男性首長の補佐だったというわけではなく、生産や流通にもかかわる権限を持ち、政治的同盟を結ぶ主体だったということは、現在では、かなり古代史学界の共通認識となってきた。
 問題は、女性首長と軍事の関わりをどうみるか、という点である。…
 考古資料を総合していえることは、兵士は一般的には男性だったらしいが女性もいた、甲冑を身につけての陣頭指揮は男性が行っていたらしいが武器を服装する女性首長も存在した、ということだろう」214頁

「倭人伝では、『合同』の場に女も男も全く同様に参加し、『父子』の間でも、『男女』の間でも、そこでの着席順や行動のしかたに差がないという。『魏志』を参照して書かれた『後漢書』倭伝では、『ただ会同に男女別なし』とあって『父子』の語がないが、『男女』が区別なく参加することは明記されている。中国の史書編纂者にとって、女も参加する倭人社会の集会は強い印象があったのだろう。…高句麗と倭では、『会同』の構成と質がかなり異なることがわかる」222頁

フォロー

平井晶子(2003)「近世東北農村における『家』の確立——歴史人口学的分析」、『ソシオロジ』47(3)、3-18頁

「社会学的家研究は、家の本質を生活保障の場としての経営体と見なす『経営体としての家論』(有賀…)、超世代的に連続する直系家族と位置づける『直系家族としての家論』(鈴木…)、普遍的概念である家長的家族とみる『家長的家族としての家論』(戸田…喜多野…)に大別される。従来の理解では、これらの説の相違点ばかりが強調されてきたが、意外にも基本的に認識では共通点が多い。
 第1の共通認識は、<家業と家産の維持>を伴うものを家と捉えている点である。…第2には直系親族または嫡子により<一子相続>される点である。…第3はこれらの特質を持つ家は世帯構造の点から見ると直系家族になると捉えたことである。
 さらに上記の特質を持つことの大前提として家は<永続的に存在するもの>とみなされてきた。…
 つまり、①世代を超えて永続すること、②家業・家産を維持すること、③相続は一子相続であること、④世帯は直系家族構造をもつこと、これらの特質を備えた世帯が家と考えられてきた」313-4頁

「そもそも家は12世紀後半の貴族社会で誕生した。律令制度の解体期である11世紀後半、政治構造が変化するなかで特定の身分と職能を備えた官職が貴族のなかで世襲化することに端を発し家が誕生した。それが14世紀から16世紀にかけて武家社会のなかで完成する。公家の家では職能とそれにともなう官職の相続が中心をなしていたが、武士が在家領主となった鎌倉時代に家業としての職能に加えて所領という家産が登場し、公家の家よりもさらに『家』らしい家が形成された。そして南北朝以降、惣領制的な相続形態から長子単独相続への変化が生じ、より完成された『家』へと発展した」314頁

「農民の場合、まず議論されてきたのが17世紀後半から18世紀初頭にかけて登場した『小農自立』であり、経済史的視点から世帯およびライフコースの特質に大変革が生じたことが明らかにされてきた…変革前の世帯は従属農民や傍系親族を包摂する中世的大家族であったが、小農の自立により従属農民や傍系親族が独立し、世帯規模が比較的小さく、均質化し、単婚小家族的な世帯が広がった。この世帯の変革は、未婚の隷属民が主人の世帯から独立し結婚することでもあり、未婚率が低下し、結果として全体の出生率が上昇し、人口増大をもたらした…16・17世紀は大規模な新田開発、市場経済の進展、さらには幕藩体制の確立、石高原理に基づいた家・村支配が開始されるなど、政治的大変革期であり、それらの複合的な影響を受け世帯の特質が変化したと考えられてきた」314-5頁

「それでは、この時登場した小農は『家』を確立させていたのか。この時期の世帯は自立性が高まり、均質的な単婚小家族になったが、まだ『家』的特質を備えるまでには至っていなかった。概ね子供の内の1人が生家に留まり親と同居するというルールはあったが、大規模な新田開発が進んでいる時期であり、財産は子供の間で均分相続されることが一般的とされていた…
 しかし、いつまでも新田開発が続くわけではなく、17世紀の末には大開墾時代も終わりを迎え、それと連動して分割相続が困難になる。分割相続から単独相続への移行には、分地制限令など法による『上からの統制』もあったが、その影響というよりはむしろ、経済的理由、経営体として世帯を維持する必要から相続形態に変化が生じた。また単独相続への移行期は、村において家格制が定着してくる時期であり、家名の維持が意味を持つものとなる。すなわち、経済状況(新田開発の終焉)が分割相続の可能性を希薄ならしめただけでなく、村落構造の変化のなかで家のステイタスを維持することが重要になり、〈家産観念〉が発達し、単独相続が普及した…
 つまり、小農自立の後、(それを前提として)18世紀初頭に『家』が確立した。これが農村における家変動論についてのもっとも実証的で説得的な仮説である」315頁

「もともと『家』的特質は公家社会で誕生し、やがて武家社会に広がり、それが上層農民へ、さらに経済的・文化的先進地域(近畿地方)で庶民に一般化し、最後に後進地域(東北地方など)にまで広がったと考えられてきた。『上から下へ』『中央から周辺へ』と単線的発展図式で理解されてきたことになる。
 …これまで『家』が確立する前提条件として重視されてきたのは、市場経済の進展と小農自立の2点であり、それらがおよそ半世紀のタイムラグはあるものの全国的に生じていたことから、『家』も同じメカニズムで確立したと考えられてきた。だが、『家』の確立メカニズムを考える際には…新田開発と人口変動も重要な要素である。新田開発が完了しなければ分割相続の可能性は続くわけであり、たとえ新田開発が終了したとしても人口が減少すれば単独相続というルールを確立する必要はないからである」315-6頁

「18世紀後半は飢饉の続発により人口減少が著しく、それによる労働力の不足から田畑は荒廃し、村全体が危機に陥っていた。近世村落は徴税方式が村請制であったため、村落の危機は個々の世帯、個々人の危機へと直結した。その中で危機に直面した人々は何らかの戦略をたてたのではないか。その具体化の1つが安定した世帯、強固な世帯の追求だったのではないか。すなわち、危機に対する人々の『生存戦略』として『家』が確立したというのが、本研究がたどり着いた仮説である」323頁

「<ふたつの『家』確立論>
 これまでの家変動論では、『家』は上から下へ、中央から周辺へ広がったと単線的図式で理解されてきた。農民社会に限って見ると、18世紀に入り新田開発が勢いを失うと、分割相続のための新しい土地が確保できなくなり、単独相続を行う『家』が確立したとのメカニズムが提示され、それが一般的パターンであると考えられてきた。この仮説は先進地域である近畿の事例から提示されたものであり、後進地域である東北地方では半世紀遅れて同じパターンが生じていると考えられてきた。
 しかし…東北型の『家』確立メカニズムの特徴は、田畑に対して人口が不足したことへの対応にあるが、近畿型では、分割すべき土地がなくなったこと、人に対して土地が不足したことが強調されており、両者のプロセスは全く逆である。
 したがって、農民における『家』の確立パターンは、少なくとも2つのパターンを想定する必要がある。ひとつは近畿でみられた『土地不足型』であり、もうひとつは東北で見られた『人口減少型』である」324頁

人口過少(土地過剰)でも人口過剰(土地過少)でも「家」が確立するというのは、ロジカルにはにわかに納得しかねる主張

姜明官(カン・ミョングァン)(2009)『烈女の誕生——家父長制と朝鮮の女性の残酷な歴史』、539-50頁
=佐藤綾子・小林和美訳「烈女の誕生」、347-58頁

「高麗王朝の時代は、社会全体を通して家父長の権力が確立されていたわけではなかった。婚姻の慣習を取り上げてみても、結婚後は、夫が妻の家に移り住むのが一般的であった。夫婦が妻の家族と同居しているときに生まれた子どもは、母方の親族とより密接な関係をもった。こうした家族制度のもとでは、男性の絶対的権力を確立することは不可能であった」347頁

「高麗王朝の時代には、夫が死ぬとその妻は自由に再婚できた。中国の宋王朝から高麗への使者によって編まれた『高麗圖經』には、高麗の男女は、好きなように結婚し、離婚できたと書かれている。
 朝鮮王朝の初期には、再婚だけでなく、さらに再々婚する女性も珍しくなかった。当時は、女性の再婚は不自然でも不道徳でもなかった。しかし、時代が進むにつれて、国家ー男性は、着々と社会の認識を変えていった。再婚や再々婚は不道徳とみなされるようになり、やがてこうした否定的な認識が制度化された。朝鮮の法典である『經國大典』は、こうした行為に制裁措置を定めており、両班階級の再婚女性の連れ子が公職に就こうとする際は、不利な立場におかれるとされている」348頁

Thanai Charoenkul. (2004) “Kamnoet ‘namsakun’ kab botbat phupokkhrong khong ratchakan thi 6,” Ratthasatsan, 25 (1), pp. 199-253.
=佐藤綾子・白石華子・落合恵美子訳「『家名(ナームサクン)』の起源と君主としてのラーマ6世の役割」、359-92頁

「タイの人々が家名(ナームサクン…)を使用し始め、西欧人と同じように名前の後に家名をつけるという命名方法が確立したのは、ラーマ6世(ワチラーウット…1910〜1925)の治世である。それ以前は、互いを名前だけでよび合っていた。同じ名前の人が複数いるなどの理由で、さらに区別が必要な場合には、両親や出身地などに関する情報を名前に加えた。この呼称方法は、会話でのみ使用されたようである。公文書には、名前と称号(称号がある場合)のみが記載されていた」359頁

「タイ社会では、母方と父方の双方の家系が重視される。伝統的には、結婚後に夫婦で新しい家庭を作るか、夫が妻の家族と同居することが多い…したがって、タイの人々の生活では通常、母方の親戚とのつながりが深く、関係も強くなる。…
 タイの家名は、家名法の公布と、男性と父系中心の『同一家名を使用できる範囲を示す図』の告示を通じて、タイの血統制度を再編成した結果として生まれた。図は、家計の継承意識の推進だけでなく、父系の家族構造のイメージを提示するために作成されており、そこでは母方の親族や結婚を通じて親族に加わる者は無視されている。これはまるで、血統における女性の役割を完全に無視するかのようだ。さらに、家名を使用できるのは父系の家族に限るとする規定により、家名は父から子への特別な遺産へと変化した。息子が成長し父親になると、その息子にこの財産が譲られ、そのサイクルが続けられる。父系相続のモデル構築は、母方の親族の役割に抵抗し、血統から女性を排除した。これは法律に従って家名を公式に登録することによって正当化された」384頁

森岡清美(2005)「家族の変化と先祖祭祀」、『発展する家族社会学——継承・摂取・創造』有斐閣

「家族構成の面では、戦後核家族化が進行し、終戦直後の62%から最近の76%まで核家族率が上昇した。今後は子ども数急減のためこの比率の上昇にブレーキがかかり、直系家族の低下が弛むことが予想されている。しかし、今日の直系家族は、家制度における直系と異なり、単一の家族をなすというよりは、親の核家族と子の核家族の世代的結合である。家制度においては親子関係が家族生活の中軸をなし、これによって親と子2つの核家族は1つに融合して直系制家族をなしたが、現代の家族、とくに若い家族は夫婦関係に中軸があり、そのため直系家族をなした場合でも、しばしば2つの核家族の同居を契機とする結合、すなわち夫婦制家族になっている。そこでは、家の系譜を継承するという観念は崩壊に瀕しているといえよう」396頁

「モデルとしての直系制家族は、親と1組の子夫婦との世代的に更新される同居に支えられた世帯であるとともに、稼働成員を基幹要員として経営し世代的に継承される家業をもつ、1個の事業体であった。…
 モデルとしての直系制家族は、家と呼ばれる。家が事業体として、とくに保険機構として完結しないときに備えて、親族や同じ集落の家々と互助共同の組織をもった。それが親族的もしくは地域的家連合と呼ばれるものであって、具体的には同族、シンルイ、組や講、オヤブンコブンなどの名称で知られている。
 家は世帯であり事業体であり、また保険機構であったから、生活共同体と呼ばれる。共同体を維持するために、家長および家の慣行が成員の行動を制約することになった。また、家連合が集中する一定の地域は、家をめぐる第二次的保険機構としてしばしば共同体と呼ばれ、その存続に必要な規則や生活慣行が住民の行動を秩序づけた」404頁

「<モデルとしての夫婦制家族>
 夫婦制家族は夫婦1代きりの家族であって、次代への継承の観念を欠く現代の都市核家族にこのモデルを見出すことができる。就業形態は被用者としての就労であることから、家族は消費を共同する世帯にとどまり、もはや1個の事業体をなさない。それでもなお第一次的な保険機構であるが、成人の成員が少ないため、かつての直系制家族のように広範な保険機能を果たすことができない。…
 それでは、直系制家族が家連合の互助と強力に守られることによって保険機構としてほぼ全きを得たように、夫婦制家族にも家連合に類するものがあり、それによって脆弱な保険機能が補完されているのであろうか。——答えはさしあたり否に近い」404頁

「アメリカにおける都市家族の研究は、核家族を取り巻く親族関係網kin family networkの存在を実証的につきとめてパーソンズ説[孤立的核家族論]を批判するとともに、第一次集団が官僚制組織と機能的に相補関係にあることを理論的に解明することによって、親族関係網の意義を確定した。…
 親族関係網をE. リトウォクは修正拡大家族modified extended familyと呼んで古典的拡大家族と区別した。古典的拡大家族とは、父親の家長的権力のもとに密接な生活関連をもつ複数の近親核家族の近居集団である。これに対して修正拡大家族とは、ほぼ対等の関係で接触を保つ複数の近居・遠居近親核家族群である。この知見を日本に移して翻案すればどうなるか。まず古典的拡大家族に嗣子同居の属性を加えてこれを家というなら、修正拡大家族の日本型には2種類あるといわなければならない。第1は、1人の既婚子と同居しながらも生活に世代分離のある修正拡大家族であり、第2は、どの子とも同居せずただ近居して比較的密接な生活関連をもつ近居拡大家族である」405頁

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