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Livi-Bacci, Massimo. (1986) “Social Group Forerunners of Fertility Control in Europe,”in Ansley J. Coale and Susan Cotts Watkins (eds.), The Decline of Fertility in Europe, Princeton University Press.
=速水 融訳「出生制限グループの先駆」、121-41頁

「特権的集団——支配階級家族、貴族、ブルジョワ——は、性格において異質的だが、確かに出生率低下の先駆者であった。これらすべての集団で、18世紀には子ども数制限の証拠があり、17世紀にもあったいくつかの事例もある。これらの集団の出生率低下は、その時代の西ヨーロッパにおける結婚のパターン、および死亡率低下との脈絡において生じた。我々が最も知る先駆者は、フランス人、イタリア人、フランダース人、英国人だが、他の国々の上層階級も、該当する資料が存在すれば、容易に付け加えることが出来る、と考える」129頁

「イタリアのケースの分析は、以下の結論に到達する。
 ①18世紀末期のユダヤ教徒の出生率は、ほとんど至る所で適度な水準にあり、おそらく婚姻パターンの変化に帰することができるが、低下はすでに起こっていた。
 ②ユダヤ教徒の出生率は、同じ都市に住んでいるカトリック教徒のそれより一般にかなり低かった。
 ③粗出生率の適度な水準(1,000人につき約25人)と他の獲得可能な適切な指標の水準は、深く根をおろした出生制限の存在を確信させてくれる。それゆえ、イタリアにおいては、ユダヤ教徒の出生率低下は、少くとも1世紀間イタリア人口のそれに先行していた」133頁

「情報が比較的豊富な19世紀後半には、ユダヤ教徒の出生率は、非ユダヤ教徒のそれより、どこでもかなり低かった…
 解放前の西欧のユダヤ教徒コミュニティの結婚率パターンは、我々が知る限り、非ユダヤ教徒のそれとはかなり異なるものであった。このユダヤ教徒の婚姻パターンの統一性は、伝統的な、早婚と皆婚からの重大な変化によるものである、と論ずる者は多い。…
 …至るところで、ユダヤ教徒の死亡率は、キリスト教人口のそれより低かった」135頁

「拡大的意味において、この論文において観察した上層階級や、多くのユダヤ教徒のコミュニティは、間違いなく出生制限を行った先駆者であった。一般人口の間に、それが拡がった時期からみて、そのタイム・スパンは、ある場合には何十年間、ある場合には何世紀間かに亘った。上層階級と有名人社会階級[?]において、低下は17世紀の終わりに起こっていたことは明白である。ユダヤ教徒では、決定的証拠は少ないが、あるイタリアのコミュニティでは、低下は18世紀初頭に起こった。フランスでさえ、低下は革命の時期には一般的になっていたが、高位の上層階級やルーアンの有名市民の間では、少なくとも1世紀前には起こっていた」139頁

van de Walle, Francine. (1986) “Infant Mortality and the European Demographic Transition,” in Ansley J. Coale and Susan Cotts Watkins (eds.), The Decline of Fertility in Europe, Princeton University Press.
=黒須里美訳「人口転換と乳児死亡率」、143-80頁

「乳幼児死亡率を下げるということにどんな利点があるのだろうか。それ自体が、我々に子どもをもうけることに対する最大の抑制を課すということに。我々が衛生環境の整う以前よりも子どもを産まなくなったのは確かだが、それは同時に、結婚における性生活に困難な状況まで作り出してしまった。
フロイト『文明と不満』」144頁

「一般的に、夫が妻よりも5歳ほど年上であるとすると、乳児死亡率の急激な減少は女性コーホート規模を大きくする。婚姻マーケットにおける女性の余剰は、女性をして未婚のまま残るか、自分の年齢により近い男性を選ぶという選択肢に直面させる。それによって、男性の結婚年齢が低下するだろう。これは現代の発展途上国における重要な現象である」180頁

Sharlin, Allan. (1986) “Urban-Rural Differences in Fertility in Europe during the Demographic Transition,”in Ansley J. Coale and Susan Cotts Watkins (eds.), The Decline of Fertility in Europe, Princeton University Press.
=高橋美由紀訳「人口転換期の都市・農村間の出生力の差異」、181-214頁

「都市化と人口転換とのタイミングの同時性についてのおおざっぱな説明は、フランスとイングランドについてはあてはまらない。フランスでは近代的な都市が出現するずっと以前の18世紀末期に、人口転換が始まった。これに対し、イングランドにおける出生率の低下は、バーミンガムやマンチェスターなどのような都市が、すすで汚れた工業セクターになった数十年後にやっと始まった。出生率の低下のタイミングがより精確に、Ig(婚姻出生率の指標)の10%の低下として観測されるようになったが、出生転換が始まったとき、ヨーロッパ各国の都市域に居住する人口の比率は多様であった。フィンランド、ハンガリー、ブルガリア、フランス、そしてスウェーデンでは、出生転換が始まったとき80%以上の人口がまだ農村に住んでいた。一方、オランダ、スコットランドそしてイングランドとウェールズではIgが10%下がったとき、依然として農村に居住していた人口は30%にも満たなかった…
 それゆえ、かつて考えられていたほど、因果関係は直接的でも単純でもない。しかし、『都市と農村の〔出生率の〕差異』と『人口転換』との間に関係があるという考えを却下することはできない」183頁

「以下の2つの一般化は非常に有効である。第1に、都市と農村の差異が明白なときは、出生率の低下は常に都市域で最初に始まる。第2に、人口転換の期間に都市の出生率が最初の局面でより急速に低下するので、都市と農村の差異は大きくなる。個々のヨーロッパの国々からのデータの調査は、これらの一般化を裏付ける」191頁

Henry, Louis. (1961) “Some Data on Natural Fertility,” Eugenics Quarterly 8(2), pp.81-91.

Eugenicsの雑誌!

「<年齢別婚姻出生率>
 出生制限が広く行われている集団では、その出生率は結婚年齢別あるいは結婚年齢階層別に計算された場合に限り、真に興味のあるものとなる。したがって、調査時の子ども数と結婚持続年数(あるいは結婚年齢と調査時の年齢差)が、この問題に重要な意味を持つようになる。しかし、出産制限が存在しないか、あるいはほとんど行われていない状況では、問題は違ってくる。台湾、インド、そして結婚年齢を推察することができる伝統的農村社会の特徴を持つ多くの人口集団では、同じ年齢の女子グループを調査した結果、出生率と結婚年齢は概して関係がないということが立証されている」220頁

「妊孕可能な夫婦の出生率は、始点か終点、あるいは両方が含まれる年齢階層の出産間隔の平均値の逆数にほぼ等しく、妊孕可能な夫婦の出生率の低下は、女子の加齢とともに、出産間隔が広くなったことを意味する。…
 同じ現象は、もっと変化の大きい形でひとつの家庭内でも観察できる。すなわち、最初のうちは、子どもの出産間隔は徐々にしか広がらないが、最後から2番目の子どもについては間隔が非常に広くなり、最後の子どもについてはさらに広くなる」227頁

Wrigley, E. A. and R. S. Schofield. (1983) “English Population History from Family Reconstruction,” Population Studies 37(2), pp.157-84.
=斎藤 修訳「家族復元法によるイングランド人口史」、235-76頁

「17、18世紀イングランド人口史の全般的な諸特徴…おそらくイングランドの最も顕著な特徴は、長期にわたる高い人口成長率である。たとえば、フランス、オランダ、スペイン、イタリア、ドイツの人口は、1550年から1820年の間に50%から80%増加したようだが、イングランドの人口は280%増加した。オランダの16世紀末から17世紀初めのように、他国でもイングランドと同じような速度で短期間に成長した場合があったが、イングランドはきわめて幸いなことにドイツの三十年戦争のような災害を免れることができ、他国に比べるとその成長率は著しく対照的である。
 イングランドの成長率は、婚姻出生率が高かったがゆえにもたらされたものではない。有配偶出生率は、フランスやドイツよりも低かった。結婚性向も、18世紀にはかなり上昇したものの、全ての時期で高かったわけではない。イングランドは、むしろ『低圧な』人口体系を享受しており、出生力も死亡も伝統的な社会の一般的水準よりも低かったし、同時代の西欧の基準からしても高くはなかった。しかしながら、『低圧な』体系が超長期の高人口成長率の障害物を意味するわけではない」269-70頁→

(承前)「当時の人口成長率は、少なからず変動するものであり、死亡率や婚姻出生率の変動よりも結婚性向の変化によって受ける影響の方が大きかった…一見すると、結婚性向によって大きく支配される『低圧な』体系が人口成長率を抑制するのではなく加速するというのは逆説的に聞こえるかもしれない。しかし、そういった体系の中で生活水準にかかる人口の圧力が相対的に軽微な場合には、これによって経済成長が促され、結果として長期にわたる顕著な人口増加が可能となった、というのがおそらく事実であろう」270頁

Wilson, Chris. (1991) “Marital Fertility in Pre-industrial England: New Insights from the Cambridge Group Family Reconstruction Project,” paper presented at the Conference on Demographic Change in Economic Development, held at the Institute of Economic Research, Hitotsubashi University.
=友部謙一訳「前工業化期イングランドの婚姻出生力」、277-300頁

「第1に、イングランドの婚姻出生力は教区簿冊がカヴァーしている数世紀にわたり、ほとんど変化していない。
 第2に、イングランドでは婚姻出生力の地域差がほとんどない。これは他のヨーロッパ諸国と異なる点で、そこでは多くの場合、明瞭な地域差を示している。
 第3に、婚姻出生力は概して『自然』出生力であった。つまり、年齢別出生力曲線に意図的な出生制限の累積が見いだせないのである。
 工業化以前のイングランドの婚姻出生力にかんするこれらの3つの特徴——安定性・地域的同質性・出生制限の欠如」284頁

「人口学者は第1次妊胎不能(primary sterility)——生涯子どもを産むことができない——と第2次妊胎不能(secondary sterility)——出産後に生じる——を区別している、あるいはつぎのように考えてもよいだろう。第1次妊胎不能は全体として年齢だけに応じて変化する現象であり、第2次妊胎不能は産んだ子どもの数から影響される。概していえば、婚姻出生力の生齢[ママ]階層別パターンを決定するうえでより重要になるのは、第1次妊胎不能の方である。この比率は子無しの有配偶女子の割合を観察することにより簡単に計測できる」290頁

Hammel, Eugene A. and Peter Laslett.(1974) “Comparing Household Structure over Time and between Cultures,” Comparative Studies in Society and History 16(1), pp.73-109.
=落合恵美子訳「世帯構造とは何か」、303-48頁

「CFU[夫婦家族単位 conjugal family unit]は、その夫婦から生れた少なくとも1人の未婚の子どもが親元に留まっているなら、一方の配偶者が死亡して他方が生き残ったり、一方が他方を遺棄したりした場合にも存在すると考える(図30-31)。気を付けねばならないが、この用法は、既婚の個人はみな2つの家族——親の『定位家族(family of orientation)』と子どもの『生殖家族(family of procreation)』——に同時所属しうるという、人類学者の観察に合うようにはできていない。また、複婚によるCFUへの同時所属を図示するものでもない」325-7頁

「<単純家族>(simple family)という表現は、ここでは、<核家族>(nuclear family)、<基本家族>(elementary family)、<夫婦家族>(conjugal family)、あるいは<生物学的家族>(biological family)などと、さまざまな呼び方をされてきたものを意味するように用いられる。これは、夫婦、夫婦と子ども(たち)、あるいは寡婦(夫)と子ども(たち)からなる。この概念は…家族集団の構造素としての夫婦結合のことであり、家族集団がそれと認知されるためには、そうした結合により結ばれた、あるいはそうした結合から直接的に生じる、少なくとも2人の個人が同居している必要がある。<夫婦家族単位>(conjugal family unit 略してCFU)という用語は…そのように構成されたすべてのありうる集団…を記述するためのものである」338頁

「多数性(multiplicity)は、1つの世帯に2つのCFUが含まれるときに生ずる。<多核家族世帯>(multiple family household)とは、親族関係ないしは婚姻により連結された、2つかそれ以上のCFUを包含する家内集団のすべての形態を含む」340頁

「家内集団としての直系家族の重要性は、19世紀半ばにF・ル・プレ(Frédéric Le Play)が最初に論じて以来、強調されすぎてきたとわれわれは考えるが、われわれの分類法はその存在を発見するためのあらゆる可能性を尽くしていなければならない」343-4頁

Hajnal, John. (1965) “European Marriage Patterns in Perspective,” in D. V. Glass and D. E. C. Eversely (ed’s.), Population in History, Edward Arnold, pp.101-46.
=木下太志訳「ヨーロッパ型結婚形態の起源」、349-413頁

「ヨーロッパの大部分において、1940年までの少なくとも2世紀の間存在した結婚形態は、私たちが知る限り、世界的に見れば特異なものか、あるいは特異なものに近かった。
 この『ヨーロッパ型結婚形態』の顕著な特徴は、①高い結婚年齢と②高い生涯未婚者の割合にある。『ヨーロッパ型結婚形態』は、ヨーロッパ東部および南東部を除いた全ヨーロッパ地域に広く浸透していた。
 1900年のデータ…ヨーロッパ型結婚形態は、だいたいレニングラード…とトリエステを結ぶ線の西側の全ヨーロッパに行き渡っていた。…スラブ諸国のいくつかは、ヨーロッパ型とは非常に異なる結婚形態を持っている。これを東ヨーロッパ型と呼ぶことにする」350頁

「ヨーロッパ型結婚形態では、成人女性が未婚でいることは、通常の(おそらく少数例ではあったにしても)選択肢として受け入れられていたが、一方、東ヨーロッパにおいては、この選択肢はほとんど存在しなかった。
 当然…ヨーロッパ型と東ヨーロッパ型の中間に位置するものがあるという可能性はある。たとえば、ハンガリーやギリシャがそうである…ヨーロッパ型から遊離していく状況は、東に行けばみつかるだけでなく、ヨーロッパ南端部でも見ることができる。南イタリアやスペインは、ベルギーやスウェーデンよりもギリシャに似ている。
 …だいたい1940年までは、ヨーロッパ型と東ヨーロッパ型の基本的な対立の図式は変わっていない」352-3頁

「結婚年齢に関する限り、ヨーロッパ型結婚形態は、多くの国々において18世紀前半あるいはそれよりも古い時期に遡ることができ、非ヨーロッパ型早婚の記録はどこにも存在しない」265頁

「もし表11-17に示された割合が真の値の2、3%以内にあるとするなら、14世紀中葉において、ヨーロッパの少なくともいくつかの地域の結婚形態は18世紀のヨーロッパのものとは似ても似つかぬものであり、むしろ非ヨーロッパ社会の形態に近かったと結論したくなる」373・375頁

「14世紀から18世紀の間に、結婚慣習にいくつかの変化が起きたことはほとんど疑う余地がない。中世においては、子どもの婚約とたいへん若い思春期における結婚は、(貴族の間だけではなく)民衆の間に広く行き渡っていたが、18世紀までには、これらの慣習はまったくと言ってよいほど消え失せていた。中世社会は、完全に完成されたヨーロッパ型結婚形態を持っていたとは思えず、非ヨーロッパ型と分類できる結婚形態を持っていたか、あるいは両者が混在した状態であり、後世に見られるより初婚年齢のばらつきが大きかったに違いない」376頁

「驚くべきことに、ギリシャ・ローマ世帯において、結婚に関する統計的証拠がいくつか存在する。情報源のひとつは、墓石に刻まれた碑文である。これにはしばしば死亡年齢が刻まれており、既婚者が死んだ場合には、その人の結婚期間も刻まれていることがしばしばある。死亡年齢から結婚期間を差し引けば、結婚年齢が計算できる。…
 …一瞥すれば、碑文から得られた分布、および比較のために示された2つの『ヨーロッパ型』の分布との間に明瞭な違いがあることが明らかになる」377頁

「ローマ帝政下のエジプトの『国勢調査』という、全く異なった種のデータから同じ結論が導き出される。これは課税のために行われた統計調査である。…ホムバートとプレオーは、結婚したと判別できる155人の女子のうち、少なくとも51人は20歳より若くして結婚したとしている…このことは、ここでの結婚年齢がヨーロッパ型結婚形態に比べてかなり低かったことを示している」378頁
↑Hombert, M. and C. Préaux. (1952) “Recherches sur le recensement dans l’Égypte romaine,” Papyrologica Lugdona-Batava 5, pp.160-1.

「G. バックマン(Gaston Backman)の研究…彼は、主に法律文書の中の思春期に関する部分を概観して、初潮の平均年齢は古代からだいたい14歳前後で変化はなかったが、1500年頃になりヨーロッパの中でその遅延化が生じたと結論づけている。1500年以降の思春期に関する考え方の変化や法律上の成年の定義の変化が、生理学的な変化を反映したものであると考えることはできる。しかし、少なくとも、晩婚化に関連した社会変化が法律上の考え方に変化を持たらした[ママ]ということもあり得ることである」380頁
↑Backman, G. (1947-8) “Die beschleunigte Entwicklung der Jugend,” Acta Anatomical 4, pp.421-80.

「1784年、18歳で英国を訪れたロッシュフーコー…男爵の子息…
 『夫と妻はいつも共に過ごし、同じ社交界を共有している。他方なしで一方を見ることはほとんどない。…彼らはいつもまったく仲むつまじく見える。特に、妻はたいそう満足しているように見え、いつも私に喜びを与える。…常に妻と共に生活するには、たいそう遅く結婚しなければならないのかどうかについて、私は確信が持てないが、そう思いたい気持ちである。イングランドでは、自分が好きでもない妻を持つことは、生活を悲惨なものにするに違いない。したがって、結婚する前に、イングランドの男子は彼の花嫁を知るために多大の努力を払う。彼女もまた同じ願望を持っている。だから、25歳あるいは28歳より若くして結婚することが稀なのだろう。多分、もうひとつの理由は、結婚後すぐに家を用意するのが普通だからであろう。若夫婦は、決して彼らの両親とは共に住まない。…イングランドの夫たちは、私たちに比べ、時々彼らが行使する特典を持ち合わせている。すなわち、それは離婚である』」368頁

「中世農村の結婚に関する研究では、群を抜いて最も完璧な研究と思える、G. C. ホーマンズ(George Caspar Homans)の『13世紀におけるイングランドの農村』…男子は土地を得て、初めて結婚できるという規則により、ホーマンズは結婚年齢が高いと推定した。すなわち、『もし父親が死ぬか、土地を譲り渡すまで、男子が待たなければならないのなら、彼の結婚はかなり遅いものであっただろう』(Homans, 1942, p.158)。中世のように高い死亡率の下では、このような結論にはならない。13世紀のイングランドでは、子どもの半分以上は、17歳の誕生日が来るまでに父親を失っていただろう」381頁

「人類の大部分は、いつも小さな共同体に住んできた。それは200人から300人程度の村で、その間の移動は困難でしばしば危険であった。潜在的な結婚相手の数は少なく、規範(たとえば、カースト制)や伝統(階級など)によってしばしば狭められ、結婚相手として適当な人の集団は制限されていたに違いない。どうして、すべての女子に結婚相手を見つけることができたのだろうか。
 これを成し遂げるメカニズムは、異なる社会では異なるように働いていたに違いない」384頁

「結婚年齢における男女比自体は、生涯結婚できる男女の数を決定するものではない。なぜなら、未婚女性は未婚男性と結婚する必要はなく、配偶者を失った男性と結婚することも可能だからである。もし配偶者が若いうちに死亡したため、多くの結婚が解消し、そしてもし妻を失った男性が寡婦より非常に頻繁に再婚するなら、男子数が女子数よりも相当少ない人口においても、すべての女性が少なくとも1回は結婚することができる。ここでは、男性の再婚は複婚のようなものである。この点は新しいものではないが、しばしば見過ごされてきた。200年前、ジュースミルヒは、この再婚の傾向を『連続複婚(polygamia successiva)』と呼んだ」387頁

「おそらく、生活水準と死亡率に関するヨーロッパの特異性の歴史は(限られた地域を除いて)、19世紀より古い時代に遡ることはできないだろう」392頁

フォロー

木下太志解題「自然出生力とは、意図的な出産制限のない状態での出生力を意味し、人口学では重要な概念のひとつである。その『自然』という形容詞から、生物学的なもの、生理的なものを思い浮かべがちだが、アンリ自身が論文の冒頭で指摘しているように、この場合の『自然』とは、生理的なものに加え、出生力に直接影響を与える性的タブーや授乳慣行などの社会文化的な要素を含んだものである。さらに重要なことは、自然出生力の対極にある出産抑制の行われている出生力とは、ここではストッピングによるものが念頭に置かれているということである。これは、すでに生まれた子ども数によって、夫婦の出産行動が決定される状態であるため、パリティ・スペシフィック・コントロール(parity-specific control)とも呼ばれる。すなわち、本論文でアンリが名づけた自然出生力とは、パリティ・スペシフィック・コントロールがない状態の出生力と言い換えることができる」400頁

落合解題「『ハメル=ラスレット世帯構造分類』に対しては批判もある。特に複雑な構造の世帯が多い社会の分析にあたっては、『多核家族世帯』を分類し直す必要があるとの意見が強い。たとえば日本では『直系家族』と『合同家族』を区別することが理論的に重要である」497-8頁

木下太志・浜野繁解題「マルサス…は、ヨーロッパ型結婚形態の晩婚は低出生率と低死亡率を伴う一方、非ヨーロッパ型結婚形態の早婚は高出生率と高死亡率を伴うとしたが、ヘイナル自身は、結婚形態、出生率、死亡率という3者の関係はしばしば考えられるほど明白ではないとしている。また、彼は結婚形態、家族形態、土地所有制の関係についても言及している。すなわち、土地が1人の世襲者に受け継がれるような直系家族においては、ヨーロッパ型結婚形態が適している一方、合同家族および大土地所有制の下では、東ヨーロッパ型結婚形態がより適していると一般的に考えられることが多い」501頁

木下太志・浜野繁解題「ヘイナルによれば、北西ヨーロッパの単純世帯システムの起源は17世紀より数世紀前まで遡ることができるが、特にイギリスの場合は早く、12世紀にはすでにこのシステムの特徴がみられるという。奉公人制度が持つ重要な社会的意味として、たとえば、合同家族社会の女子に比べ、単純世帯社会の女子はより自立できるということがあげられている。なぜなら、女子奉公人は雇用主を自分自身で決めるため、彼女たちの男性親族の管理下に置かれないだけでなく、奉公の間に蓄えた賃金によって経済的に自立することができたからである。また、奉公人制度は経済状況と人口(特に出生)の間に介在し、重要な役割を担う。かなわち、経済状況が良好な場合には、若者は早く結婚し、出生率を押し上げる。逆に、経済状況が悪化すれば、若者は奉公を長く続けざるを得ず、その結果、晩婚となり、出生率を下げる。このように、奉公は経済状況に応じて、結婚年齢を早くしたり、遅くしたりすることによって、出生率をコントロールする一種の安全弁として機能していたとヘイナルは結論づけている」503-4頁

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