「都市化と人口転換とのタイミングの同時性についてのおおざっぱな説明は、フランスとイングランドについてはあてはまらない。フランスでは近代的な都市が出現するずっと以前の18世紀末期に、人口転換が始まった。これに対し、イングランドにおける出生率の低下は、バーミンガムやマンチェスターなどのような都市が、すすで汚れた工業セクターになった数十年後にやっと始まった。出生率の低下のタイミングがより精確に、Ig(婚姻出生率の指標)の10%の低下として観測されるようになったが、出生転換が始まったとき、ヨーロッパ各国の都市域に居住する人口の比率は多様であった。フィンランド、ハンガリー、ブルガリア、フランス、そしてスウェーデンでは、出生転換が始まったとき80%以上の人口がまだ農村に住んでいた。一方、オランダ、スコットランドそしてイングランドとウェールズではIgが10%下がったとき、依然として農村に居住していた人口は30%にも満たなかった…
それゆえ、かつて考えられていたほど、因果関係は直接的でも単純でもない。しかし、『都市と農村の〔出生率の〕差異』と『人口転換』との間に関係があるという考えを却下することはできない」183頁
「17、18世紀イングランド人口史の全般的な諸特徴…おそらくイングランドの最も顕著な特徴は、長期にわたる高い人口成長率である。たとえば、フランス、オランダ、スペイン、イタリア、ドイツの人口は、1550年から1820年の間に50%から80%増加したようだが、イングランドの人口は280%増加した。オランダの16世紀末から17世紀初めのように、他国でもイングランドと同じような速度で短期間に成長した場合があったが、イングランドはきわめて幸いなことにドイツの三十年戦争のような災害を免れることができ、他国に比べるとその成長率は著しく対照的である。
イングランドの成長率は、婚姻出生率が高かったがゆえにもたらされたものではない。有配偶出生率は、フランスやドイツよりも低かった。結婚性向も、18世紀にはかなり上昇したものの、全ての時期で高かったわけではない。イングランドは、むしろ『低圧な』人口体系を享受しており、出生力も死亡も伝統的な社会の一般的水準よりも低かったし、同時代の西欧の基準からしても高くはなかった。しかしながら、『低圧な』体系が超長期の高人口成長率の障害物を意味するわけではない」269-70頁→
Wilson, Chris. (1991) “Marital Fertility in Pre-industrial England: New Insights from the Cambridge Group Family Reconstruction Project,” paper presented at the Conference on Demographic Change in Economic Development, held at the Institute of Economic Research, Hitotsubashi University.
=友部謙一訳「前工業化期イングランドの婚姻出生力」、277-300頁
「<単純家族>(simple family)という表現は、ここでは、<核家族>(nuclear family)、<基本家族>(elementary family)、<夫婦家族>(conjugal family)、あるいは<生物学的家族>(biological family)などと、さまざまな呼び方をされてきたものを意味するように用いられる。これは、夫婦、夫婦と子ども(たち)、あるいは寡婦(夫)と子ども(たち)からなる。この概念は…家族集団の構造素としての夫婦結合のことであり、家族集団がそれと認知されるためには、そうした結合により結ばれた、あるいはそうした結合から直接的に生じる、少なくとも2人の個人が同居している必要がある。<夫婦家族単位>(conjugal family unit 略してCFU)という用語は…そのように構成されたすべてのありうる集団…を記述するためのものである」338頁
「ヨーロッパの大部分において、1940年までの少なくとも2世紀の間存在した結婚形態は、私たちが知る限り、世界的に見れば特異なものか、あるいは特異なものに近かった。
この『ヨーロッパ型結婚形態』の顕著な特徴は、①高い結婚年齢と②高い生涯未婚者の割合にある。『ヨーロッパ型結婚形態』は、ヨーロッパ東部および南東部を除いた全ヨーロッパ地域に広く浸透していた。
1900年のデータ…ヨーロッパ型結婚形態は、だいたいレニングラード…とトリエステを結ぶ線の西側の全ヨーロッパに行き渡っていた。…スラブ諸国のいくつかは、ヨーロッパ型とは非常に異なる結婚形態を持っている。これを東ヨーロッパ型と呼ぶことにする」350頁
「ヨーロッパ型結婚形態では、成人女性が未婚でいることは、通常の(おそらく少数例ではあったにしても)選択肢として受け入れられていたが、一方、東ヨーロッパにおいては、この選択肢はほとんど存在しなかった。
当然…ヨーロッパ型と東ヨーロッパ型の中間に位置するものがあるという可能性はある。たとえば、ハンガリーやギリシャがそうである…ヨーロッパ型から遊離していく状況は、東に行けばみつかるだけでなく、ヨーロッパ南端部でも見ることができる。南イタリアやスペインは、ベルギーやスウェーデンよりもギリシャに似ている。
…だいたい1940年までは、ヨーロッパ型と東ヨーロッパ型の基本的な対立の図式は変わっていない」352-3頁
「ローマ帝政下のエジプトの『国勢調査』という、全く異なった種のデータから同じ結論が導き出される。これは課税のために行われた統計調査である。…ホムバートとプレオーは、結婚したと判別できる155人の女子のうち、少なくとも51人は20歳より若くして結婚したとしている…このことは、ここでの結婚年齢がヨーロッパ型結婚形態に比べてかなり低かったことを示している」378頁
↑Hombert, M. and C. Préaux. (1952) “Recherches sur le recensement dans l’Égypte romaine,” Papyrologica Lugdona-Batava 5, pp.160-1.
「G. バックマン(Gaston Backman)の研究…彼は、主に法律文書の中の思春期に関する部分を概観して、初潮の平均年齢は古代からだいたい14歳前後で変化はなかったが、1500年頃になりヨーロッパの中でその遅延化が生じたと結論づけている。1500年以降の思春期に関する考え方の変化や法律上の成年の定義の変化が、生理学的な変化を反映したものであると考えることはできる。しかし、少なくとも、晩婚化に関連した社会変化が法律上の考え方に変化を持たらした[ママ]ということもあり得ることである」380頁
↑Backman, G. (1947-8) “Die beschleunigte Entwicklung der Jugend,” Acta Anatomical 4, pp.421-80.
「1784年、18歳で英国を訪れたロッシュフーコー…男爵の子息…
『夫と妻はいつも共に過ごし、同じ社交界を共有している。他方なしで一方を見ることはほとんどない。…彼らはいつもまったく仲むつまじく見える。特に、妻はたいそう満足しているように見え、いつも私に喜びを与える。…常に妻と共に生活するには、たいそう遅く結婚しなければならないのかどうかについて、私は確信が持てないが、そう思いたい気持ちである。イングランドでは、自分が好きでもない妻を持つことは、生活を悲惨なものにするに違いない。したがって、結婚する前に、イングランドの男子は彼の花嫁を知るために多大の努力を払う。彼女もまた同じ願望を持っている。だから、25歳あるいは28歳より若くして結婚することが稀なのだろう。多分、もうひとつの理由は、結婚後すぐに家を用意するのが普通だからであろう。若夫婦は、決して彼らの両親とは共に住まない。…イングランドの夫たちは、私たちに比べ、時々彼らが行使する特典を持ち合わせている。すなわち、それは離婚である』」368頁
「中世農村の結婚に関する研究では、群を抜いて最も完璧な研究と思える、G. C. ホーマンズ(George Caspar Homans)の『13世紀におけるイングランドの農村』…男子は土地を得て、初めて結婚できるという規則により、ホーマンズは結婚年齢が高いと推定した。すなわち、『もし父親が死ぬか、土地を譲り渡すまで、男子が待たなければならないのなら、彼の結婚はかなり遅いものであっただろう』(Homans, 1942, p.158)。中世のように高い死亡率の下では、このような結論にはならない。13世紀のイングランドでは、子どもの半分以上は、17歳の誕生日が来るまでに父親を失っていただろう」381頁
「結婚年齢における男女比自体は、生涯結婚できる男女の数を決定するものではない。なぜなら、未婚女性は未婚男性と結婚する必要はなく、配偶者を失った男性と結婚することも可能だからである。もし配偶者が若いうちに死亡したため、多くの結婚が解消し、そしてもし妻を失った男性が寡婦より非常に頻繁に再婚するなら、男子数が女子数よりも相当少ない人口においても、すべての女性が少なくとも1回は結婚することができる。ここでは、男性の再婚は複婚のようなものである。この点は新しいものではないが、しばしば見過ごされてきた。200年前、ジュースミルヒは、この再婚の傾向を『連続複婚(polygamia successiva)』と呼んだ」387頁
木下太志解題「現在の人口学者は、出産を抑制する行動を、便宜上、ストッピング(stopping)とスペーシング(spacing)にわけて考える。ストッピングとは、希望する子ども数が生まれた後、夫婦が出産を止めるようなコントロールの方法であり、一方、スペーシングとは、ある時期から出産を急に止めるのではなくはじめから出産間隔を意図的に長くして出産をコントロールしようとする方法である」489頁
木下太志・浜野繁解題「ヘイナルによれば、北西ヨーロッパの単純世帯システムの起源は17世紀より数世紀前まで遡ることができるが、特にイギリスの場合は早く、12世紀にはすでにこのシステムの特徴がみられるという。奉公人制度が持つ重要な社会的意味として、たとえば、合同家族社会の女子に比べ、単純世帯社会の女子はより自立できるということがあげられている。なぜなら、女子奉公人は雇用主を自分自身で決めるため、彼女たちの男性親族の管理下に置かれないだけでなく、奉公の間に蓄えた賃金によって経済的に自立することができたからである。また、奉公人制度は経済状況と人口(特に出生)の間に介在し、重要な役割を担う。かなわち、経済状況が良好な場合には、若者は早く結婚し、出生率を押し上げる。逆に、経済状況が悪化すれば、若者は奉公を長く続けざるを得ず、その結果、晩婚となり、出生率を下げる。このように、奉公は経済状況に応じて、結婚年齢を早くしたり、遅くしたりすることによって、出生率をコントロールする一種の安全弁として機能していたとヘイナルは結論づけている」503-4頁
木下太志解題「自然出生力とは、意図的な出産制限のない状態での出生力を意味し、人口学では重要な概念のひとつである。その『自然』という形容詞から、生物学的なもの、生理的なものを思い浮かべがちだが、アンリ自身が論文の冒頭で指摘しているように、この場合の『自然』とは、生理的なものに加え、出生力に直接影響を与える性的タブーや授乳慣行などの社会文化的な要素を含んだものである。さらに重要なことは、自然出生力の対極にある出産抑制の行われている出生力とは、ここではストッピングによるものが念頭に置かれているということである。これは、すでに生まれた子ども数によって、夫婦の出産行動が決定される状態であるため、パリティ・スペシフィック・コントロール(parity-specific control)とも呼ばれる。すなわち、本論文でアンリが名づけた自然出生力とは、パリティ・スペシフィック・コントロールがない状態の出生力と言い換えることができる」400頁