「『人口と社会構造の歴史のためのケンブリッジ・グループ』による16世紀半ばから19世紀半ばまでのイングランド人口の再構成は、イングランド人口の増加率を抑制する上で有配偶率の変動がどれほど重要であったかを示している…再構成された教区簿冊に基づく証拠は婚姻出生力が実質的に一定だったことを示している。出生力変動の主要な要因、従って自然増加率変動の主要な要因は結婚年齢の変動と生涯未婚者割合の変動であった。ヨーロッパにおける近代的出生力低下に関するプリンストン大学の研究で用いられた出生力指標に関して言えば、1550年から1870年までの間におけるイングランドの出生力の大きな変動は、ほぼ全部がIm(有配偶率の指標)の変動によるものであり、Ig(婚姻出生力の指標)は実質的に不変であった」104頁
「リー(Richard Lee)によれば、クング族における出生間隔は一般的な食物採集慣習と関係するような、保育形態と関係している。
『女性の仕事——すなわち野生植物性食物の採集——は、クング族の野営地で消費される食物の大半をもたらす。…
…狩猟採集民族にとって長い出生間隔の利点は明らかである。母親は長期にわたってすべての注意を1人の子どもの育児に集中することができるし、母親が次の子どもの育児に着手する時に子どもが大きいほど、その子どもの生存の可能性が高まる。』(Lee, 1980)」106-7頁
↑ ”Lactation, Ovulation, Infanticide and Woma’s Work,” in Cohen, Nealpase and Klein (eds.), Biosocial Mechanisms of Population Regulation, Yale University Press.
「都市化と人口転換とのタイミングの同時性についてのおおざっぱな説明は、フランスとイングランドについてはあてはまらない。フランスでは近代的な都市が出現するずっと以前の18世紀末期に、人口転換が始まった。これに対し、イングランドにおける出生率の低下は、バーミンガムやマンチェスターなどのような都市が、すすで汚れた工業セクターになった数十年後にやっと始まった。出生率の低下のタイミングがより精確に、Ig(婚姻出生率の指標)の10%の低下として観測されるようになったが、出生転換が始まったとき、ヨーロッパ各国の都市域に居住する人口の比率は多様であった。フィンランド、ハンガリー、ブルガリア、フランス、そしてスウェーデンでは、出生転換が始まったとき80%以上の人口がまだ農村に住んでいた。一方、オランダ、スコットランドそしてイングランドとウェールズではIgが10%下がったとき、依然として農村に居住していた人口は30%にも満たなかった…
それゆえ、かつて考えられていたほど、因果関係は直接的でも単純でもない。しかし、『都市と農村の〔出生率の〕差異』と『人口転換』との間に関係があるという考えを却下することはできない」183頁
「17、18世紀イングランド人口史の全般的な諸特徴…おそらくイングランドの最も顕著な特徴は、長期にわたる高い人口成長率である。たとえば、フランス、オランダ、スペイン、イタリア、ドイツの人口は、1550年から1820年の間に50%から80%増加したようだが、イングランドの人口は280%増加した。オランダの16世紀末から17世紀初めのように、他国でもイングランドと同じような速度で短期間に成長した場合があったが、イングランドはきわめて幸いなことにドイツの三十年戦争のような災害を免れることができ、他国に比べるとその成長率は著しく対照的である。
イングランドの成長率は、婚姻出生率が高かったがゆえにもたらされたものではない。有配偶出生率は、フランスやドイツよりも低かった。結婚性向も、18世紀にはかなり上昇したものの、全ての時期で高かったわけではない。イングランドは、むしろ『低圧な』人口体系を享受しており、出生力も死亡も伝統的な社会の一般的水準よりも低かったし、同時代の西欧の基準からしても高くはなかった。しかしながら、『低圧な』体系が超長期の高人口成長率の障害物を意味するわけではない」269-70頁→
Wilson, Chris. (1991) “Marital Fertility in Pre-industrial England: New Insights from the Cambridge Group Family Reconstruction Project,” paper presented at the Conference on Demographic Change in Economic Development, held at the Institute of Economic Research, Hitotsubashi University.
=友部謙一訳「前工業化期イングランドの婚姻出生力」、277-300頁
「<単純家族>(simple family)という表現は、ここでは、<核家族>(nuclear family)、<基本家族>(elementary family)、<夫婦家族>(conjugal family)、あるいは<生物学的家族>(biological family)などと、さまざまな呼び方をされてきたものを意味するように用いられる。これは、夫婦、夫婦と子ども(たち)、あるいは寡婦(夫)と子ども(たち)からなる。この概念は…家族集団の構造素としての夫婦結合のことであり、家族集団がそれと認知されるためには、そうした結合により結ばれた、あるいはそうした結合から直接的に生じる、少なくとも2人の個人が同居している必要がある。<夫婦家族単位>(conjugal family unit 略してCFU)という用語は…そのように構成されたすべてのありうる集団…を記述するためのものである」338頁
「ヨーロッパの大部分において、1940年までの少なくとも2世紀の間存在した結婚形態は、私たちが知る限り、世界的に見れば特異なものか、あるいは特異なものに近かった。
この『ヨーロッパ型結婚形態』の顕著な特徴は、①高い結婚年齢と②高い生涯未婚者の割合にある。『ヨーロッパ型結婚形態』は、ヨーロッパ東部および南東部を除いた全ヨーロッパ地域に広く浸透していた。
1900年のデータ…ヨーロッパ型結婚形態は、だいたいレニングラード…とトリエステを結ぶ線の西側の全ヨーロッパに行き渡っていた。…スラブ諸国のいくつかは、ヨーロッパ型とは非常に異なる結婚形態を持っている。これを東ヨーロッパ型と呼ぶことにする」350頁
「ヨーロッパ型結婚形態では、成人女性が未婚でいることは、通常の(おそらく少数例ではあったにしても)選択肢として受け入れられていたが、一方、東ヨーロッパにおいては、この選択肢はほとんど存在しなかった。
当然…ヨーロッパ型と東ヨーロッパ型の中間に位置するものがあるという可能性はある。たとえば、ハンガリーやギリシャがそうである…ヨーロッパ型から遊離していく状況は、東に行けばみつかるだけでなく、ヨーロッパ南端部でも見ることができる。南イタリアやスペインは、ベルギーやスウェーデンよりもギリシャに似ている。
…だいたい1940年までは、ヨーロッパ型と東ヨーロッパ型の基本的な対立の図式は変わっていない」352-3頁
「北西ヨーロッパの移民の大部分は奉公人の移民であり、未婚の青年たちによる大規模な移動は合同世帯の社会には例を見ない。17世紀の新世界への奉公人の移民、とくに年季奉公人のそれは、奉公制度にその起源があった。イギリスや、他の北西ヨーロッパのあらゆる地域からたくさんの奉公人が大西洋を渡った。ニュー・イングランド南部の北米植民地に来た者のうち、半分以上が奉公人だったと考えられている」451頁
「チャヤノフは、経済理論の概念(地代・物価・資本など)が賃金労働に基づく経済の中で発展してきたと述べた。つまり現代流にいえば、A. スミス…やD. リカード…や、その継承者たちが、彼らが知っている経済システム、つまり北西ヨーロッパの社会システムに基づいた理論を組み立てたことは驚くに足りないということである。しかし、経済学者によって開発された合理的行動の概念は他の種の社会には応用することはできない、とチャヤノフは指摘する。『小農民』状態、つまり合同世帯人口社会の人びとには当てはまらないのである。もし、チャヤノフが正しければ、北西ヨーロッパの人びとの経済的行動は、合同世帯の人口グループとは根本的に異なっていたに違いない。そしてその差異は経済発展にとって大きな意味を持つはずである」452-3頁
ポランニの先駆者というか、ありがちな議論😅
木下太志解題「自然出生力とは、意図的な出産制限のない状態での出生力を意味し、人口学では重要な概念のひとつである。その『自然』という形容詞から、生物学的なもの、生理的なものを思い浮かべがちだが、アンリ自身が論文の冒頭で指摘しているように、この場合の『自然』とは、生理的なものに加え、出生力に直接影響を与える性的タブーや授乳慣行などの社会文化的な要素を含んだものである。さらに重要なことは、自然出生力の対極にある出産抑制の行われている出生力とは、ここではストッピングによるものが念頭に置かれているということである。これは、すでに生まれた子ども数によって、夫婦の出産行動が決定される状態であるため、パリティ・スペシフィック・コントロール(parity-specific control)とも呼ばれる。すなわち、本論文でアンリが名づけた自然出生力とは、パリティ・スペシフィック・コントロールがない状態の出生力と言い換えることができる」400頁
木下太志・浜野繁解題「ヘイナルによれば、北西ヨーロッパの単純世帯システムの起源は17世紀より数世紀前まで遡ることができるが、特にイギリスの場合は早く、12世紀にはすでにこのシステムの特徴がみられるという。奉公人制度が持つ重要な社会的意味として、たとえば、合同家族社会の女子に比べ、単純世帯社会の女子はより自立できるということがあげられている。なぜなら、女子奉公人は雇用主を自分自身で決めるため、彼女たちの男性親族の管理下に置かれないだけでなく、奉公の間に蓄えた賃金によって経済的に自立することができたからである。また、奉公人制度は経済状況と人口(特に出生)の間に介在し、重要な役割を担う。かなわち、経済状況が良好な場合には、若者は早く結婚し、出生率を押し上げる。逆に、経済状況が悪化すれば、若者は奉公を長く続けざるを得ず、その結果、晩婚となり、出生率を下げる。このように、奉公は経済状況に応じて、結婚年齢を早くしたり、遅くしたりすることによって、出生率をコントロールする一種の安全弁として機能していたとヘイナルは結論づけている」503-4頁
「奉公人は、北西ヨーロッパの農業経営者たちによって雇われた賃金労働者の一形態である。また、日雇い労働者もいたが(通常、日雇い労働者は結婚した元奉公人であった)。合同世帯の社会の場合、世帯はほとんど全員が親族であり、ほとんどの仕事は世帯内労働として行われる、つまり家族労働であった。賃金労働者が多くいる農家の家計と、労働のほとんどを家族に頼っている農家の家計は、かなり違うだろう。この差は、1920年代にロシアの経済学者A. V. チャヤノフ(Alexander V. Chayanov)によって定式化された『小農経済論』…の中心となるものである。彼の見地はここ数年、かなり注目を集めている。チャヤノフは、もちろん、その用語で合同世帯形成システムを表わしたのではない。しかし、彼が『ロシア・インド・中国における小農家族』というとき、彼が思い描いているのは、合同世帯のようなものではないだろうか。彼は、合同世帯の発展に関する議論の中で、世帯主の息子の結婚によってつくり出された合同世帯が、世帯分割が起こるまで8年間存続するという『理論体系』(現在ではモデルと呼ばれる)を展開している」452頁