「人口理論の分野における戦後の2つの発展…1つは『自動制御的(homeostatic)』人口学的様式(demographic regime)という概念が広く受け入れられたことである。マルサスは、人口がそれ自体自己制御的な社会システムであるということを認識した最初の社会科学者として位置づけられてよいだろう。しかし、このような見方がはっきりと概念化されたのは、第二次世帯大戦後になってからである…第2の発展は、マルサス・モデルの再定式化である。現在では、マルサス主義の経済人口学が2つの派に分かれているということが広く認められている。第1のものは、労働市場と結びついたメカニズムである予防的制限(preventive check)——第2版以降の『人口論』で修正された定式化において強調されるようになった——よりも生存手段依存メカニズムである積極的制限(positive check)に焦点を置く初版の『人口論』から直接派生している。積極的制限を用いたモデルは、非現実的なシナリオというわけではないものの、ケース・スタディの示すところによれば、その適用可能性はかつて考えられていたものと比べてはるかに限られている」58-9頁
「出生順位に基づく出生制限を行う近代と自然出生力の前近代、というような二分法では容易に分類できない行動上の特徴を持つさまざまな人口を扱うことのできる、いっそう洗練された手法を開発しなければならない。…婚姻出生力を3つの構成要素——妊孕(妊娠)可能出生力(fecund fertility: 不妊になる以前の女性)、開始期妊孕可能比率(entry fecundity ratio: 結婚時点で認識可能であった女性の割合)、継続妊孕可能比率(subsequent fecundity ratio: 1人以上の出産経験がありかつ妊娠可能である女性の割合)——に分解するというケンブリッジ・グループの斬新な方法は、家族復元を行う者の道具の1つとして位置づけられるようになるであろう。この方法は、とりわけ北西ヨーロッパのような人口、すなわち結婚が比較的遅くに起こり、第1次妊胎不能や第2次妊胎不能という従来の指標が必ずしも適切でない人口に適している」67頁
「控えめな出生力の利点は生物学者には知られている。…進化論者は動物の対照的なカテゴリーにとって最適な2つの逆の戦略を仮定する。…2つの戦略はr戦略…とK戦略…として知られている…安定した生息地において、体が大きく、成熟が遅い生物にとって有利であるような、遺伝的に制御された生殖戦略は、遺伝的に制御されない人間社会の生殖戦略と相似である。いずれの場合においても、超高率の生殖よりもむしろ控えめな率の生殖の方が有利である。控えめな生殖は、体が大きな哺乳類や鳥類においては遺伝的にプログラムされたさまざまな出生力の規制によって達成されるが、人類においてはさまざまな社会的な習慣や慣行によって達成される」90-1頁
「『人口と社会構造の歴史のためのケンブリッジ・グループ』による16世紀半ばから19世紀半ばまでのイングランド人口の再構成は、イングランド人口の増加率を抑制する上で有配偶率の変動がどれほど重要であったかを示している…再構成された教区簿冊に基づく証拠は婚姻出生力が実質的に一定だったことを示している。出生力変動の主要な要因、従って自然増加率変動の主要な要因は結婚年齢の変動と生涯未婚者割合の変動であった。ヨーロッパにおける近代的出生力低下に関するプリンストン大学の研究で用いられた出生力指標に関して言えば、1550年から1870年までの間におけるイングランドの出生力の大きな変動は、ほぼ全部がIm(有配偶率の指標)の変動によるものであり、Ig(婚姻出生力の指標)は実質的に不変であった」104頁
「リー(Richard Lee)によれば、クング族における出生間隔は一般的な食物採集慣習と関係するような、保育形態と関係している。
『女性の仕事——すなわち野生植物性食物の採集——は、クング族の野営地で消費される食物の大半をもたらす。…
…狩猟採集民族にとって長い出生間隔の利点は明らかである。母親は長期にわたってすべての注意を1人の子どもの育児に集中することができるし、母親が次の子どもの育児に着手する時に子どもが大きいほど、その子どもの生存の可能性が高まる。』(Lee, 1980)」106-7頁
↑ ”Lactation, Ovulation, Infanticide and Woma’s Work,” in Cohen, Nealpase and Klein (eds.), Biosocial Mechanisms of Population Regulation, Yale University Press.
「都市化と人口転換とのタイミングの同時性についてのおおざっぱな説明は、フランスとイングランドについてはあてはまらない。フランスでは近代的な都市が出現するずっと以前の18世紀末期に、人口転換が始まった。これに対し、イングランドにおける出生率の低下は、バーミンガムやマンチェスターなどのような都市が、すすで汚れた工業セクターになった数十年後にやっと始まった。出生率の低下のタイミングがより精確に、Ig(婚姻出生率の指標)の10%の低下として観測されるようになったが、出生転換が始まったとき、ヨーロッパ各国の都市域に居住する人口の比率は多様であった。フィンランド、ハンガリー、ブルガリア、フランス、そしてスウェーデンでは、出生転換が始まったとき80%以上の人口がまだ農村に住んでいた。一方、オランダ、スコットランドそしてイングランドとウェールズではIgが10%下がったとき、依然として農村に居住していた人口は30%にも満たなかった…
それゆえ、かつて考えられていたほど、因果関係は直接的でも単純でもない。しかし、『都市と農村の〔出生率の〕差異』と『人口転換』との間に関係があるという考えを却下することはできない」183頁
「17、18世紀イングランド人口史の全般的な諸特徴…おそらくイングランドの最も顕著な特徴は、長期にわたる高い人口成長率である。たとえば、フランス、オランダ、スペイン、イタリア、ドイツの人口は、1550年から1820年の間に50%から80%増加したようだが、イングランドの人口は280%増加した。オランダの16世紀末から17世紀初めのように、他国でもイングランドと同じような速度で短期間に成長した場合があったが、イングランドはきわめて幸いなことにドイツの三十年戦争のような災害を免れることができ、他国に比べるとその成長率は著しく対照的である。
イングランドの成長率は、婚姻出生率が高かったがゆえにもたらされたものではない。有配偶出生率は、フランスやドイツよりも低かった。結婚性向も、18世紀にはかなり上昇したものの、全ての時期で高かったわけではない。イングランドは、むしろ『低圧な』人口体系を享受しており、出生力も死亡も伝統的な社会の一般的水準よりも低かったし、同時代の西欧の基準からしても高くはなかった。しかしながら、『低圧な』体系が超長期の高人口成長率の障害物を意味するわけではない」269-70頁→
Wilson, Chris. (1991) “Marital Fertility in Pre-industrial England: New Insights from the Cambridge Group Family Reconstruction Project,” paper presented at the Conference on Demographic Change in Economic Development, held at the Institute of Economic Research, Hitotsubashi University.
=友部謙一訳「前工業化期イングランドの婚姻出生力」、277-300頁
「中世農村の結婚に関する研究では、群を抜いて最も完璧な研究と思える、G. C. ホーマンズ(George Caspar Homans)の『13世紀におけるイングランドの農村』…男子は土地を得て、初めて結婚できるという規則により、ホーマンズは結婚年齢が高いと推定した。すなわち、『もし父親が死ぬか、土地を譲り渡すまで、男子が待たなければならないのなら、彼の結婚はかなり遅いものであっただろう』(Homans, 1942, p.158)。中世のように高い死亡率の下では、このような結論にはならない。13世紀のイングランドでは、子どもの半分以上は、17歳の誕生日が来るまでに父親を失っていただろう」381頁
「結婚年齢における男女比自体は、生涯結婚できる男女の数を決定するものではない。なぜなら、未婚女性は未婚男性と結婚する必要はなく、配偶者を失った男性と結婚することも可能だからである。もし配偶者が若いうちに死亡したため、多くの結婚が解消し、そしてもし妻を失った男性が寡婦より非常に頻繁に再婚するなら、男子数が女子数よりも相当少ない人口においても、すべての女性が少なくとも1回は結婚することができる。ここでは、男性の再婚は複婚のようなものである。この点は新しいものではないが、しばしば見過ごされてきた。200年前、ジュースミルヒは、この再婚の傾向を『連続複婚(polygamia successiva)』と呼んだ」387頁
「世帯が経済的生産と消費の主たる単位となっている社会においては…結婚形態がその経済全体の善し悪しと非常に密接に関係している…結婚に関する情緒面のこと、夫婦と他の親族との関係、結婚相手を選び割り当てる方法、これらすべてのことおよび他の多くのことは、花嫁の年齢が通常16歳である社会とそれが24歳である社会とでは同じであろうはずがない。これらのことは、おそらく明らかなことではあろうが、少なくとも現代ヨーロッパの出現を扱う研究史において、あまり言及されてこなかった。ヨーロッパ型結婚形態の背景を完全に理解するには、おそらく資本主義やプロテスタントの倫理の台頭のようなトピックを研究することが必要になるであろう」393頁
「もし晩婚が富を持たらす[ママ]のであれば、同様に富は晩婚を持たらす[ママ]ということができるかもしれない。結婚の条件として、人々があるレベルの生活水準に固執するため(その水準は各人の属する社会的地位によるが)、晩婚になるということが18世紀には言われていた(たとえば、R. カンティヨンにより)。もっと簡単に言えば、男子は若くして結婚することができないから晩婚になるのである。農夫は土地を得るまで、徒弟は見習い期間が終わるまでという具合に、彼らは自分で生計が立てられるようになるまで待たなければならなかった。
これに関しては、ヨーロッパ型結婚形態の特異性に鍵があると考えたくなる。ヨーロッパでは、男子が家族を支え得るのに十分な独立した家計を築けるまで、結婚は延期しなければならなかった。一方、他の社会では、若い夫婦を合同家族のような、より大きい経済単位に包含することができる。おそらく、後者はより容易に成し遂げられ、それ程長い結婚の遅延を必要としないであろう。…東ヨーロッパに見られるような大規模な世帯を有する大土地所有システムでは、非ヨーロッパ型結婚形態になるだろう。一方、ひとつの家族によって所有され、1人の世襲者へ受け継がれるような小さな土地では、ヨーロッパ型結婚形態になるだろう」394頁→
「<1 北西ヨーロッパの単純世帯システムに共通する形成ルール>
A 男女どちらも晩婚であった(初婚年齢の平均値は、男性が26歳以上、女性が23歳以上であった)。
B 結婚後、夫婦が自分たちで世帯を管理した(夫が世帯主となる)。
C 結婚前の若者たちは、奉公人として世帯間を移動した。
<2 合同世帯システムに共通する形成ルール>
A 男性の低い結婚年齢、女性のさらに低い結婚年齢(初婚年齢の平均値は、男性が26歳未満、女性が21歳未満)。
B 若い夫婦は、老夫婦が管理する世帯か、配偶者のいない老人(寡夫または寡婦)が世帯主である世帯に加わって生活を始める。一般に、妻が夫の方の世帯に入った。
C 複数の夫婦からなる世帯は、2つ以上の世帯に分割されることもあり、それぞれ1組以上の夫婦を含んでいる」420頁
「用語の使い方については少しばかり疑問がある。ケンブリッジ・グルーブの分類概念では2組以上の夫婦を含む世帯は独自のカテゴリーをつくらない。『多核家族世帯』というカテゴリーは、親族関係や結婚によって結ばれている2組以上の夫婦家族世帯からなるすべての世帯を含んでしまう。ほとんどの夫婦家族単位は1組の夫婦からなるが、それ以外のグループ、たとえば寡婦と彼女の子ども夫婦家族単位を構成する。このように『多核家族世帯』というカテゴリーは、すべての合同世帯だけでなく、それに加えて1組の夫婦しか含まない世帯も含んでしまう。したがって、北西ヨーロッパのすべての共同体において多核家族世帯の数が極めて少ないという事実は、合同世帯の割合が小さかった(おそらく6%未満)ということを裏づける強い証拠となるだろう」430頁
「前工業化期の北西ヨーロッパの農村人口において、奉公人制度の特徴は、以下のように要約することができるだろう。①奉公人は非常に多かった。6%未満ということはまずなく、全人口の10%以上を占めるのが一般的である。②ほとんどすべての奉公人は未婚であり、彼らの多くは若かった(だいたい10歳から30歳まで)。③男女とも若者の多くが、人生のある時期に奉公人として働いた経験があった。④多くの奉公人は、家庭内の仕事よりもむしろ、主人の農場や手工業工場での労働の一端を担った。⑤奉公人は、主人の世帯の一員として住みこんでいた。⑥ほとんどの奉公人は一定期間の契約により、主人の世帯の一員となった。⑦奉公に従事した結果、奉公人の社会的地位が主人より低下するという必然性はない。大多数の奉公人は最後には結婚し、奉公をやめる。彼らの社会的階級は奉公前も(すなわち、一般には親の階級)奉公後も、彼らの主人の階級と同じということもあった(一部の北西ヨーロッパの地域では、ある時期珍しいことではなかった)」448-9頁
「奉公人は、北西ヨーロッパの農業経営者たちによって雇われた賃金労働者の一形態である。また、日雇い労働者もいたが(通常、日雇い労働者は結婚した元奉公人であった)。合同世帯の社会の場合、世帯はほとんど全員が親族であり、ほとんどの仕事は世帯内労働として行われる、つまり家族労働であった。賃金労働者が多くいる農家の家計と、労働のほとんどを家族に頼っている農家の家計は、かなり違うだろう。この差は、1920年代にロシアの経済学者A. V. チャヤノフ(Alexander V. Chayanov)によって定式化された『小農経済論』…の中心となるものである。彼の見地はここ数年、かなり注目を集めている。チャヤノフは、もちろん、その用語で合同世帯形成システムを表わしたのではない。しかし、彼が『ロシア・インド・中国における小農家族』というとき、彼が思い描いているのは、合同世帯のようなものではないだろうか。彼は、合同世帯の発展に関する議論の中で、世帯主の息子の結婚によってつくり出された合同世帯が、世帯分割が起こるまで8年間存続するという『理論体系』(現在ではモデルと呼ばれる)を展開している」452頁
「チャヤノフは、経済理論の概念(地代・物価・資本など)が賃金労働に基づく経済の中で発展してきたと述べた。つまり現代流にいえば、A. スミス…やD. リカード…や、その継承者たちが、彼らが知っている経済システム、つまり北西ヨーロッパの社会システムに基づいた理論を組み立てたことは驚くに足りないということである。しかし、経済学者によって開発された合理的行動の概念は他の種の社会には応用することはできない、とチャヤノフは指摘する。『小農民』状態、つまり合同世帯人口社会の人びとには当てはまらないのである。もし、チャヤノフが正しければ、北西ヨーロッパの人びとの経済的行動は、合同世帯の人口グループとは根本的に異なっていたに違いない。そしてその差異は経済発展にとって大きな意味を持つはずである」452-3頁
ポランニの先駆者というか、ありがちな議論😅
「人類の大部分は、いつも小さな共同体に住んできた。それは200人から300人程度の村で、その間の移動は困難でしばしば危険であった。潜在的な結婚相手の数は少なく、規範(たとえば、カースト制)や伝統(階級など)によってしばしば狭められ、結婚相手として適当な人の集団は制限されていたに違いない。どうして、すべての女子に結婚相手を見つけることができたのだろうか。
これを成し遂げるメカニズムは、異なる社会では異なるように働いていたに違いない」384頁