「1900年以前の幼児死亡の原因について研究をすすめていけばいくほど、多くの幼児が天然痘やしょうこう熱で死んだだけでなく、不適当な食事やとてもひどい世話のやり方のためにも死んだことがわかってきた。すなわち、(母乳ではなく)小麦粉と水のまぜたものを与えたり、(経験豊富な産婆が注意深く分娩させるのではなく)野蛮きわまりない方法で分娩したり、(あたたかい産衣につつんで、幼児をやさしくあやすのではなく)幼児を包帯でかたく巻きつけたまま、何時間もほうっておいたり等々。われわれが扱っている社会は、妊婦が陣痛のはじまる直前まで野良仕事をし、母乳をやるのはほんのときどきで、早く離乳をさせ、そして幼児の命にはほとんど価値がおかれていない社会なのである」ix.
「わたしの考えでは、伝統的家族が近代家族へと変化したのは次の3つの分野での感情の高まりのせいであった。
<男女関係> ロマンティック・ラヴが、かつて男女を結びつけていた実利的な考えにとってかわる。結婚の相手を選ぶにあたって、個人の幸福や自己陶冶が財産やリネージに優先するようになるのである。
<母子関係> 母親と子どもの間には説明のつかない愛情——生物学上の絆の産物——があるとしても、母親の理性的な価値順位において幼児が占める順位に変化があった。伝統社会においては、母親は幼児の幸福よりもます、すさまじい生存競争にかかわって多くのことを考えなければならなかった。他方、近代社会では、子どもはもっとも重要なものとなり、母性愛によって子どもの幸福が何ごとにもまして大切に考えられるようになったのである」5頁→
(承前)「その後、これらの優先順位が逆転する。外界に対する絆は弱められ、家族を互いに結びつける絆が強められる。そして外部からの侵入に対して家族の団欒を守るために、プライヴァシーという盾がもうけられる。この家族愛のシェルターの中で、近代核家族が誕生するのである。このようにして、さまざまな家族関係において感情が重要な役割を果たしはじめる。情愛と愛慕、愛と一体感が、旧来の物質的、『実利的』な考えにかわって、家族の行為の規範となった。夫と妻や子どもは、自分が果たすべき役割や、自分のなしうる行為によってではなく、むしろあるがままの姿で評価されるようになったのである。それが『感情』の本質である」4-5頁→
(承前)「この感情の高揚が家族と周囲の共同体との関係における変化の原因なのか、あるいは結果なのかは重要な問題の1つであるが、本書では答えられていない。『近代化』の強烈な衝撃によって、伝統的家族の安住の地であった共同体の構造が破壊されたのか、あるいは広範囲におよぶ社会変化が、まず家族員のそれぞれの心性に影響をおよぼし、その結果家族が互いに手をとりあい、部外者の出入りを家族の団欒をみだす迷惑なものとして制限するようになったのか。仲間集団の信義を放棄したのが先なのか、あるいはまず家族の情緒的な結びつきを重んじるようになったのが先か。こうした問題は、にわとりが先かたまごが先かという問題と同じく、答えることは困難である」6頁
「わたしの議論はヨーロッパ全体を対象としている。いかなる辺境の村でも、家族は遅かれ早かれ感情で結ばれた家族への長い道のりをたどることになる。近代化がもたらす夫婦生活の変化は本質的にどこでもかわらないからである。男女関係にみられる実利的態度から情緒的態度へのうつりかわりや、核家族の周囲の共同体からの離脱もまた、どこでも起こった現象である。…合衆国でもそれほど劇的ではなかったにせよ——新世界は『最初から近代社会として誕生した』ものである——同じ傾向が多少は認められるだろう。感情の高揚や共同体と家族の絆の切断は、たとえ時代的なずれや地方による差異があるとしても、ヨーロッパ社会では普遍的な現象であったといえよう」14-5頁
「ロマンティック・ラヴとは、男女関係において自分から進んで何かをしようという自発性と相手の気持になるという感情移入の能力と定義しよう。自発性を重要視するのは、それが、伝統的な対人関係、共同体に強要された対人関係の否定につながるからである。…
…過去2世紀にわたって、西ヨーロッパ社会では、ロマンスが何よりもまず、男女間の心の垣根をなくし、魂の交流をつくりあげてきた。このような密度の高い心の交流がもたらした1つの結果は、厳密な性役割が薄れてきたことである。そうでなければ、心の触れ合いはありえなかっただろうし、人びとは定められた性役割の鉄の檻のなかに閉じこめられたままになっていたであろう。
もちろん、性役割が完全になくなってしまったわけではない。性役割によって社会の安定性が保障されるという近代のシステムのもとで、子どもの社会化が徹底しておこなわれたために、性役割は完全にはなくならなかった。しかし、歴史的経緯をみると、近代初頭ヨーロッパでは、一般に厳格な性役割があったが、現代でははるかにゆるやかなものになり、男女は自らの役割をより自由に決定することができるようになった。感情移入こそが、情緒的生活にこのような柔軟さをもちこんだのである」15-6頁→
「中世史に関する最新の研究では、『伝統的』という言葉は、宗教改革からフランス革命の3世紀間にもっともぴったりとあてはまると考えられている。最近になってようやく研究者も指摘しはじめていることであるが、13世紀は、さまざまな動きがいたるところで起こり、全般的に繁栄の時代で人口がうなぎのぼりに増加し、庶民文化が開花した時代であった。しかし中世後期になると、長期にわたる不況が続き…経済面、人口面、文化面についての衰退がはじまり、それは19世紀初頭まで続く。西ヨーロッパの文明史の中で、『伝統的』という言葉で表現できるのは、この衰退と停滞の時期である。後代の民俗学者たちが『太古の昔から変わりない』と考えた人びとの価値体系や行動様式が作りあげられたのは、この時期だったからである」21頁
「1795年頃のパリのポパンクール地区では、同居している子どもの平均数は、日雇い労働者の場合1.8人で、小店主の場合には2.4人であった。パリ全体でも、19世紀を通じて、この2つの階級に違いはみられ、3人以上子どもを同居させている世帯は、卸売商人では3分の1にのぼり、労働者では8分の1にすぎなかった。近代初頭のフィレンツェでも、裕福な世帯ほど大規模であったと思われる。そこでは、貧しい世帯の同居人の数は平均2.5人であったのに対して、裕福な世帯では5ないし6人であった。有力なギルドに属する手工業者の世帯構成員(平均5.5人)は、非熟練工のそれ(平均3.7人)よりも多かった。
大陸の諸都市でも同じであった。ストラスブルクの中流階級では平均して5.1人であり、下流階級では3.8人であった。デンマーク国境に近いシュレスヴィヒ州のウーズムという小さな町でも、18世紀のチューリッヒでもそうであった。これらの地域のすべてでブルジョワ世帯の規模が大きかったのは、中流階級が家業のために使用人や手伝いを多く雇ったからであり、また同居する子供[ママ]の数も多かったからである」25頁→
(承前)「1790年頃のマサチューセッツ州のセーレム…でもヨーロッパと同じような構図がみられ、世帯主の社会的地位が高いほど家内集団が大きい。平均すると1世帯あたり商人の場合で9.8人、親方大工で6.7人、労働者で5.4人であった。セーレムの中流階級は下流階級より多くの使用人と徒弟を雇っており、出生率も高く、商人と手工業者の場合、平均すると5.9人であった。それに対して、労働者は4.6人であった。
工業都市のノッティンガムでも労働者の家族規模は他の地域に比べて幾分大きいとはいえ、1世帯の規模はブルジョワジーよりは小さかった。…重要なのは、伝統社会の都市では『中産階級』の生活とは、多くの同居人がいることを意味していたということである。『ブルジョワ的』という言葉が小さな家族規模と仲むつまじい家庭を意味するようになるのは、近代化が旧体制を完全に解体し、近代的な仕事に従事する人びとにあふれた新都市が数多く生まれてからのことである」25-6頁
「ロジャ・スコフィールドは、1782年頃のイングランドのベドフォドシャ州にあるカーディントン教区で息子や娘が家にとどまった確率について次のように書いている。ここでは、男子は9歳の誕生日まで両親とともに生活するのが普通であり、11歳まで学校にかよう場合もあった。10歳から14歳の男子の4人に1人が奉公にでており、15歳から19歳ではその割合は5人に4人ときわめて高くなっている。20歳はじめの男子の7人に6人ないし8人に7人はまだ奉公にでているか、もしくは結婚しており、30歳までには、ほぼ全員が結婚してしまったと思われる。…カーディントンの女子の家庭生活は男子と違っていた。学校に行く女子は3人に1人であり、15歳までに親元を離れた女子は少なかった。15歳から19歳の時に男子の4分の3がすでに家を離れたのに対し、女子は4分の1にすぎなかった。多くの女子は、夫に手を引かれてはじめて、親の家を離れたのであり、自分自身で働きにでることなど考えもしなかっただろう」28-9頁
[↑上記に関する原注]
「わたしが、ここで厳しく批判している著者とは、もちろんわたしの良き友でもあるピーター・ラスレットである。彼は、すでに評価の確立している著書Household and Family in Pastの序で次のように述べている。『家族史における仮説ゼロとわたしが命名しているものは、資料の現状からやむなく家族という組織は、そうでなかったということが実証されれば別であるが、常に変わることなく核家族であったと推論しなければならないことであり、〔それはこの問題についてのある独特の確信〕から生まれてくるものである』。しかし、この著作のなかで示されている報告すべてが必ずしもラスレットの意にそったものになっていない。ラスレットはさらに数頁あとで次のように述べている。『複合家族が通常の人びとの通常の生活の一般的な背景となった時期や場所があったとは、わたしが考えるかぎりにおいて正しくないということにすぎない』。しかし、バルカン諸国、バルティック海諸国、ヨーロッパのアルプス地方、中央ドイツさらに中央および南フランス…の社会史に詳しい学者であればすぐに、ラスレットは公平を失しており、修正の必要があることがわかる」原注34頁
(承前)「ピーター・ラスレットは、イギリスの農村について、おじやおば(傍系親族)が同居している世帯はほとんどなく、祖父母の同居も少なかったことを明らかにしている。アングロ・サクソンの世界ではどちらかといえば、親族が同じ世帯に同居することよりも、近くに住むことが多かったと思われる。こうした親族の隣居がイングランドの伝統的家族生活の特徴であったことを示す事例もある。ニュー・イングランド植民地でも、親族関係にある多くの家族が隣あって住んでいたのは確かである。しかし、このことから、19世紀以前の農村生活において拡大家族(夫婦が親族と同居している)が、主流であったととうてい主張することはできない(逆説的ではあるが、むしろ近代化が進むにしたがって死亡率が低下し、祖父母が長生きして子どもと同居する可能性が高まるのである)」31-2頁
「植民地時代のアメリカの家屋は、設計者がイギリス出身であることを反映してか、他人に煩わされず親密な家庭生活を営むことができる場として作られている。…独立戦争の頃までには、アメリカ植民地の男女は、ヨーロッパの国では考えられないほど自由に、部外者の監視をうけることなく、性生活や感情生活を送っていたのである。もちろん、まったく自由であったわけではない。核家族であっても、建物の構造上、かれらのプライヴァシーは必ずしも完全に守られたわけではない。…
プライヴァシーは西から東にいくにしたがって守られなくなり、プライヴァシーという考えは上流階級から下流階級にうつるにしたがって稀薄になる。中世の仕切りのない生活空間を区切って、べつべつの機能をもつ独立した部屋を最初に設けたのは富裕な人びとである」44頁
「家族と共同体との関係は、20世紀と18世紀とでは異なる…今日では、私的領域と公的領域との間にははっきりと線が引かれており、それを犯すのは、市民の自由に対する侵害とみなされる。伝統社会では共同体と家族とはかたく結びついており、網のようにはりめぐらされた規則が両者を安定させていたのである。
伝統社会の家族のおかれている環境そのものが、家族の親密さを作り出す妨げになっていた。好奇心にみちた顔が〈愛情生活〉をのぞきこんでおり、家族でもない人びとがひっきりなしに家に出入りした。生活空間が狭いためにどこにでも村びとの目が光っていて、感情や愛情に対する公的な規制もきわめて強かった。家族の親密な情緒的結びつきは生まれようもなかったのである。近代夫婦が生まれてくるためには、この強固な共同体生活が解体する必要があった。世代別に世帯が分離し、また家族でない人びとを家から除外し、家族規模が小さくなり、年齢的に近い人びとによって家族が形作られてはじめて、家族の感情的一体化が生まれてくるのである。そして夫婦は自分たちのことを自分で決定するという自立性をもち、心のままに振る舞っては大変なことになるという声を追い払わなければならない」54頁
「寒々とした農家やじめじめとした納屋のなかで、どのような家族の心の交流があったのか…気むずかしい使用人や病気がちの幼児にとりかこまれて、夫と妻は、どのように暮らしていたのだろうか。…次のようなスウェーデンの農民夫婦の姿のほうが真実に近いようである。『男が前を歩き、女は後を歩く、広い道でも、女は男と並んで歩いてはならず、後にさがって歩く。使用人である15歳の少年も、相手が30歳の女使用人であっても主人の娘であっても、男であるから前を歩くことには変わりない。実際に、この少年のうしろを農場主の妻が歩いているのを見ることもできる』」55-6頁
↑ K. Rob & V. Wikman (1937), Die Einleitung der Ehe, p.348.
「数世紀前には人びとは通常愛情ではなく財産やリネージのために結婚したこと、夫婦が互いを思いやったり顔をつきあわす機会を最小限に抑え、まず生活を支えていくためにこの冷淡な家族関係をむしろ大事にしたこと、そして、仕事の分担や性役割を厳格にして、感情をできるだけもたないようにしたことである。現代の夫婦なら、表情豊かに振る舞い、抱擁しあい、見つめ合って互いの心を確かめるが、伝統社会の夫婦には、そうした触れ合いはほとんどみられなかった。『俺は俺の役割を果たす。お前はお前のことをしろ。2人とも共同体の期待どおりに生きていく。<それだけのことさ>。それで死ぬまで大過なくすごせるというものだ』。かれらは、自分たちが幸せかどうか自問することすらしなかっただろう。
…私は、伝統社会では、ほとんどの夫婦に愛情が欠けていた(もちろん、一握りの上層ブルジョワや貴族の家庭はこのかぎりではないが)と主張しようと考えている」56頁
「18世紀の…この若き医師[ブリゥド医師]によれば、田舎者に愛がみられないのは、生活の重荷に打ちひしがれたその日常のためであり、動物的に〈自然の成り行き〉に身をまかせた結果なのである。
しかし、判を押したようにどの農村においてもみられる女性の男性への従属は、単に悲惨な境遇だけに原因があるわけではない。たとえば、アベル・ユーゴに描かれているブルターニュ地方の夫婦は、生きることだけで精一杯という状況にはなかったが、親密な感情的つながりをもっていたとは思えない。『妻は、家の中では女中頭にすぎない。土地を耕し、家事をし、夫が終わったあとで食事をとる。その夫の話ぶりは荒っぽく、ぶっきらぼうで、ある種の軽蔑すらうかがわれる。…』…フランス中央部にあるブルボネ地方でも、ブルターニュ地方と事情はそうかわらなかった。時代的には、少し新しくなるが、ベルナール-ラングロワ医師の証言に耳をかたむけてみよう。『この地方にも幸福な結婚をする人びとはいる。しかし、多くの人びとにとって、結婚生活は束縛にすぎない。相手に敬意を払ったり、気遣いや優しさもみられない』」57-8頁→
(承前)「このように当時の人びとが記すところでは、農民の間にはロマンティック・ラヴなど——これが出現するのはもっとあとのことである——存在すべくもなかったし、都市の中流階級の家庭にはすでにこの頃にみられた夫婦間の特別な親密さ——これはのちに『家庭愛』となる——も存在しなかった。農民の夫と妻は、それぞれに殻に閉じこもり、冷やかに対立し合ったままいっしょに暮らしていたのである。…
…一般には配偶者の死をこれほど深く悲しむことはなかった。相手が死ぬとわかっても、それで情がうつるということもなかったと思われる。…農民夫婦を結びつけているのは情緒というよりも経済観念であったので、妻が病にふせっても夫は医者にかかる費用をだしおしんだ」58-9頁
「あらゆるところで同時に起こったわけではない。両極端を例にとれば、イングランド南部はブルターニュ内陸部に比べて2世紀も早く近代世界の入口に達した。しかしながら、遅かれ早かれあらゆるところで大転換が起こったのである」22頁