本当だよなぁ。まったく何でなんだろう。

「ナマイキ」だからなのかな。あくまで自分より下位にいるべきだと思っている相手が、自分が言えないような要求を当たり前にしたことが許せないんだろうな。自分も勇気をもらって真似して言えば良いだけのことなのに。

(藤井セイラさんのツイート↓)

なんでみんなこんなに車イスの人に怒ってるの!?

twitter.com/cobta/status/17697


Threadsで「発達障害はもっと弱くなれ」という投稿を見た事があります。生活保護受給者のデモに対して「こっちは働いてんだよ」とか(これ書いてたの立民支持者です)。

「皆様のお陰で、私たちは生きる事が出来ております」

こう言って平身低頭するのが「あるべき姿」で、少しでも声を上げるのは「あるべき姿」に反するから気に食わないのではないか。僕はその様に感じています。

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それ言ってたのが立民支持者って、キツイなぁ…でも、分かる気がします。

特に今の泉健太体制に満足している人たちとか。

教員とかまたは私の同業者とかでも、その手の人は多そうです。

要はそう言っている本人がわがままを言わない、大人を困らせない、「良い子」として育ってきて、そのまま大人になってしまった人たちなんじゃないかと思います。

もちろん現実にはすぐには実現不可能なことだって、世の中にはたくさんあるし、相手とのすり合わせをしながら落とし所を探るしかないことの方が普通なわけだけど、とりあえず要求する自由はあるのだし、今回のような大きな会社相手なら、そのくらいの要求に応えるべき社会的な使命を負っているだろうとも思うし。

「良い子」で育った人たちは、その人たち自身が相手を(上の立場の人を、親を)困らせるほどの主張(わがまま。私はわがままという言葉を大抵肯定的な意味で用います)は悪だという刷り込みが強いので、許せなくなるのだろうと思います。


僕も「良い子」として育ってきたタイプです。家庭環境や教育現場。僕の場合は宗教団体や民間療法も絡んできますが、人を頭ごなしに否定して押さえ付ける人間が多かったので黙り込む様になりました。そして、20代・30代までは、かなりの「冷笑系」でもありました。「陰謀論」にハマっていたのも「自分だけが知っているこの世の真実」という特権意識だったんだろうと思います。

僕がどこで踏みとどまれたのか。そう考えた時にいつも思い浮かべるのが、大塚英志氏の『サブカルチャー反戦論』です。これが僕の「護憲派・法治主義」のベースになりました。また「人に依らざば法に依れ」(ブッダ)・「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ」(ブレヒト)・「とらわれない事にとらわれる事がある」(寺山修司)も好きな言葉です。

そして、SNSの存在が大きいです。八方塞がりになって始めたのがTwitterでした。僕にとっては貴重な「言える場所」です。何かとマイナスイメージで語られる事が多いですが、SNSで心が救われた人も多いと思います。

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