やっぱりちゃんと攻撃性を扱って貰う(扱ってあげる)のが、心理療法のキモだと思ってます、私は。特にプリミティブな部分での問題を抱えている場合は。

しかしプリミティブな部分での問題を抱えていない人が本当にこの世にいるんだろうか。

少なくとも私はまだ面接でそんな人には会ったことがない。ただの一度も(まぁ会ってる人の数が少ないからかもしれませんが)。一見何でもなさそうに見えても、長く面接やって転移が深まれば必ずそういうところが出てくる。そこまでは「何だか分からないなぁ」と思いながらやっている。

問題が見えてきたら切れる(続けられなくなる)人も少なくない。鶴の恩返しの“おつう“のように。面接的には、本当はそこからが始まりだから勿体ない話ですが、まぁ私が頼りなくてそのような深い問題は任せられないと思われたのでしょうと思う。それが転移なのか現実の話なのかはどっちみち区別なんてつかない。

最初からのらりくらりとそこに触れないようにし続けていたのも、転移的なのか現実にもなのか、その両方か。私が頼るに値しない人間だと、意識的、無意識的に感じていたからに他ならない。

まぁそれは仕方がないことなので良いのだけど(お役に立てず申し訳なかったけど)、とにかくそういう場合もなかなか攻撃性が出てこないので、何となく面接がフェイク味を帯びているので分かるんですよね。隠してる。

いよいよやめるという瞬間に、それまで紳士然としていた人が本当に子どもみたいな悪態ついてやめてったりするので、それを普通に面接で出して欲しかったなと心から思うのだけど、あんまり子どもみたいな感じだとショックというよりはちょっと可笑しくなってしまう。

もちろん本人はそれどころではないのでしょうから笑ったりはしませんが「そんなあなたに会いたかった」「やっと会えた」と思うけれどそこでおしまい。その「最後に一度だけ出せたこと」が、何かその人の人生にプラスになっていたら良いなぁと、あとは祈っていることしかできない。

私が言いたいのは、そういう、普通の社会生活の中では出せないし、そもそも本人もそれに気づいてないような“子ども染みた“…または“狂気染みた“部分を出すことのできる限定された時間と空間だから(限定されてないと互いに怖いでしょう)、分析的心理療法には対価に値する価値があるということです。それを子ども時代に何らかの理由で親との間でうまく体験できなかったその人の中のある部分が、ずっと機会を求めていた筈だから。

面接の中限定でどんなに狂気染みていても良いしどんなに攻撃的でも良い、その人がずっと誰からも扱って貰えていない感情(または感情以前の何か)を治療者と一緒に体験して、それまでは心に上手く収まっていなかったものを長い時間をかけて最終的には心に収めていく作業。

でもやってる最中は何をしているのかも分からないし意識的に何かを考えたりする事に意味はない(むしろ害悪)。とにかくそれらを一つ一つ最終的には言葉にしていくのは大事だけど。やってる最中はただ狂ってるだけみたいなのが(だから本人も怖い)続く事だってある。聞いてる側からしたら「何言ってるか分からないよ?」みたいな状況(でも治療者は考え続ける)。

面接は反省会ではない。よく勘違いしている人がいるけど「自分の悪いところを治療者指摘して貰って自覚して“治して“いく」場所じゃない。自分の狂気や怒りや憎しみや(ドン引きされそうな)強烈な愛を、思う存分出して「相手が受け止めるのが当然」という安心を体験し続けるための場所。そうさせてくれないならそれは治療者の力不足。

うんと幼い子どもにとっての親子関係も同じ(ってかそっちが原型)。狂ってても攻撃的でも自分を当たり前に受け止める親を確認する必要がある。ただその際に「受け止める」は「願いを叶える」とは真逆なのでそこは要注意。

ちょっと暴論になるかもだけど、私は、ネトウヨやインセルとかって、それを全く自分と関係ないアカの他人(しかも抵抗できない自分よりも弱い相手)に対してやってる人だと思ってる。

昔なら彼らは家庭の中などで公然と認められた形でそれができていた。星一徹みたいなやつも、あれ、ただの赤ちゃん返りですからね。あんな眉毛の濃いオッサンが気に食わないことがあると癇癪を起こして暴れて、その後始末を明子とかにさせて平気でいる。

彼らのやっていることは、本当は、今は家庭でそれをさせてくれる相手がいなくなって、居場所のなくなった赤ちゃんたちの断末魔の叫び。「昔なら出来たのにぃ!」と手足をばたつかせて泣いている赤ちゃん。

でも、彼らの中のその自分では扱いきれないプリミティブな(言い方を変えれば“幼稚な“なんですが)怒りや狂気があるのは事実で、ただそれを抱えてくれとアカの他人に言ったらダメでしょうという話。ちゃんと自分のお金を払って心理療法に通い続けてくれればお相手しますよと。

でもそのニーズは彼らだけではなく男だけでもなく、本当は人間あまねくある筈なので、もちろん誰でもwelcome。子ども時代に親の前で無理して良い子をしていたり、親の方が子ども染みていて甘えて自分を出すどころではなかったすべての人に門戸は開かれてます。

面接は反省会ではない。幼児期の親子関係だと思えば(雑に言えば大体そんな感じですよ)何か言われては(子どもが、クライアントが)反省する場所であってはいけないのはあまりにも自明。

上手く行ってる面接なら叱られてるのは常に治療者。お前はなんて役立たずなんだとか、お前のせいで私の人生台無しだとか、人非人だとか、あなたは私の言ってることを何一つ理解してないとか…叱られまくってる面接はまぁそこそこ大丈夫。勿論叱られている点について真剣に耳を傾け続ける。

…つまり相手の“欲求不満“に耳を傾ける。満たすのではない。その人の人生が“台無し“になってしまっていたとして、それを私はどうすることも出来ないけれど、その気持ちを理解しようと耳を傾ける事だけは出来る。

受ける側なら、それを自分が求める。これでもかと求め続ける。それでも相手が自分を見離さず、興味を持ち続けてくれることを体験する。

何かが思うに任せなくて、何でもお母さんのせいにして、世界の終わりみたいに絶望して泣いている幼い子どもも、やり返したり抑えつけて黙らせるのは論外だが、ひたすらあやしたり優しく諭したりして泣き止ませる前に、絶望を消すために何かしてあげられる訳ではない自分のままに途方に暮れながら、その絶望感を受け止めてくれる親を求めている。

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日本人は「親、先生、上司、治療者、医者、etc.は偉い人だから自分より何でも知っていて教え導いてくれる人」みたいなのが骨の髄まで染み付いているのでその勘違いから解放するためだけにどれだけの労力と時間が必要か分からない。

同時にそうやって偉い人に盲従することと引き換えに、偉い人が何もかも丸抱えで察して口に出さなくてもみんな満たしてくれる…みたいな願望がある。口に出して要求すると煙たがられるから機嫌良く良い子をしていると相手が「可愛い良い奴よ」と何でも満たしてくれる…満たして貰えなくても文句を言ったら嫌われて捨てられちゃうからもっと可愛い子にならないと…みたいなやつ。

違いますからね。

親、先生、上司、治療者、医者、etc.は、自分の要求を突きつけても良い人、自分の話をちゃんと聞いて、出来る範囲でだけど対処したり守ったりする人ですよ。

それに対して、弱い立場の人間のやらなきゃいけない事は遠慮や忖度なしに求める事、伝える事、要求する事です。

控えめに待ってるのが良いのではなくきちんと自分の要求を突きつけるのが善。

上の立場の人間も何もかも叶えてあげないとダメだという万能的な思い込みがあるから逆に要求を恐れてしまう。下の者が「察して」自発的に切腹するように仕向ける。コミュニケーションの遮断。

欲求があり、それが叶わないと、当然欲求不満が起きる。それは普通、怒りという感情で表されるし、それが蓄積すれば恨みになる。

よくあるパターンで、まぁ私の身近では父親がそうだったのですが、良い父親をやろうと必死で、実際何くれとなく世話焼いてくれて、おそらくは常に自己チェックをしていて本人的には必死な人が、だからこそ「こんなに頑張ってるのに」その上まだ不満を言うか?!💢となっちゃうので、子どもなどの欲求不満に耳が閉じてる人がいる。(うちの母親は昨日書いた「象は静かに座ってる」の女の子の母親みたいなタイプ)

でも子どもには(クライアントには)欲求不満を持つ権利がある。こちらがどんなに叶えられない欲求でも相手が持つ権利はある。でもそれに耐えられなくて叶えてあげようとするか、叶えられなければ視界から消してしまう親(治療者)は多い気がします。子ども(クライアント)はそうなると余計に強い表現で繰り返し不満を伝えようとする。伝わってない気がしてるから。より強く訴えられるとこっちは余計に耳を塞ぐ…みたいな。

そう言うのって、こっちの自己愛の傷つきもあるけど、自分が怒りなどの欲求不満をちゃんと受け止めて貰った経験がない事に起因している気がするんですよね。自分が受け止めて貰ってない感情は受け止められないんですよ、人間。

つまりある種の分離不安がそこにはある。相手が自分に不満を持っているって(母子などの)一体感の満足をとても阻害するものだから。

そう言う場合、おそらくは子どもが幼いときには本当に何でも満たしてあげる親と、それを受け止めて100%満足している子どもという(本当はそんなはずはないとは思うけど)ユートピアがあったのかも。

お互いに満たしあっている理想の関係に戻りたいと言う欲求があり、でもそれは決して叶えられないもので叶えられないと言うことは彼我の間の大きな溝があることを認めざるを得ない…おそらくは親子双方にとっての、絶対に見たくない現実がある。

そこのところで親子共々、困っているのはよくある気がする。大抵の場合、お別れが辛いんだと思う。溝なんて見たくないんだと思う。子どもはでもそのままでは困る。自分という個人の人生を始められない。でも離れるのも怖い。溝なんか見たくない。

本当は幼児期に体験できていたらそこまで混乱してなかったかもだけど、思春期青年期、または“おじさん期“にそれがやってくると自他共に大混乱。

だから、難しいんですよね。

何を“虐待“とするか、何が“毒親“なのか、そんな単純な話ではない。悪者がいる訳ではない。いたとしても、それが困りごとの本当の理由とは限らない。大抵はそこじゃない。

でも、多分、それが人生というものなのよね、誰にとっても…。何にもそんなことのない人生なんて、多分、実はどこにもない。

皆んな、表では、何事もないかのように、涼しい顔して生きてますけどね。

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