新潮社のPR誌『波』6月号に載っている元産経新聞記者のコラムの内容がひどかった……。
川口市でのクルド人差別を槍玉に挙げて、「地元住民の声を伝える報道を“ヘイト”と片付けるのはいかがなものか」、「産経や読売以外は“負の側面”に目を向けた報道をしない」と嘆く。
このコラムは元記者の自著『メディアはなぜ左傾化するのか』の宣伝なのだが、編集部は何故これをわざわざ『波』に掲載してしまうのか。
個別の犯罪や事例を属性全体の問題であるかのように意図して結びつけることの暴力性と差別意識が批判されているんですよ。そんなことは分かっていてやってるんでしょうけど。
『波』にこうした内容のコラムを載せても企業イメージを毀損しないと思ってる新潮社の感覚が怖いわ。今更だけども。
世界の様々な女性たちについて書いたエッセイ集は、はらだ有彩『「烈女」の一生』もとても良かったです。
トーべ・ヤンソン、崔承喜、フリーダ・カーロ、吉屋信子、ワンガリ・マータイ、プーラン・デーヴィーなど、抑圧とスティグマと共に生きた20人の人生を綴った一冊。
実を言うと本を開いた時は、他者が眼差した解釈と言葉で誰かの人生が立ち上らされることへの居心地の悪さのようなものを少し感じていたのだけど、そんな葛藤などはすでに著者は考え抜いており、この本は「彼女たちが残した感情の痕跡に、自分の感情を託す本」でした。
「烈女」たち各人ごとに要となる視点があり、その要とフレーズを反復させながらどんどん膨らんでゆく語りが素晴らしかった。
小林エリカ『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』
マリ・キュリー、湯浅年子、ミレヴァ・マリッチ、カミーユ・クローデル、リーゼ・マイトナー、ヴァージニア・ウルフら、「彼女たち」の生と死に耳を澄ませる著者の真摯さに、私がかの人たちのことを「知り直した」時の沸々とした感情も蘇ってきて、ものすごく揺さぶられました。
個人だけではなく、工場で被曝し放射性障害になった「ラジウム・ガールズ」、ボコ・ハラムに誘拐され解放後に再び「学校へ通う少女たち」、学徒動員された女学生ら「風船爆弾をつくった少女たち」、旧日本軍慰安婦被害者たちとともに日本大使館前に集う「水曜日にその傍らに立ち続ける女たち」など、戦争と無関係には生きられなかった人々の声を聞き逃すまいとする著者の率直な胸の内が迫ってくる。
「偉人」のすぐ側で功績も存在も顧みられず忘れられていった女性たちが心に住んでいるのが自分だけではないことが嬉しかった。
アインシュタインがリーゼ・マイトナーを「我らがマリ・キュリー」と呼んだのは賛辞なのだとしても、私も著者と同じく何度でも繰り返したい。「我らがリーゼ・マイトナー!我らがリーゼ・マイトナー!」
小川公代『ゴシックと身体 想像力と解放の英文学』
19世紀英国のゴシック小説を、「“ゴシック”はつねに政治的な機能を果たしてきた」戦術という視点で読み解く一冊。
引用される作品を未読でも全く問題なく面白いです!
「“ゴシック”とは、因習や道徳に抗う方法論として“想像力”と“倫理”を効果的に運用する近代における新たな装置なのではないだろうか」
ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』においてゴシック小説のお約束である、犠牲となる高潔なヒロインや古城などの舞台装置が「家庭の領域」に置き換わっていることを、「家庭の領域が、ゴシックの基盤、あるいは女性を対象とした暴力、虐待、搾取のトポスとして読み直すことができる」とし、
そこからメアリ・ウルストンクラフトの『女性の虐待あるいはマライア』について「“ゴシック”に常套の展開を家庭の領域に持ち込み、女性にとっての真の恐怖物語を描いた」「当時のイギリス社会に生きた女性の現実的な恐怖やみずからの生命を守ることの価値を示そうとする戦術なのではないか」と論じる章が素晴らしかった。
降矢聡+吉田夏生 編『ウィメンズ・ムービー・ブレックファスト』
発売を楽しみにしていた、女性たちと映画を巡るガイドブック。
私はChapter 2「彼女たちの映画史」とChapter 3「映画を広げる女性たち」での、鼎談やコラムやインタビュー等が特に面白かったです。
個人的に、様々なトピックで数多くの映画やキャラクターを紹介するChapter 1は、テーマもページ作りも多彩で見た目にも楽しい反面、女性のキャラクター表象における各種ステレオタイプや、「芸術」の追求として女性たちへ注がれてきた視線や撮り方、その暴力の歴史がまとめて可視化されてもいるので、改めて振り返ることになるのが凄くキツかった。
怒りが込み上げてくるし気持ち悪いしで、思いがけずズーーンときてしまった……
上川多実『〈寝た子〉なんているの? 見えづらい部落差別と私の日常』
部落出身の両親と部落ではない地域で生まれ育った著者が、幼少期から日常の中で起こる周囲とのギャップに対して何を思い、どのように向き合ってきたのかが、つぶさに記されている。
差別とその矮小化への戸惑いと憤り、両親も属する組織としての運動内部の抑圧とその在り方への疑問、大きな運動を離れ別の方法を探し実践してきた過程、他の属性のマイノリティが受ける差別と自身のマジョリティ性を知ったこと、そして子育てにおいて二人のお子さんとの接し方など、誠意にあふれた思考と実践が丹念に綴られており、すごく力をもらった。
個人的に人生ベストに入る、素晴らしいエッセイでした。
うちの町会では例年、各家で一年持ち回りの班長さんが4月最初の土曜か日曜に町費を集めに周って来られるのだけど、私はこういった「不確定な予定」が苦手すぎるため、待つだけの時間が本当に苦しい〜
何事にも取るべき対応を先回りして考え準備せずにはいられないタイプなので、「(班長さんが)今日来るのか来ないのかも不明だが、確率的には来ると思われる」ような、自分からの行動はできずに宙ぶらりんな状態に置かれるタスクが一番苦手です……
佐々涼子『夜明けを待つ』
技能実習生が送り出し機関で学ぶ日本語学習は、スタンダードな「です・ます形」ではなく、現場で働くにあたり真っ先に必要な日本語の「どけ!」「やめろ」などの「命令形」「禁止形」であること。
日本語も母語も年齢相応の言語力に達していない「ダブルリミテッド」の子どもたちへの支援の現場では、文化の違いによる差異によって日本人に失礼な態度だと誤解されないための礼儀作法を教え込んでいること。
これら日本語学習における様々な取り組みを紹介するルポ内容の中で、支援現場の皆さんがあまりに「日本的ふるまい」を重視しているように思えて戸惑ってしまったのだけど、しかし私が「こんな悪しき“日本での常識”や“ルール”を身につけさせるなんてバカバカしい」などと感じても、それは今この国で実際に生活している「外国人」の助けには何ひとつならないのだということを突きつけられた。
自己責任論が蔓延るこの日本社会では、こうした処世術が言葉通りの意味で身を守る術となる暮らしの現実に対して、知識も実感もぜんぜん足りていなかった。
佐々涼子『夜明けを待つ』がとても良かった。
日本製紙石巻工場の震災復興のノンフィクション『紙つなげ!』や、『ボーダー 移民と難民』などの著作がある佐々涼子さんの、エッセイとルポルタージュをまとめた一冊。
技能実習生の現状やダブルリミテッドの子どもたちへの支援についてのルポでは、「日本人が心情的な鎖国を解かなければならない日がやってくる」と佐々さんが書く一連のルポは2013年のものだが、今も何も変わっていないことに暗澹たる思いになる。
身近な人たちの死と自分自身の死について思いを巡らせる本でもあったのだけど、著者のご病気とあとがきの内容が受け止められず、最後の文は未だにしっかり読めていません……
障害者の権利保障については、清水晶子、ハン・トンヒョン、飯野由里子『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』が良い入門書となると思う。
障害の「個人モデル」と「社会モデル」の考え方や、障害者の社会生活上の不利や困難を「思いやり・善意」で解消しようとする考え方の問題点、ならば「一般の人」に必要な視点とは何かということが、対話形式でとても分かりやすく理解できます。
「障害者差別解消法」で法律が変わっても、マジョリティの障害問題に関する受け止め方が相変わらず「思いやりと優しさ」であるため、「自分たちに余裕がない時にはしなくても許される」という感覚が広がったままになっている、という話も出てくるのだけど、この数日のSNSを見ているとまさにその感覚が全く更新されていないんだな……と思う。
1990年代のキャッチフレーズ、「心のバリアフリー」のまま。
BTの、「発端となった出来事を矮小化してその話が出来なくなる」空気が醸成されるしんどさ、すごく分かるし辛い。
差別に対して憤ると同時に自身の行動を省みる大切さも、誰かの行為の意図や内心を他者が決めつけることはできないのだから推測をもとに断罪すべきではない、という留保もすごく重要なことだけど、それらの意見がそもそも問題を軽視して「差別など存在しない」と主張する声にも寄与することになってしまう現状が本当に嫌になる。
元々の、その差別的行為を目撃した人の傷ついた気持ちやフラッシュバックが起きた辛さが置き去りにされてしまっていると感じる。
なにか差別事例が起きたときに「我々も違う構図で同じようなことをやっているのでは」と振り返るのは必要だし大切なことだけど、それによって発端となった出来事を矮小化してしまう、その話を出来ない雰囲気にしてしまうのはよくないんじゃないか。そこを注意しながら言わなければいけないんじゃないかと最近は思う。
読んだ本のことなど。海外文学を中心に読んでいます。 地方で暮らすクィアです。(Aro/Ace)