自分のさいごはどうなるか
ご本人も100歳を超えるまで生きるとは思っていなかったと思う。どういう最期を迎えたいと思っていただろうか、もしはっきりと意思表示できたなら「アタシはこんなのイヤよ!」と言ったに違いないこともあった。そもそも介護施設に通うのに、着物から洋服に変えるのすら抵抗した人だもん。
ご本人の貯えがつきて、最後はホームのある自治体の生活保護を受けさせてもらったけど、亡くなったとき、火葬も共同墓地への納骨もぜんぶ市でやりますよと言ってくれた、が、その場合近親者の立ち合いは一切認めないというので、こちらで引き取ることにした。夫と義母と同じお墓に入れてほしいって生前からずっとお寺さんにもいろいろ納めてたのに、それがかなえてあげられないなんてありえないから。
わたしはどういうふうに死にたいのかな、最低限の願いだけでも、それを支えて見届けてくれる人、いるのかな。いや、属人的じゃなくて、そういう仕組みがあったらいいのにね。とは思う。
自分のさいごはどうなるか
「遠い親戚」のおばさんのお世話をしていた。大正一桁生まれの女学校出で、90歳近くまで女学校の同窓会長をしていて、朝日歌壇の常連投稿者で、夫を戦争で亡くし、子はなく、遺族年金と利子で暮らしてる、いつもお着物をピシッと着こなして頭が良くて頑固で声の大きいおばあさん。わたしは小さいころずいぶん可愛がってもらった。
最後の10数年は、手術の同意、アパートの保証人、ケアマネさんとの打ち合わせや手続きすべて、ホームへの2度の引越し、火葬と納骨まで、うちの実家の家族でみんな引き受けた。新幹線で何往復しただろう。
みんなおばさんにはお世話になったし、最後までみてあげられて、恩返しできたねって思っている。
けど、これができたのは、ちゃんと関係性ができていて、金銭的にも体力的にもあらゆる状況がたまたまその時期にそれを許したからでしかなくて。
自分のさいごはどうなるか
自分はどういうふうにさいごを迎えるのかな、って時々考えるけど、たぶんそのとき誰も周りにいないと思うんだよね。子や孫に見守られて大往生した祖母みたいなことには決してならないことだけは自明。
一人暮らしでひっそり亡くなって、何日も見つけてもらえないのも悲しいし、「孤独死」と最後の一点だけを切り取って人生すべてを可哀相なものみたいに言われたくもない、発見した人に多大な心労をかけるのも申し訳ないし、面倒な手続き押し付けられた遠い親戚とやらに迷惑なババアと記憶されるのも嫌だ。
どうやったら、みじめな気持ちにならずに、きれいに終われるんだろうかってずっと考えてる。年老いた孤独なわたしは、じぶん自身の死に際して わたしらしさを守ることができるんだろうか。
» 「難病法」成立から10年 難病への理解深めるきっかけに | 日本経済新聞 電子版特集 (2024/5/23)https://ps.nikkei.com/nanbyo2024/
【ABC特集】難病・潰瘍性大腸炎が”国の指定”から外される危機 声を上げる患者
https://www.youtube.com/watch?v=vvbVZ6shW4k
”厚生労働省は、「特定の疾患について、絞って表現したものではない」と回答しましたが、患者など当事者から「潰瘍性大腸炎などの病気を、指定難病から外す動きではないのか?」と、不安の声が上がっています。”
党首討論見たけど、政府側自民党側の答弁者のあまりの態度の悪さにイラついて耐えきれずチャンネルを変える、という気分にならないことが久しぶりすぎて、ちょっとぐっときてしまった。
あの「見るに耐えなさ」は、政治から目をそらさせようとわざとやってるんだろうと思っていても、あまりにも見るに耐えなさすぎたし、政治に興味を持とうとか、不断の監視が必要とか、分かってるけど、とても人に視聴をすすめられるものじゃなかった。
都知事選のときも、職場で「政治に興味のない」ほうかなと思ってた同僚から、あまりにも酷すぎて選挙公報も政見放送も子どもに見せられないですって声が出てきたくらい、触れればかえって政治に強い嫌悪感、拒否感を植え付けてしまうような情報にあふれてて。
わたしは子どものころから「政治に興味のある」子どもだったけど、「政治は面白いよ!」と人に言えなくなって久しいし、それがずっと悲しかったんだよな、と思った。
それでも、見たくないものを見ずに済ませることができた側の人間として、当然批判は受けなくちゃいけないし、反省もし、できることからやらなくちゃいけない。
やまゆり園事件と死刑確定者の接見禁止
タイトルがセンセーショナルすぎてはばかられるけど。
社会と隔絶されることがどれだけの恐怖か想像もつかない。これも「死刑囚」には当然の罰だ、で思考停止して済む問題ではないと思う。
やまゆり園障害者殺傷事件の植松聖死刑囚が獄中結婚 (篠田博之)
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/419548cf821381487a39a980b347fc15b11dfa44
わたしは今まで積極的な改憲論者じゃなかったけど、うんとリベラルに引っ張った改憲案を作るべきでは、という気がしてきたな。。そうでないと、AとBどちらが良いか、あるいは、という議論にならなくて、ただ自民党改憲案に賛成か反対かの問いになってしまう。
世の少なからぬ人たちが、いろんなニュースに怒ったり声を上げたりしているけど、同性婚も生活保護の水際作戦も再審法もその他いろんな問題について、当事者の方たちが裁判起こして戦ったりする必要がない、法の解釈や現場の匙加減なんかで不当に扱われたりすることがないような、がちがちの条文にして書き留めておけばいいわけで、それが根本的な解決なんじゃないのかな。
弱い人を(弱い人も)きちんと守るために、法はあるべきで、その点から言うと、憲法を改正しなくていいって言ってる人は、いま「現行憲法に困らされていない」マジョリティで、「現行憲法の不備によって不利益を被っている人」の存在を無視していると言えるのではないか?
≫「解散は首相の専権事項」って本当?
解散の「良い慣行」を作ってゆくべき(2014/12/05)
https://imidas.jp/jijikaitai/c-40-093-14-12-g539
国会を開くのも解散するのも、「良い慣行」や慣習、倫理、規範意識、遵法精神みたいなものに期待できない(ことがよくよく分かった)以上、ちゃんと明文化する必要があるんじゃないのと思う。問題は、すでに法律作る人たちの多くに遵法精神がないらしいことだけど、だからといって(だからこそ)ただ護るとだけ叫んでても、今までどおりに粛々と解釈改憲を積み重ねられるだけなんじゃないかな。
» 気候危機にメディアはどう向き合うべきか(第1回)
広がるメディア間連携と市民との協働【研究員の視点】#534 | NHK文研
https://www.nhk.or.jp/bunken-blog/100/493475.html
●毎日新聞ニューヨーク支局 八田浩輔専門記者:
海外と日本の気候変動報道の違いというのを考えたときに、ポイントが2つあります。1つは、公正=justiceの問題です。実は気候変動で大きな影響を受けるのは、社会的・経済的に弱い立場の人たちです。つまり格差とか、差別とか、貧困、ジェンダーなど、公正が絡む問題に気候変動を関連付けた記事が重要ですが、まだ日本ではそんなに多くない、むしろすごく少ない。
もう1つは、日本の報道に多いのが、何でも「ジブンゴト」とか、「ひとりひとりができること」みたいな文脈に落とし込んでしまうことが多い気がします。むしろ大事なのは、他人や困窮するコミュニティーあるいは未来の世代のことを想像し、その中で社会のパラダイムを変えていくことではないかと思っています。
9月29日(日) 午前10:05〜午前11:00
「気候変動で“食”が大ピンチ! 」
1.5℃の約束 いますぐ動こう、気温上昇を止めるために - NHK
https://www.nhk.jp/p/ts/NWVLW4QQ3K/episode/te/JM4PP6VZ7N/
暑すぎる終わらない夏、民放NHK6局の人気キャスター集結!気候変動と“食”をテーマに語る環境SP!温暖化が進むと食べられなくなる幻食材!?“未来の食事”に驚き
▽星付きフレンチシェフ監修の幻メニュー!2100年4℃上昇で滅多に食べられなくなる食材とは?▽日本の海に異変!サケもウニもカニも?近海寿司ネタ消滅の危機!▽民放キャスターが“食”リポ!北海道、九州、パリ、NY、パキスタン…涙の理由とは?▽サッカーのレジェンド小野伸二が「#何もしないともっと暑くなる」に参戦!気候変動とJリーグ!?▽気象キャスターが声を上げた!暑さ・大雨の原因に温暖化、その対策は?
@sethgodman
はい、どこの国でもそういう傾向があるのだろうとは思うのですが。
以前マストドンでどなたかが、「欧州各国の天気予報では温暖化や気候変動について言及することが多いのに、日本ではほとんど触れられない」というようなことをおっしゃっていて、気になっていました。
たしかに日本のテレビの天気予報は、どの局もただただ「明日も暑い、熱中症に気をつけろ」って繰り返すだけで、温暖化の「お」の字も言わない気がしてて、実際今年の6月に日本の気象予報士さんたちが「日常的な気象と気候変動を関連づけた発信を増やそう」という共同声明を出していましたね。
こういうところも地味に影響あるのかな…と思います。
残念ながら、この声明以降、言及が増えたという感じもしないのですが。。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_665adb57e4b0b6cf3f484beb
@sethgodman
先日NHKでも温暖化の番組やっていましたが、大体において、「猛暑だ、大変だ!」みたいなところで終わりがちなんですよね。良くて「だから家の断熱をしよう」とか、まあそれも大事なんですけど、いつも対症療法しか伝えない感じがあります。値上げラッシュ>節約レシピだ、食料がない>雑草でかさ増しだ、みたいな。。
自分たちに何かできる、と思わせたくないのかな、とすら思います。根本的な解決法を考えさせないというか。
この国にいると、選挙権があって、何をすればよいか、そのリワードもはっきりしているはずの「投票行動」ですら、「おまえたちは無力だ、何も変えられない、酷い目に合っても黙って諦めろ」と耳元でずっとささやかれているような気がします。
政治に関しては、「それじゃだめだ、みんな怒ろうぜ!」と言う人たちがそれなりに居ると思うのですが、環境問題になると「まあしょうがないよね(生活変えたくないし。。)」が大半になってしまうんですよね。。
@sethgodman
ダメなものをダメと言い続けることが「正義の暴走」なんじゃなくて、「自己中心的な区別(差別)に無自覚なこと」と「どちらかを絶対的な正義と捉えること」のダブルコンボが「暴走」の始まりなのかもな、という気がします。
これが「みんながそう言ってるから」と掛け合わされると、恐ろしいですね。。
どこかにちゃんとブレーキを持っていなければいけないなと思います。
@sethgodman
ほんとにそうですよね。
こうやってどんどん突き詰めて考えたら、どんどん息苦しくなるじゃん、という人もいるでしょうけど、わたしはむしろ考えれば考えるほど「間違わないことが無理」だなと思うようになりました。一種の開き直りかもしれませんが、でも、「常に正しくなければ」とか「何が 最も/唯一 正しいのか」みたいに考えていた時よりもずっと楽になった気がしています。間違ってることを指摘されるかも、と必要以上にびくびくしたりすることもないし、指摘されたら(ああ、そうかー)と思って反省して受けとめていくしかないわけだし。こうしてずっと自分の中の矛盾や差別心に気づいては整え、気づいては改め、ってやっていくしかないんだよな、と思っています。
@sethgodman
結局のところ、「スーパーに並んでるパックのお肉は平気で買って食べるのに、うちで飼ってるペットのことはなぜ食べ物だと思わないのか」ということを、自分の頭で考えるところからしか始まらないんだよな、、としみじみ思います。。
「スーパーでお肉を買う」みたいな、自分がやってるいつも通りの行動にだって、無自覚な区別(差別)が必ずあるし、何かを選べば何かを踏みつけるし、たとえどっちも選ばなかったとしても何も踏んでないわけじゃないっていう、ごく単純なことじゃないかなと思うんですよね。
それに対して自分がどう考え、どう振舞うか、という個々人の決断の問題なんだなと。
(おっしゃるように「環境問題」としてはまた別の角度で捉える必要があると思います)
@sethgodman
わたし、写真ですら反射的に目を逸らすほどお蚕さんが苦手で。。黒い毛虫も小さい芋虫も平気なんですけど、大きくて白い毛のないのはダメ、自分でもまったく説明不能だし、論理的でも合理的でもない強い忌避感があって打ち消せないのが怖いなあと思っています。説明できればいいというものでもないし。
もちろん、人間が生糸を「生産」するために蚕にしてきたこと、していることも「正義」とはとても言い難いと思います。
Sethさんはご自身のことを「種差別主義者だ」とはっきり自称することができるけど、わたしはできないんですよね。みんながそうしてるから、自分が苦手だから/好きだから、自分の経験上こうだったから、その時々で身勝手に「何を差別するか」のルールを変えている。
おっしゃるように、こういうところを突き詰めて考えず、自分目線でしかないルールに漫然と従っていると、ただでさえ常に何かを犠牲にしてるのに、ひどいダブスタな差別を無自覚にやってしまいかねないなと思います。
今までちょっと聞きにくいお話だったので(聞いてよいものか、というのと、こちらの後ろめたさみたいなものとで)、菜食についてちゃんと伺ったの初めてだったと思いますが、本質的に、差別や正義の話なんだなと思いました。
@sethgodman
牛の角って温かいんですね。血管も神経も通ってるし、当然切ったら痛いんだ。。知らなかったです。
ほんと人間は勝手ですよね。種(集団)としても、個人としても。好き嫌い、良い悪い、役に立つか立たないか、どちらが「正義」で「どちらに肩入れすべきか」、時と場合、対象によってころころルールを変えてしまう。多数から肩入れしてもらえなかった側からすれば、理不尽極まりないです。
黒くて大きい虫、カブトムシは人気なのに、一方にはものすごい嫌われ者がいて、この扱いの違いはなんだろな、といつも微妙な気持ちになります。ちょうちょは綺麗だけど蛾はそうじゃない、ミツバチは役に立つけどスズメバチは危ない、ニンゲンに当てはめたら恐ろしいくらいのガチガチのルッキズムや優生思想だと思うんですけど。。動きや見た目が「生理的に無理」みたいなのも、「分かる」けど、その感情に身を任せるのは怖いな、と思います。それが行きつくところはどこなのかと。