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お返事ありがとうございます。
ひょっとしたら、畜産関係の方が身近にいらっしゃるのかな、と思いまして。。
無関係な立場から、きっとこうである/こう考えているに違いない、というような決めつけをするのは危険ですよね。こうするな、ああするな、そんな職業はなくしてしまえばいい、みたいな「行きすぎ」にあっという間に繋がるので。。

わたしが育ったのはもともと林業しかないような中山間地で、畜産や酪農の現場のことは分からないのですが、昔から猪やイルカを食べる風習がありました。
わたしが子どものころよりも鹿や猪による「害獣被害」は顕著に増えていて、でも、ニンゲンサマが困るから害獣は処分していい、のか? 「痛そうな」方法はダメで「痛くなさそうな」方法ならOK、絶滅しそうなのはダメだけど、こっちはまだまだいっぱいいるから問題ない、可愛いから、賢いから、だから・・?
食べていいものと食べてはいけないもの(=自分のために犠牲にしてかまわないものと、「守ってあげる」もの)のラインは誰の都合で引いたのか。よく考えもせず多数が従っていそうな「ガイドライン」に従って、自分で覚悟をもって選択していないから(それが楽だから)、自分が「何を犠牲にしたか」「何を差別しているか」を自覚できないんだな、と気づかされます。


何度かご自身のことを「種差別主義者である」と書いてらっしゃいますが、ここまでのやりとりの中でこのお返事をいただいた文脈というか真意について、ずっと考えていました。

立ち入った質問になってしまったら申し訳ありません。

きっと、動物のことは大事にするのに植物の命は守らないんだろう、みたいな嫌味(というか攻撃)を受けることもたびたびおありなのではと想像します。
菜食という選択をするかたは、それぞれにいろいろな理由があり、それも複合的なものだったりするのだと思いますが、Sethさんがその選択をされている理由の一つは、たとえば、生まれたときから大切に大切に育ててきた生きものを「出荷」しなければいけない人の葛藤や悲しみや、食肉加工の現場で働く人の過酷さや、差別、そういうものを見ないふりをしたり、その人たちの苦しさを「多少の犠牲」と見捨てることを選ばない、ということなのでしょうか。


やなせたかしさんの言う「ひもじい人に食べ物をあげるのは正義だ」は、絶対的といわれても異論ないな、とわりと長いこと思っていたんですよね。。でもこれも、ニンゲンのことはたしかに「誰一人」見捨てていないかもしれないけど、食べ物にされる動物や植物の意見は聞いていないし見捨てている。

(他人の言う「正義」に疑問を持たず、軽々しく賛同しているだけだった)

その点で、地球環境が将来的に持続可能であるように暮らすという考え方は、(それを目指す過程で「見捨てられた」って感じてしまう人もいるかもしれないし、食物連鎖の「犠牲」の構造は大きく変わらなくても、)「誰も見捨てない」に限りなく近いんじゃないかな、と思ったりしました。

生きてる限り、誰か(何か)に犠牲を強いているわけで、「わたし(の正義/正しさ)は、いま誰を見捨てているか」と自分に問うことを怠ってはいけないな、と痛感します。


先日「南海トラフ臨時情報」が出ましたね。わたしは四国に地縁があるので、いざ起きたらということはいろいろ考えるのですが、まあ四国という島から逃げ出しようがないし、島ごと見捨てられちゃうんだろうなと容易に想像できる。しかもそれがもしこの7~8月の猛暑に起きたとしたら、どれだけの人が暑さで命を落とすんでしょう。どなたかが言っていたように、もうエアコンという電力使う外部装置なしに夏を生き延びられないのに。

地震も暑さもみんな天災だからしょうがない、といってまた日本人は諦めてしまうのかもしれませんね。因果関係を認めないという人もいるでしょうし、温暖化も今からちょっと頑張ったくらいでどうにかなるものじゃないのかもしれない。たぶん実際そうだろうと思う。けど、そう言ってるうちに、遠くの島が沈んじゃうだけじゃなく、自分が「(多少の)犠牲」側に含まれるのもすぐそこなんだろうなと思います。

と、現実的な危機感を覚えるのは、今年の東京の雨の降り方が「異常」で、帰宅困難になったり、たった10分程度の土砂降りで近隣の排水が追いつかない現象に遭遇したりして、今まで感じたことのなかった恐怖を覚えたからです。こうなってみないと、「自分事」にならないんですよね。。

しばらく前に「検索エンジンやSNSやvegan食品とかエコ製品も、みんなが別の選択をすれば質も良くなるし選択肢も増えるけど、まとまった人間が動かないと他の選択肢は改善されていかない。状況が改善されないから人が来ない、人が来ないから状況が改善されない」と書いてらっしゃいましたよね。あれを読んで、「野党がダメだから自民党に入れるしかない」「どうせ1票で何も変わらないから投票いってもしょうがない」というのと似てるなと思いました。考えることも変わることもめんどくさくて、けっきょく文句言いながら責任を放棄して嘆いてるだけ。

さきに告白しておくと、わたしも環境問題についてはほんのちょっと自分にできることをやっているくらいで、一人分の責任を果たしてるとはとても思えません(すみません) >続く [参照]


子ども同士で「〇ちゃんの靴下ワンポイントが入ってる」とか「髪ゴムの色がグレーだ」とか、目を光らせあってるの、異常ですよね。そんなことでギスギスしてたの中学校3年間だけですが、強烈な体験だったと思います。が、それを未だにみんなでやってるんじゃないの、という。。

ルールがなぜ必要で、どんなルールを作ってはいけなくて、誰にどんな配慮や調整が必要なのか、みたいなことを一から考えたことがないんですよね。
本当に手間がかかるし疲れるけど、ちょっとずつやるしかなくて、「正義のためなら/大義名分のためなら 多少の犠牲はしょうがない」を自分がやってしまっていないか自問し続けることや、一つ共感しあえない/調整できない点があっても敵だのばかだのと断絶しないことが大切なんだろうなと思います。

でも、それを「個」が確立していない(個を確立することが悪だとされている)国でやっていくのは、ものすごく難しいですね。。

遅刻するなとかも、当時のわたしは「何も間違ったこと言ってない。誰でも ”ちゃんとやろうと思えば” できるはず」としか思ってなかっただろうし、無自覚に誰かに残酷なことをしていたと思います。
一方で、なぜ子どもに子どもを監視させるようなことをさせたのかという恨みのようなものをわたしは抱えてきたし、もっと言うと、当時の教員の方々も無理な働き方をさせられていたのではないかとも思います。みんなどこか痛みを感じてて、「全体」のために黙らされている。閉じた環境のなかで分断されているけど、共通の「敵」が学校の外にいたのでは?という気になります。
誰が「正しさ」を決めたんでしょうね。そして、確実に学校で教わっているのは、「与えられた正しさを疑うな」ってことなんじゃないかな。。
逆に、学校でも家庭でも教わっていないことは、「他者の独立性に対する敬意や配慮や尊重」ですよね。わたしには、それを学ぶのがとくに難しかったです。

で、最初の議題 「自分の正義は他人や社会全体にとっても正義だ、みたいな絶対的な自信はどこからくるのか」を改めて考えてみると、「みんなそうだから(みんな、そうでしょ?)」になってしまう気がして、ちょっと戦慄しています。そもそもからして、他者と自分とが未分化な感じ。自分にもあります。。

少しずつお返事書きますね。

小学校のころ仲間外れする集団がいて、やめなよって言って返り討ちにされるような子でしたが、それは正義感というよりも自分が嫌いな集団に加わりたくなかっただけというか。

「自分の正しさを人にも押し付ける」をやり始めてしまったのは、やっぱり中学時代に学級委員やってたことが大きいですかね。ご多分にもれず「ちょっと男子ー!静かにしてー!」とかやってたので(笑

自分が「正しくなければいけない」みたいなものは身につけてしまったかも。ルールを破って誰かに後ろ指さされたり先生に怒られたりしてはいけない、みたいな。
正しく(品行方正で)いなければ人に注意はできない、みたいなプレッシャーを自分にかけてたかもしれません。

そのわりに、ルールへの小さな抵抗や反逆もしていて、自分が理不尽に感じているルールは適当に破りつつ(髪をくくる高さは耳より下で、とか)、自分が違和感を感じないルールは当然に守らせようとしていた(遅刻するなとかまじめに掃除しろとか)かな。。

こういうのは集団と個が一体化しているからとか、集団の利益を優先するのが正しいと思い込んでいるから、と言えるかな、と思います。ここでの「正しさ」は教師に与えられたもので、そこに疑問がないんですよね。

ひとまずここで。


学校では習いませんね。。
義務教育では、道徳で「思いやり」を習い、先生や上級生に従うことが正しくて、人に迷惑かけちゃいけなくて、被害者スタンスな戦争コンテンツで「戦争は ”よくない”ね」ってことを習った気がします。

わたしは、自分が知ってることなんかほんの少しだし、自分が常にどこかで「間違っている」し、誰かを踏みつけているはずだと思うので、揺るがない正義なんて持てないです。「この人の言うことは大体ぜんぶ正しい」みたいな人がいてくれたら楽だろうと思ったりしたこともあるけど、違う立場の人の意見を聞いたり、対話させてもらったりして、自分の知らなかった物の見かたや自分の思い違いに気づかせてもらって、ちょっとずつ「より良い」ほうへ変わっていくしかできないんじゃないかなと思っています。

でもこんなふうに考えるようになったのはわりと最近のことかな。。以前はもっとナチュラルに「これは良くない!」「こうしたほうがいい!」みたいに他人に踏み込んでしまってたと思います。「正義感」の強い学級委員だったので。。


資生堂が、強いストレスを感じたときに発するにおいがあると「発見」したのが2018年で、あのころちょっと話題になりましたよね。
当時の報道で、「職場でだけ強い体臭が出てしまって、家族やパートナーと一緒にいるときにはまったく匂わない」という方の話を見ました。以前働いていた職場でそれによく似たことがあったので、きっとこれだったんじゃないかなと、10年以上経ってから分かりました。当時は、原因すら分からず、ご本人はどれだけ辛かったろうと思うと、今も心が痛みます。

» ストレス臭ってなに?緊張すると体から特有のにおい|サクサク経済Q&A|NHK
www3.nhk.or.jp/news/special/sa


変わりたくないし変えたくない、仕事は国からもらって大企業同士で分け合って、天下りを引き受けて、自分たちだけが今のまま安泰であることを志向する会社ばかりになっちゃったんだろうなと思います。そこに疑問を持ったり、「優等生」である自分も理解できないような新しい発想を持ち込んだりする社員は組織の脅威なんじゃないかな。そんな会社ふつう滅びるけど、滅びない仕組みになってるんだよね。。


大企業は、日本の学校教育にしっかり馴染んだ均質な優等生が欲しいだけで、抜きんでた能力や行動力や豊かな発想を持った個人は欲しくないんじゃないかなって気がします。「乱す」ひとが厄介なんじゃないかと。。

» スペイン初のダウン症の地方議員「『神様の天使』と呼ばれると腹が立つ」 | クーリエ・ジャポン 2023.11.11
courrier.jp/news/archives/3441

いわゆる「美男美女」は、「お前、特権を持っているだろう」と勝手に妬まれたり逆に軽んじられたり、特権どころか不利益を被っている場合もあると聞きますし、「痩せている」が褒め言葉とは限らないのと同様、強(者)/弱(者)の基準すら実は曖昧で一方的ですね。
「自分から見えているもの」で人は物差しを作ってしまうので、自分が〇〇だから損した、じゃあ〇〇でない人は得しているはずだ、と考えてしまいがちだけど、そうとは限らない。

世間で「一般的」に使われている物差しを疑え、自分の物差しを人に当てるな、ってことかなあ、と思います。

「痩せているのは良いことだ」という一般的な評価や価値観は本当に「真」なのか、自分が太っていて、痩せたいと思っている、それがどんな理由であれ本人の自由だけど、同じように太っている人に「痩せなよ」と言ったり、痩せている人を過剰に羨んだりするのは境界を踏み越えてて、あくまでも「痩せてるほうがいい」という自分の物差しは自分にだけ適用しとけ、みたいな。

自分の物差しを使ってしか、相手の立場を想像してみることもできない、というところに一人の人間ができることの限界があるけど、だからこそ、相手に勝手な想像を押し付けずに、ちゃんと聞いたり話したりすることが大事なんじゃないかなと思います

ああ…本当に残酷ですよね…

女性が「お茶出して」に「え、なぜわたしが?」と言えるようになった(昔よりも)ように、彼が「え、僕は荷運び係は嫌です」という意思を示してくれて、ほんとに良かったなと思っています。彼が我慢して「役割」を引き受けてしまっていたら、女性陣が毎回「〇〇くーん!これお願い~」とやっていたかと思うとぞっとします。「これ運んでー」と言いながら、「女性に役割を押しつけるなー」と言う無自覚なダブルスタンダード、やってしまいがちだけど、ものすごくグロテスクですよね。

弱者とされてきた側だから「お茶くみさせるな!」と大きな声で言える(人もいる)けど、強者とされている側が「それは押しつけだ」とか「できません」と拒否するのは、これもまたなかなか難しいことだろうと思います。ちょっと誇張かもしれないけど、弱い側は、「強いがゆえの"義務"だろ?」くらいに思ってるフシがある(とくに体力的なものは)。でも、お茶くみも荷運びも等しく、なにかの属性で担当が決まってるわけじゃないですね。

稼ぐことも養うことも産み育てることも「義務」じゃないし、それができないから人間の価値が劣るわけじゃない。そこで価値を計るのは、「家の繁栄」を最優先にする人の考え方ですね。抗うべきはここなのだと思います。


自分でもいちばん難しいなと思うのは、「ゼロベースから考え直す」ところかなと思うのです。
強い/弱い、適している/適していない みたいな先入観は、強い(とされている)側にも弱い(とされている)側にもありますよね。そこにプライドや甘えや世間体とかが絡んで、対等な関係で役割分担を考え直す席につくということが、どちらもなかなかできない。
どちらかが1段下りればいい、もう一方が土俵に上がればいい、ではなく、どちらも必要なんだろうなと思います。

職場で「若い男性」が一人だけいるのですが、彼は肉体労働みたいなものが特に苦手で(理由は知りませんが)。でも「若い」んだから「男」なんだから荷物運んでと、「年上」で「在職期間も長い」「多数派側」のわたしが言うのは権力勾配的にも性別による役割固定という面でもどうなんだ、、、なあんてそう深く考えたわけではないですが、彼が居なかったころと変わらず、女性陣が作業をしています。重たかったら分割すればいいし、2人、3人で協力してやればいいだけなので。彼には彼にしかできない仕事があるし。
こうやって、自然にできる場面もあるんですけどね。。


家事全般を妻の仕事と決めつけている夫に「君の仕事が楽になるから買ってあげる」と掃除ロボットや食洗器や全自動洗濯機を買ってもらったら「ありがとう!」なのだろうか、みたいなことを考えてました。。「構造」を温存したまま表面的な解決を図られても、またどこかで問題が出てくると思うんですよね。

不断の努力で維持しなければいけないものがあって、それを誰がどのように分担するのかをゼロベースに立ち戻ってちゃんと話し合ったり、「強い」人も「弱い」人もきちんと自分のできる分の責任を担うという点で「平等」だ、という地点に立つことって、でも、実はものすごく難しいですよね。。。

「やろうと思えばちゃんと自分でできる大人が、責任もってやるべきことをせず、他者に後始末させている」といういつもの奴、なのかなと。それが結果的に性別による役割分担を生んでしまっているのであって、新たな謎ルール作って他人の行動を縛ったり、どうしてもできない人を無闇に責めたり肩身の狭い思いをさせたりしても、解決しないですね。
みんなが座ってするようになっても、掃除するのが常に女性の仕事のままなら、ちょっと掃除が楽になる(かもしれない)だけで、ほんとにそれでいいの? って思います。


「一旦受け止める」の大事。。よくTwitterでやってらっしゃいましたよね。攻撃的だった人が、だんだん冷静になって、そこを攻撃してもしょうがないなってことに気づいてく。お見事だなあと思っていつも拝見してましたが、こっちで見られないのは残念です(笑

弱い立場にいる人がさらに弱い人たちを叩いてしまうのは、自分の不安とか傷つきとかを放置されてきたというわだかまりがあるからだよね、と自分の感覚でもそう思います。このわだかまりを向ける方向が見当たらなくて、右派の言説に救いがあるように思ってしまう。

「〇〇はこうあるべき」の押し付けは、男性にトイレで「座ってしろ」というのもそれですよね。問題の本質は「汚れること」でしかないわけで、汚したら本人がきれいにしよう、で済む話だと思うのですが。自分の身近な、トイレを共有するような人と、何が問題で何を分担し合っていくのか話し合うことを避けて、よその人にまで「座ってしろ」と言って回るようなのは、「押し付けの再生産」にしかならない気がします。。

はい。「おじさん(おっさん)」は意図も意味も人によって違いすぎて、わたしには難しいです。。「小父さん」て書いたら負のニュアンスなく「近所の中高年男性」っぽいだろうか。
なんだか、小さい男の子に「おまえは歳をとったら”おじさん”という世に害なすものになるんだぞ」と呪いをかけているようで苦しくなるのです。自分が「おばさんは悪いもの」と一括りにされたら嫌ですし。歳をとるのは止められないのに。

生理的嫌悪感や恐れや不安みたいなものを意図的に煽ったり、「曖昧な言葉」をわざと曲解して、差別を助長したり、分断させたり、批判対象を見誤らせる方向へ仕向けようとするひとたちがいる、というのも感じます。それで、本来なら同じ敵に対して手を繋ぐことができるはずの人たちが断絶してしまう。
本当は、男はこうだ/女はこうだ、子どもは/夫婦は/親子は/家庭は、こういうものであるべきだ、という規範の押し付けや、異質なものを排除しようとする力に抗いたいという意味で共闘できるはずなのではと。。

身体の小さな人が大きな人に身構えてしまうような感覚を否定することはできないけど、嫌悪感や恐れや痛みのような、本能的/反射的な「自分の」感情や反応に、人は簡単に身を委ねてしまうのだと思うし、つねに自戒しなければと思います。

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