てか、その「自分の正義は他人や社会全体にとっても正義だ」みたいな絶対的な自信はどこからくるんだろう。

これも日本の学校でそういうふうに教えてることなんだろうか。

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学校では習いませんね。。
義務教育では、道徳で「思いやり」を習い、先生や上級生に従うことが正しくて、人に迷惑かけちゃいけなくて、被害者スタンスな戦争コンテンツで「戦争は ”よくない”ね」ってことを習った気がします。

わたしは、自分が知ってることなんかほんの少しだし、自分が常にどこかで「間違っている」し、誰かを踏みつけているはずだと思うので、揺るがない正義なんて持てないです。「この人の言うことは大体ぜんぶ正しい」みたいな人がいてくれたら楽だろうと思ったりしたこともあるけど、違う立場の人の意見を聞いたり、対話させてもらったりして、自分の知らなかった物の見かたや自分の思い違いに気づかせてもらって、ちょっとずつ「より良い」ほうへ変わっていくしかできないんじゃないかなと思っています。

でもこんなふうに考えるようになったのはわりと最近のことかな。。以前はもっとナチュラルに「これは良くない!」「こうしたほうがいい!」みたいに他人に踏み込んでしまってたと思います。「正義感」の強い学級委員だったので。。


その子供の頃に持っていた「正義感」は、学校でなかったとしても、どこかで身につけたものだと思うのですが、そういうのって、初めはあからさまな不正義に対する義憤みたいなものから生じるのかなと思うのですが、その後に「自分の正しさは他人にとっても正しいはず」みたいな感じになってしまうのは、集団と個が一体化してしまっているからなのか、それとも私が昔そうだったように(というか今もですが)、世間知らずでほとんど自分のことしか見えておらず、他者の独立性に対する敬意や配慮や尊重が足りないからなのか、それともなにか別の原因があるのか。。。

「正義」そのものというよりは、自分の信念というか判断力に対する絶対的な信頼みたいな部分なのかなと思いますが、そういうものがあったとしても、他者への責任は取れないので、やっぱりバウンダリーとか切り分けの問題のような気もしています。

もちろん、不正義に対しては声を上げ続けなければいけないのですが、「大義名分の為なら多少の犠牲は構わん、撃て!」みたいな、まるでどっかの極右虐殺政権みたいなことを言うのはどうなのかなと思います。。。

少しずつお返事書きますね。

小学校のころ仲間外れする集団がいて、やめなよって言って返り討ちにされるような子でしたが、それは正義感というよりも自分が嫌いな集団に加わりたくなかっただけというか。

「自分の正しさを人にも押し付ける」をやり始めてしまったのは、やっぱり中学時代に学級委員やってたことが大きいですかね。ご多分にもれず「ちょっと男子ー!静かにしてー!」とかやってたので(笑

自分が「正しくなければいけない」みたいなものは身につけてしまったかも。ルールを破って誰かに後ろ指さされたり先生に怒られたりしてはいけない、みたいな。
正しく(品行方正で)いなければ人に注意はできない、みたいなプレッシャーを自分にかけてたかもしれません。

そのわりに、ルールへの小さな抵抗や反逆もしていて、自分が理不尽に感じているルールは適当に破りつつ(髪をくくる高さは耳より下で、とか)、自分が違和感を感じないルールは当然に守らせようとしていた(遅刻するなとかまじめに掃除しろとか)かな。。

こういうのは集団と個が一体化しているからとか、集団の利益を優先するのが正しいと思い込んでいるから、と言えるかな、と思います。ここでの「正しさ」は教師に与えられたもので、そこに疑問がないんですよね。

ひとまずここで。


「正しさのあり方」が画一的になってしまいがちなのも、個人主義よりも全体主義的な傾向があるから、ということなのでしょうか。

「集団の利益を優先する」をやりすぎると全体主義っぽくなってしまい、蔑ろにされる人が増えるだけでなく、「集団の利益とはなにか」を誰が決めて、誰が犠牲を払うのか、みたいなことで必ず揉めますし、なるべく誰も取りこぼさないようにするためには、多数派の主張を数の暴力で押し付けるのではなく、一部の独善的な意見を押し通すのでもなく、やはり小さな声に耳を傾けるという、何度も繰り返されてきた民主主義の基本に立ち返る必要があるのですが、不利な立場に置かれた人同士の権利衝突はなかなか解決が難しいことがあるので、さらに慎重になる必要があると思っています。

しかもそれを、自民党のような巨悪と戦いながら同時にやる必要があるので、元々不利で理不尽な戦いを強いられているのだということを、納得はできなくても理解して、分断されてしまっては極右の思う壺だということも頭の片隅に置いて、前を向いて進むしかないのかなと思います。

遅刻するなとかも、当時のわたしは「何も間違ったこと言ってない。誰でも ”ちゃんとやろうと思えば” できるはず」としか思ってなかっただろうし、無自覚に誰かに残酷なことをしていたと思います。
一方で、なぜ子どもに子どもを監視させるようなことをさせたのかという恨みのようなものをわたしは抱えてきたし、もっと言うと、当時の教員の方々も無理な働き方をさせられていたのではないかとも思います。みんなどこか痛みを感じてて、「全体」のために黙らされている。閉じた環境のなかで分断されているけど、共通の「敵」が学校の外にいたのでは?という気になります。
誰が「正しさ」を決めたんでしょうね。そして、確実に学校で教わっているのは、「与えられた正しさを疑うな」ってことなんじゃないかな。。
逆に、学校でも家庭でも教わっていないことは、「他者の独立性に対する敬意や配慮や尊重」ですよね。わたしには、それを学ぶのがとくに難しかったです。

で、最初の議題 「自分の正義は他人や社会全体にとっても正義だ、みたいな絶対的な自信はどこからくるのか」を改めて考えてみると、「みんなそうだから(みんな、そうでしょ?)」になってしまう気がして、ちょっと戦慄しています。そもそもからして、他者と自分とが未分化な感じ。自分にもあります。。


「遅刻するな」も、集団の秩序や規律を守る上では必要なことかもしれないけれど、様々な困難を抱えてる人々にとっては理不尽な要求になり得るので、難しい問題だと思います。集団にとっては正義でも、個人にとっては不正義で、寛容であるべきだけれども限度があるので「合理的配慮」が必要になることなのかなと思います。

「子供に子供を監視させる」ところから相互監視と同調圧力と「出る杭は叩きのめす」が始まってるのかなと思います。私が子供の頃に息苦しさを感じたことの一つです。。。


子ども同士で「〇ちゃんの靴下ワンポイントが入ってる」とか「髪ゴムの色がグレーだ」とか、目を光らせあってるの、異常ですよね。そんなことでギスギスしてたの中学校3年間だけですが、強烈な体験だったと思います。が、それを未だにみんなでやってるんじゃないの、という。。

ルールがなぜ必要で、どんなルールを作ってはいけなくて、誰にどんな配慮や調整が必要なのか、みたいなことを一から考えたことがないんですよね。
本当に手間がかかるし疲れるけど、ちょっとずつやるしかなくて、「正義のためなら/大義名分のためなら 多少の犠牲はしょうがない」を自分がやってしまっていないか自問し続けることや、一つ共感しあえない/調整できない点があっても敵だのばかだのと断絶しないことが大切なんだろうなと思います。

でも、それを「個」が確立していない(個を確立することが悪だとされている)国でやっていくのは、ものすごく難しいですね。。


「多少の犠牲」に自分が含まれていなければ好き勝手言えますからね。

あと、自分が含まれている時だけ文句言ったり、自分も含まれていて我慢してるからと他の犠牲者を黙らせようとしたり、ということもありますが、どちらも問題だと思います。

しばらく前に「検索エンジンやSNSやvegan食品とかエコ製品も、みんなが別の選択をすれば質も良くなるし選択肢も増えるけど、まとまった人間が動かないと他の選択肢は改善されていかない。状況が改善されないから人が来ない、人が来ないから状況が改善されない」と書いてらっしゃいましたよね。あれを読んで、「野党がダメだから自民党に入れるしかない」「どうせ1票で何も変わらないから投票いってもしょうがない」というのと似てるなと思いました。考えることも変わることもめんどくさくて、けっきょく文句言いながら責任を放棄して嘆いてるだけ。

さきに告白しておくと、わたしも環境問題についてはほんのちょっと自分にできることをやっているくらいで、一人分の責任を果たしてるとはとても思えません(すみません) >続く [参照]


先日「南海トラフ臨時情報」が出ましたね。わたしは四国に地縁があるので、いざ起きたらということはいろいろ考えるのですが、まあ四国という島から逃げ出しようがないし、島ごと見捨てられちゃうんだろうなと容易に想像できる。しかもそれがもしこの7~8月の猛暑に起きたとしたら、どれだけの人が暑さで命を落とすんでしょう。どなたかが言っていたように、もうエアコンという電力使う外部装置なしに夏を生き延びられないのに。

地震も暑さもみんな天災だからしょうがない、といってまた日本人は諦めてしまうのかもしれませんね。因果関係を認めないという人もいるでしょうし、温暖化も今からちょっと頑張ったくらいでどうにかなるものじゃないのかもしれない。たぶん実際そうだろうと思う。けど、そう言ってるうちに、遠くの島が沈んじゃうだけじゃなく、自分が「(多少の)犠牲」側に含まれるのもすぐそこなんだろうなと思います。

と、現実的な危機感を覚えるのは、今年の東京の雨の降り方が「異常」で、帰宅困難になったり、たった10分程度の土砂降りで近隣の排水が追いつかない現象に遭遇したりして、今まで感じたことのなかった恐怖を覚えたからです。こうなってみないと、「自分事」にならないんですよね。。


自分自身が原因となっていて、そして被害側でもあるというのは、仰るとおり選挙と似ていて、そこには構造的な格差が存在するし、不平等なシステムだけど、どれだけ無力で不可抗力に思えても、自分の決断には社会を構成する一人としての責任があると思います。

環境問題に関して言えば、世界的に見ると我々はまるで、格差を放置して既得権益を手放そうとしない自民党やその取り巻きの権力者のような立場にいる、ということを忘れないようにしたいと思います。

この国の権力者たちが自己の利益ばかりを考えてリソースを独占し、持続可能な未来への投資や対策を怠ってしまったがために、結果的に社会全体が傾いてしまったように、環境問題もリソースを過剰消費する国々が投資や対策を怠ってきたことによって世界全体が影響を受け、最終的には権力者も含めて全員がワリを食うことになるのですが、自分の懐が痛むまでは何もしないのが人間というものなのだと思います。

不利な立場に置かれている国々は、環境問題における国家間格差や不平等についてずっと声を上げてきましたが、我々はそれを無視してきたわけですし、その点ではこの国の与党支持者やノンポリ無関心層の気持ちもわかるはずでは?とも思います。


やなせたかしさんの言う「ひもじい人に食べ物をあげるのは正義だ」は、絶対的といわれても異論ないな、とわりと長いこと思っていたんですよね。。でもこれも、ニンゲンのことはたしかに「誰一人」見捨てていないかもしれないけど、食べ物にされる動物や植物の意見は聞いていないし見捨てている。

(他人の言う「正義」に疑問を持たず、軽々しく賛同しているだけだった)

その点で、地球環境が将来的に持続可能であるように暮らすという考え方は、(それを目指す過程で「見捨てられた」って感じてしまう人もいるかもしれないし、食物連鎖の「犠牲」の構造は大きく変わらなくても、)「誰も見捨てない」に限りなく近いんじゃないかな、と思ったりしました。

生きてる限り、誰か(何か)に犠牲を強いているわけで、「わたし(の正義/正しさ)は、いま誰を見捨てているか」と自分に問うことを怠ってはいけないな、と痛感します。


これまでも何度か書いてますが、私は自分のことを種差別主義者だと思っているので、人間と動物の命であれば、人間を優先します。

お腹が空いている人がいて、他に食べるものがなければ、動物を殺してその人に食べさせることは迷わないと思います。自分が食べるかどうかは別の話ですが。。。

その上で、自分の手に血がつかない殺生はしたくないと思ってますし、自分自身が耐えられない苦痛を他の誰かに押し付けてまでも肉を食べたいとは思わないです。

少なくとも今のところは。

めっちゃ腹減ったら、この考えも変わるんだろうなと思っています。


何度かご自身のことを「種差別主義者である」と書いてらっしゃいますが、ここまでのやりとりの中でこのお返事をいただいた文脈というか真意について、ずっと考えていました。

立ち入った質問になってしまったら申し訳ありません。

きっと、動物のことは大事にするのに植物の命は守らないんだろう、みたいな嫌味(というか攻撃)を受けることもたびたびおありなのではと想像します。
菜食という選択をするかたは、それぞれにいろいろな理由があり、それも複合的なものだったりするのだと思いますが、Sethさんがその選択をされている理由の一つは、たとえば、生まれたときから大切に大切に育ててきた生きものを「出荷」しなければいけない人の葛藤や悲しみや、食肉加工の現場で働く人の過酷さや、差別、そういうものを見ないふりをしたり、その人たちの苦しさを「多少の犠牲」と見捨てることを選ばない、ということなのでしょうか。


確かに「嫌味」は言われますが、それについての私の返答は、「私は種差別主義者なので、動物の命よりも人間の命を優先するし、同様に植物の命よりも人間の命を優先する。しかし、人間以外の生き物の間に優劣をつけて特定の動物や植物を特別扱いして守りたくてやっているわけでもない」となります。

殺生はなるべくしたくないと思って生きていますが、人間が生きるために必要な殺生はそれが動物であれ植物であれ全く否定しないです。ヒトも動物ですから、食べ物は必要ですし、木材や紙や服や薬や燃料も必要です。

でも、ステーキを食べながらイルカやクジラを殺して食べることを批判するとか、動物愛護を叫びながら特定の動物は殺して食べたり飼育してる他の動物やペットの餌にするとか、「害獣」や「害虫」のようなカテゴリー分けをして、人間の都合で生き物に優劣をつける、といったようなことはなるべくしたくないとも思っています。

「ニンゲンは見捨ててないけど、食べ物になる動物や植物を見捨てている」というお話を聞いて、私はそれで良いと思っていて、その理由が私が動物であり、種差別主義者であるから、ということをお伝えしようと思ってこの話しをしました。

また、「痛みを感じる動物に苦しみを押し付けない」も、「他の人間へ殺生の苦しみを押し付けない」も、どちらも私の主観で独善でエゴです。実際に動物がどう感じているかはわかりませんし、畜産業に関わる人や猟師や漁師、食肉加工や海産物加工に関わる方々がどう思っていらっしゃるかも私にはわかりませんし、自分の価値観を投影させて「こうであるはずだ」と決めつけたり、自分の「正しさ」を押し付けるようなこともしたくないと思っています。

その話とは別に、食肉加工業に関連するスティグマや差別は問題だと思っていますが、私にとってそれは「見捨てる」とは違うレイヤーの話なので。

あくまでも自分の問題として、「自分が引き受けられない苦しみをなるべく他者に押し付けたくない」と思っているだけなので、そういう意味で「手に血のつかない殺生はなるべくしたくない」と思っています。


お返事ありがとうございます。
ひょっとしたら、畜産関係の方が身近にいらっしゃるのかな、と思いまして。。
無関係な立場から、きっとこうである/こう考えているに違いない、というような決めつけをするのは危険ですよね。こうするな、ああするな、そんな職業はなくしてしまえばいい、みたいな「行きすぎ」にあっという間に繋がるので。。

わたしが育ったのはもともと林業しかないような中山間地で、畜産や酪農の現場のことは分からないのですが、昔から猪やイルカを食べる風習がありました。
わたしが子どものころよりも鹿や猪による「害獣被害」は顕著に増えていて、でも、ニンゲンサマが困るから害獣は処分していい、のか? 「痛そうな」方法はダメで「痛くなさそうな」方法ならOK、絶滅しそうなのはダメだけど、こっちはまだまだいっぱいいるから問題ない、可愛いから、賢いから、だから・・?
食べていいものと食べてはいけないもの(=自分のために犠牲にしてかまわないものと、「守ってあげる」もの)のラインは誰の都合で引いたのか。よく考えもせず多数が従っていそうな「ガイドライン」に従って、自分で覚悟をもって選択していないから(それが楽だから)、自分が「何を犠牲にしたか」「何を差別しているか」を自覚できないんだな、と気づかされます。


私は酪農や他の畜産が盛んな地域で育ったので、生業にしている親戚や友達がそれなりにいますので、社会全体として肉食は減らしていかないと地球が持たないと思っていますが、畜産関係者を目の敵にしてスティグマを強化しようとするような動物愛護系veganや活動家は批判します。

子供の頃に叔父の家に遊びにいく度に飼ってた牛さんを触らせてくれたんですが、牛の角ってすごく暖かくて、そこにいたのは「食べ物」ではなくて「生き物」だったんですよね。でも次に遊びにいくと、すでに出荷されてしまっていて、別の牛さんがいる。それが私のモヤモヤの最初の記憶だと思います。

あと、どっち向いても山しかなくて、どの山も熊だらけ、みたいな場所でもあったので、熊さんとも共存してるのが当たり前でした。人や、人の財産である農作物や家畜に被害を与えるという意味では、人間からみると鹿も熊も狐も狼も「害獣」になりえますし、てんとう虫やバッタやカブトムシも「害虫」になりえます。でも、子鹿も子牛もこぎつねもこぐまもかわいいし、てんとう虫もかわいいし、カブトムシはかっこいい。

北米では、日本から持ち込まれた黄金虫(通称 Japanese beetle)が農作物や森林に大きな被害を与えて問題となっていますが、同じ黄金虫でも人間の都合でペストにもなり得るし、そもそも移動させたのは人間なので、やっぱり勝手なのは人間の方だなと思います。

外来種の魚がものすごい勢いで増えて既存の生態系を破壊する話とかもよく聞きますが、そうやって人間の都合で移動させられて、たまたま適応してしまった種を、また人間の手でeradicate(撲滅?)させて良いのか?とかも考えてしまいます。

これは人間にもあてはまる話で、settler colonialismという言葉が広まって、他の国や地域を侵略して元々住んでいた人達を追い出して植民地化することは誰がやっても悪いことだ、という認識まではやっと定着してきたのかなと思いますが、だからといって、その強奪された地で生まれ育った人々にとってはそこが故郷であるわけなので、「親の国に帰れ」とまで言えるのか?と考えると、何が「正義」なのかって、難しい問題だと思うんですよね。

だからこそ侵略する側はせっせと既成事実を作ろうとするわけなので、なんとしてでも止めないといけないのですが。。。


牛の角って温かいんですね。血管も神経も通ってるし、当然切ったら痛いんだ。。知らなかったです。

ほんと人間は勝手ですよね。種(集団)としても、個人としても。好き嫌い、良い悪い、役に立つか立たないか、どちらが「正義」で「どちらに肩入れすべきか」、時と場合、対象によってころころルールを変えてしまう。多数から肩入れしてもらえなかった側からすれば、理不尽極まりないです。

黒くて大きい虫、カブトムシは人気なのに、一方にはものすごい嫌われ者がいて、この扱いの違いはなんだろな、といつも微妙な気持ちになります。ちょうちょは綺麗だけど蛾はそうじゃない、ミツバチは役に立つけどスズメバチは危ない、ニンゲンに当てはめたら恐ろしいくらいのガチガチのルッキズムや優生思想だと思うんですけど。。動きや見た目が「生理的に無理」みたいなのも、「分かる」けど、その感情に身を任せるのは怖いな、と思います。それが行きつくところはどこなのかと。


文化や「価値観」が違えば、ミニ豚やニワトリもペットになりえますし、犬や猫も食糧になりえますが、どれがペットでどれが食べ物なのか、私には線引きすることができなかったので、全て食べない、なるべく殺さない、という決断をしました。

痛みについても、例えば牛の角は、比較的痛みが少ない方法なら切っても良いことになってますが、牛さん同士が喧嘩したり人間が突かれたりしたら危ないから、という理由で切ってるので、それも人間の都合です。もちろん、私は種差別主義者で動物よりも人間を優先するべき、飼育してる人のリスクを減らすべきだと考えていますので、「切るな」とまでは言えませんが、商品価値や収益が下がるリスクを減らすために本来は不要な痛みを強いるのが「正義」なのか?と聞かれると、私にはそうは思えません。

「生理的嫌悪感」の話も何度かしていますが、今の社会では、他の存在に対して湧き上がってくる嫌悪感を生の感情として吐露することが許されない場合って多いと思うんですよね。

例えば、身体障害や発達障害を抱えてる人、人種/民族マイノリティやGSMに対する、なんとなく「気持ち悪い」「怖い」「得体が知れない」といった漠然とした嫌悪感や不安感からくるヘイトもそうですし、いわゆるホームレス状態にある人々や経済的に不利な立場にいる人々に対する、「汚い」「クサイ」といった嫌悪感からくる差別もそうですし、病気や事故や遺伝や経済状況や家庭環境など様々な理由で容姿的に不利な立場に置かれた人々に対する「キモイ」「不気味」のような漠然とした嫌悪感や不信感なども、意識しておかないとヘイトや差別に直結してしまいます。

また、上に挙げたものが動物的な「生理的嫌悪感」なのかどうかも怪しいと思っていて、実際はこの差別的な社会で無自覚に学習したものである可能性が高いのだろうとも思っています。

小動物やペットをかわいいと思ってしまうのはしょうがないですが、その裏返しとして、不気味で不快で自分にとって「有害」な昆虫や動物を排除しようとする心の動きがあるなら、それと同じことを人間に対してもやってしまっていないか、常に気をつけていたいなと思っています。


わたし、写真ですら反射的に目を逸らすほどお蚕さんが苦手で。。黒い毛虫も小さい芋虫も平気なんですけど、大きくて白い毛のないのはダメ、自分でもまったく説明不能だし、論理的でも合理的でもない強い忌避感があって打ち消せないのが怖いなあと思っています。説明できればいいというものでもないし。
もちろん、人間が生糸を「生産」するために蚕にしてきたこと、していることも「正義」とはとても言い難いと思います。

Sethさんはご自身のことを「種差別主義者だ」とはっきり自称することができるけど、わたしはできないんですよね。みんながそうしてるから、自分が苦手だから/好きだから、自分の経験上こうだったから、その時々で身勝手に「何を差別するか」のルールを変えている。
おっしゃるように、こういうところを突き詰めて考えず、自分目線でしかないルールに漫然と従っていると、ただでさえ常に何かを犠牲にしてるのに、ひどいダブスタな差別を無自覚にやってしまいかねないなと思います。

今までちょっと聞きにくいお話だったので(聞いてよいものか、というのと、こちらの後ろめたさみたいなものとで)、菜食についてちゃんと伺ったの初めてだったと思いますが、本質的に、差別や正義の話なんだなと思いました。

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