10年ぐらい?前、まだ病状が酷くてガリガリに痩せてた頃、俺に向かって「細くて羨ましい」と言ってきた知り合いがいたんだけど、その人、隣に居合わせたパートナーさんに後でこっぴどく怒られたらしい。

俺の病気のことを知ってるどころか、治療薬を開発してる製薬会社にご夫婦揃ってお勤めなのに、それでもやっぱり「痩せている」ということが無条件に良いことだとされてしまっているのはやっぱり根が深い問題なんだなと思った。

医療製薬関連の人ですらそんな感じだから、一般人に過度な期待はしないけど、体重だけでなく身長がどうのとか、肩幅がどうのとか、指がどうのとか、いちいちなんか言ってくる人、多いよね。後ろに並んだ人から「お尻の形良いですね」と言われたこともある。まあ、男からも「お前いいケツしてんな」と言われたことはあるけど、ホモフォビックと勘違いされないような上手い切り返しをその場で思いつけるほど頭の回転が速くないので困る。

「エクボが可愛い」とかは一応褒め言葉として受け取るけど、それだって「男らしくない」というジャッジが入ってる場合があるし。もちろん、そうでない場合もあるというか、大抵の場合、悪意は微塵もないんだろうなとは思う。

いや、男らしくなくて結構なんだけど。

あと、veganは健康そうとか、痩せてそうとかも、もちろん偏見なんだけど、よく言われてた。veganじゃなくて、「ほぼveganのようなプラントベースな生活をする人」だし、菜食だから痩せてるんじゃなくて、いくら高カロリーなものを頑張って食ってもどんどん痩せちゃうんですけど。。。って思ってたけど、いちいち難病であることを説明する義理もないし、仕事とかいろんな面でも不利になるから正さないことが多かった。

お陰様で(誰のお陰かは知らんけど)、最近はだいぶ調子が良くて人生初の80kgオーバーを達成して、人並みに中年太りができるようになったのが嬉しくてぽっこり出てきた腹をぽんぽん叩きながらニヤついてる。

そういう人間もいるんだけどなぁ、と思うことが多い。


高校生のころ友達に、褒めてるつもりで「芸能人の〇〇に似てるね」って言ったら、「その人のこと大嫌いなの!」って激怒されて、そりゃそうだよね、と反省しました。その芸能人のことをかわいいと思ってるのはわたしだけで、相手が同じように思っているとは限らないですからね。
相手の事情も価値観も、友人だからといって簡単にぜんぶ分かるはずはなくて。なにが良いことで、なにが嫌なことなのかは人によって違うし、「"一般的に" 良い/悪い とされていること」がすべての人にあてはまるわけはないですよね。

それにしても、男性から女性に言ったら一発退場になるようなことが、女性から男性に言うのは見逃されているような感じがするのも気になります。。

私は子供の頃、とある有名なスポーツ選手に似てるという理由でその選手の名前にちなんだあだ名を付けられたことがありますが、明らかに、私もその選手も「ブサイク」であるという含意があったので、嫌な思い出です。

容姿や特性が原因で「女子」からも「キモい」といじめられてたオタクの一人なので、「キモい」は未だにトラウマです。私の場合、運動部に入ったり、日本を出たりしてからそれなりになんとかなったのでまだいい方ですが、子供の頃に受けたトラウマから立ち直れず女性恐怖症になったり、引きこもりになったりしてる人も多いので。。。

言動が「キモい」、容姿が「キモい」、存在が「キモい」、色々な意味があると思いますが、「キモい」という批判が許されるのは、容姿や存在ではなく、言動が「キモい」場合のみで、それも発達障害等が原因ではなく、単にエゴイスティックだったり、他者の領域に土足で踏み込んでコントロールしようとしたり、独善的な価値観で勝手に他人をジャッジしたりするような言動を批判したりする場合に限定されるのではないのかなと思いますが、残念ながらそれほど厳密な使い分けがなされているようには思えません。。。

もちろん、「男性」であるということだけで特権性が生じることや、自分のちょっとした言動が周りに威圧感や不快感を与えてしまえる存在であることは男性側が肝に銘じる必要がありますし、日本の性差別は本当に酷いので、女性が無自覚で傲慢なおっさんを毛嫌いする理由もわかりますし、実際におっさん側に非があることの方が圧倒的に多いと思います。

しかし、「男(性)」だからといって他の弱者性がキャンセルされてしまったり、女性側からのハラスメントや暴力が一切存在しないことにされてしまうのもどうかと思います。。。

嫌な記憶を思い出させてすみません。。
女の子から男の子へのいじめも苛烈ですよね。。もちろん、DVや性犯罪でも男性被害者はいて、絶対数や傾向の話で見過ごしてよいものだとは思いません。

「キモい」は嫌な言葉ですよね。地域性があるかもですが、わたしが子どもの頃はあまり使われてなく、自分より下の世代の若者言葉という印象があり、わたし自身はほぼ使わない/使えないです。

でも、某所で「この言葉は、いろんなハラスメントに抵抗する言葉を持たなかった"女の子"が、初めて手に入れた武器なのだ」という言説を見て、自分の経験に照らしても、あー、それは分からんでもない。。とも思いました。。だけど、おっしゃるように、「何がどう」キモいのかは厳密に使用されてないですよね。

「おじさん」に対して使う場合も、自分の権力に無自覚な中高年男性の言動を批判しているのか、ただの見た目の悪口なのか、そこに何か見えない事情があるのか。。ハラスメントを受けた女性からの抵抗ではなく、単なるルッキズム(デブ/ブスに対するキモい)でしかなかったり、人格や存在そのものを否定するいじめの言葉として作用してしまう場面も多くて、批判対象が曖昧に広い言葉は傷つける人を増やすことになるなと感じます。
そもそも「おじさん」も曖昧ですよね。。

弱い立場に置かれた人々の言葉を奪うようなことは言いたくないですし、セクハラしてくるようなキモいおっさんに向かっては「キモい」と言って良いと思いますが、あくまでも言動を批判すべきで、ついでにデブだとかハゲだとかギッシュだとか、外見を揶揄する必要はないですし、存在自体を否定する必要もないです。

「挙動不審」みたいな批判も、もしかするとなんらかの特性や困難を抱えている可能性もあるわけですし。。。

当然、自己防衛が最優先ですが、例えば自己防衛が黒人男性に対する差別の言い訳にされてきたように、簡単に切り捨てることはできない問題なのかなと思います。

また、「キモい」という言葉で虐げられ、排除されてきた人々には、ルッキズムの被害者だけでなく、身体障害者や知的障害者、その他の精神障害者や、外見に影響のある病気を抱えている人、GSM、外国人や人種マイノリティ等も含まれることは気にかけておきたいなと思います。「生理的嫌悪感」が差別の正当な理由になり得るのなら、障害者差別もGSM差別も人種差別も全て正当化できることになってしまいますし。。。

一般的には男は権力を持つ側で、圧倒的に加害する側の属性であるからこそ、障害や病気や貧困やその他の弱者性がその大きな属性の裏に隠れてしまって見え難くなってしまっているのかなと思います。

「おじさん」については、前にも書きましたが、私は「おじさん」「おばさん」は価値中立で、年齢層を示唆する意味合いだけでしか使っておらず、害悪な面がある中年男性は「おっさん」と使い分けています。もちろん、人によって言葉の意味合いは異なると思います。

私の場合、自分が「おっさん」の一人だから自称としても使っていますが、私が自分におっさん的な側面があることを自覚して自称することと、他の誰かのおっさん的な言動を批判することと、私をおっさんというカテゴリーに入れてステレオタイプで批判することは別の話なのですが、中々そういう考え方は浸透していないように思います。。。

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はい。「おじさん(おっさん)」は意図も意味も人によって違いすぎて、わたしには難しいです。。「小父さん」て書いたら負のニュアンスなく「近所の中高年男性」っぽいだろうか。
なんだか、小さい男の子に「おまえは歳をとったら”おじさん”という世に害なすものになるんだぞ」と呪いをかけているようで苦しくなるのです。自分が「おばさんは悪いもの」と一括りにされたら嫌ですし。歳をとるのは止められないのに。

生理的嫌悪感や恐れや不安みたいなものを意図的に煽ったり、「曖昧な言葉」をわざと曲解して、差別を助長したり、分断させたり、批判対象を見誤らせる方向へ仕向けようとするひとたちがいる、というのも感じます。それで、本来なら同じ敵に対して手を繋ぐことができるはずの人たちが断絶してしまう。
本当は、男はこうだ/女はこうだ、子どもは/夫婦は/親子は/家庭は、こういうものであるべきだ、という規範の押し付けや、異質なものを排除しようとする力に抗いたいという意味で共闘できるはずなのではと。。

身体の小さな人が大きな人に身構えてしまうような感覚を否定することはできないけど、嫌悪感や恐れや痛みのような、本能的/反射的な「自分の」感情や反応に、人は簡単に身を委ねてしまうのだと思うし、つねに自戒しなければと思います。

はい、隣国の軍事的脅威や、何度も議論されてきたトイレ問題もそうですが、実在する被害や不安を煽る形を取るので厄介です。漠然としているけど確実に存在する不安感を一旦受け止めることなく頭ごなしに否定して「差別だ」と糾弾していては、敵に塩を送っているようなものだと思います。

「あいつは〇〇だからこうなはず」という偏見や、「〇〇はこうあるべき」という押し付けは、以前も話題になった「価値観」の違いを理由に対話を避ける人達と、自分の「価値観」を絶対的なものだと信じてバウンダリーを超えて踏み込んでしまう人達の2極的な話にも通じるところがある気がします。

もちろん、譲れないラインはありますし、言ってることとやってることが違うのなら、それは批判されて当然だと思いますが、イデオロギーや属性とは無関係なものまで巻き込まれてしまうことが多いというか、ラインがあまりにも曖昧すぎるというか、拡張されすぎているというか、批判対象を間違えていることが多すぎる気がします。。。


「一旦受け止める」の大事。。よくTwitterでやってらっしゃいましたよね。攻撃的だった人が、だんだん冷静になって、そこを攻撃してもしょうがないなってことに気づいてく。お見事だなあと思っていつも拝見してましたが、こっちで見られないのは残念です(笑

弱い立場にいる人がさらに弱い人たちを叩いてしまうのは、自分の不安とか傷つきとかを放置されてきたというわだかまりがあるからだよね、と自分の感覚でもそう思います。このわだかまりを向ける方向が見当たらなくて、右派の言説に救いがあるように思ってしまう。

「〇〇はこうあるべき」の押し付けは、男性にトイレで「座ってしろ」というのもそれですよね。問題の本質は「汚れること」でしかないわけで、汚したら本人がきれいにしよう、で済む話だと思うのですが。自分の身近な、トイレを共有するような人と、何が問題で何を分担し合っていくのか話し合うことを避けて、よその人にまで「座ってしろ」と言って回るようなのは、「押し付けの再生産」にしかならない気がします。。

よく思うのですが、批判対象も解決方法もズレてるというか、表面的で明後日な応急処置でしかない感じがすることが多いです。

悪用する奴やルールを守らない奴がいるから、みんなで不幸になろう的な、いつもの話なのかなと。

「トイレを汚す奴は(可能な範囲で)自分で綺麗にしろ」が「男は座って用を足せ」になるまでには、批判対象も、解決方法も大きな飛躍があるのですが、なぜか、誰かが言い出したその方法しかないことになってしまって、論点がズレたまま議論が進まなくなってしまう感じがします。

「トイレを汚す奴」が「男全員」になる過程では、汚さない男、汚しても綺麗にする男、他の男が汚したトイレを綺麗にする男、身体的な理由でどうしても汚してしまうことが避けられない男、自分で掃除することが難しい男、等の存在がなかったことにされてしまっています。まあ、特に理由もないのに自宅でも外でも汚しっぱなしのだらしない男が多いのはその通りですが。。。

「自分で綺麗にしろ」が「座って用を足せ」になるまでにも、「座りさえすれば汚れないはず」という誤った認識があったり、病気や障害があって座って用を足すことが困難な男の存在、立ちションにアイデンティティを見出す男の存在などが無視されてしまっていますし、そもそも個室における排泄方法は他人にとやかく言われるようなことでもないですし、他者に危害や迷惑をかけない限り、男性としてのアイデンティティも尊重されるべきだと思います。

具体的に何が問題なのか、なるべく誰も踏まないように解決するにはどうすべきなのかを考えないから、他のトピックでも毎回同じように議題設定を操ろうとする右派の戦術にまんまと乗せられてしまうのかなと思います。。。

「やろうと思えばちゃんと自分でできる大人が、責任もってやるべきことをせず、他者に後始末させている」といういつもの奴、なのかなと。それが結果的に性別による役割分担を生んでしまっているのであって、新たな謎ルール作って他人の行動を縛ったり、どうしてもできない人を無闇に責めたり肩身の狭い思いをさせたりしても、解決しないですね。
みんなが座ってするようになっても、掃除するのが常に女性の仕事のままなら、ちょっと掃除が楽になる(かもしれない)だけで、ほんとにそれでいいの? って思います。

おっしゃる通り、「トイレ掃除」という、煩わしいけれども社会秩序維持の為には必要な重要な作業に関して、差別構造に基づいた役割の押し付けや固定化が問題なのだとしたら、「座ってしろ」はあくまでも負担軽減策でしかななく、構造的な解決策にはなり得ないのですが、だらしない男はめちゃくちゃ多いので、何もしないよりはマシだと思ってしまう気持ちもわかります。

白人マジョリティの国で感じたのは、トイレに限らず「掃除は清掃員の仕事だから」といって汚し放題にする人が少なからずいて、そして清掃員は人種マイノリティであることが多く、そういう別の差別構造上の問題もあります。

当然ながら私はどちらも問題だと思っていますが、解決策は「座ってしろ」ではなくて、「なるべく汚すな。汚したら(可能な範囲で)自分で綺麗にしろ」あたりなのかなと思っています。完全自動の掃除ロボットが出てきたとしても、女性や人種マイノリティの作業負担が減るだけで、差別構造に基づく役割の固定化自体は温存されてしまいますし。。。

もちろん負担は減るに越したことは無いですし、私自身が加担しないように、自分にやれることはするようにしていますが、差別に抵抗する時に、別の虐げられている人々を踏んでしまわないないように気をつけたいと思っています。


家事全般を妻の仕事と決めつけている夫に「君の仕事が楽になるから買ってあげる」と掃除ロボットや食洗器や全自動洗濯機を買ってもらったら「ありがとう!」なのだろうか、みたいなことを考えてました。。「構造」を温存したまま表面的な解決を図られても、またどこかで問題が出てくると思うんですよね。

不断の努力で維持しなければいけないものがあって、それを誰がどのように分担するのかをゼロベースに立ち戻ってちゃんと話し合ったり、「強い」人も「弱い」人もきちんと自分のできる分の責任を担うという点で「平等」だ、という地点に立つことって、でも、実はものすごく難しいですよね。。。


そうですね。家事を仕事とするなら、業務効率化の為の設備投資でしかないので、買って「あげる」ものでもない気がします。

共同で家計を支えているのであれば、合意の上で購入すべきですし、どちらかがまるで「施し」のような意識を持ってしまっているのなら、その時点でそこには対等ではない関係性が生じてしまっているのかなと思います。

対等な関係下における対等な役割分担として金を稼ぐ役と家事をする役のような形で双方合意納得の上で分担するのなら問題はないと思いますが、そうでないケースが多すぎるのだと思います。

おっしゃるとおり、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」的な考え方を実践に移すのは、なかなかに難しいことなのだと思います。


自分でもいちばん難しいなと思うのは、「ゼロベースから考え直す」ところかなと思うのです。
強い/弱い、適している/適していない みたいな先入観は、強い(とされている)側にも弱い(とされている)側にもありますよね。そこにプライドや甘えや世間体とかが絡んで、対等な関係で役割分担を考え直す席につくということが、どちらもなかなかできない。
どちらかが1段下りればいい、もう一方が土俵に上がればいい、ではなく、どちらも必要なんだろうなと思います。

職場で「若い男性」が一人だけいるのですが、彼は肉体労働みたいなものが特に苦手で(理由は知りませんが)。でも「若い」んだから「男」なんだから荷物運んでと、「年上」で「在職期間も長い」「多数派側」のわたしが言うのは権力勾配的にも性別による役割固定という面でもどうなんだ、、、なあんてそう深く考えたわけではないですが、彼が居なかったころと変わらず、女性陣が作業をしています。重たかったら分割すればいいし、2人、3人で協力してやればいいだけなので。彼には彼にしかできない仕事があるし。
こうやって、自然にできる場面もあるんですけどね。。

はい、これは何度も言及してるので聞き飽きたかもしれませんが、差別はどこまでも階層構造なので、「強い」側であるはずなのに実際には強くない人がいる場合、強いとされている集団からも見下され、弱いとされている側からの期待にも応えることができず、どちらからも相手にされない別の新たな集団が出現します。

その職場の若い男性のような人は、「男なんだから重いものを持って当然」という両サイドからの理不尽な期待に晒されているわけですが、全ての「男性」が力持ちであるわけはないし、全ての「女性」が力が弱いわけでもない、という当たり前の事が見過ごされてしまっているのだと思います。

同じことが経済力などにも言えて、「男が稼ぐのが当たり前」の世界では、「稼げない男」の価値はゼロになってしまいます。経済力以外にも様々な「男らしさ」に過大な価値を付与する家父長制が根強く残る社会では、「男らしくない」人間の価値は相対的に下がっていってしまいます。

それに加えて「結婚すること」や、「子孫を残すこと」ができてようやく「一人前」と言った規範も残っていますので、「稼ぐこともできず、結婚もできず、子供を残せない男」は、社会全体から「お前は男として、大人として、人間として無価値だ」と言われ続けているような気になるのも無理はないと思います。

さらに当人にとって「男」であることが、アイデンティティの重要な一部なのであれば、世間から「お前は男じゃない」と言われ続けているようなものです。「男のくせに」と言われる度に、「お前は男であるべきなのだ」という社会的要請に答えられない自分とのギャップを認識させられる度に、「お前は「一人前の男」ではない半端者なのだ」、という社会的評価を全方向から突きつけられたような気がして、自尊心を損ね続けることになります。

それに加えて、この資本主義社会において「モテない」ということは「自分には男としての価値も人間としての価値もない」という自己評価をさらに強化することに繋がってしまいがちです。

残酷な話だと思います。

家父長制は女性だけでなく、こういう人々も不幸にしますし、GSM差別にも繋がりやすいので、「女らしさ」を押し付けてはいけないのと同じように「男らしさ」も押し付けてはいけないし、構造的な問題の解決は社会全体の責任として考えないといけないのだと思います。

ああ…本当に残酷ですよね…

女性が「お茶出して」に「え、なぜわたしが?」と言えるようになった(昔よりも)ように、彼が「え、僕は荷運び係は嫌です」という意思を示してくれて、ほんとに良かったなと思っています。彼が我慢して「役割」を引き受けてしまっていたら、女性陣が毎回「〇〇くーん!これお願い~」とやっていたかと思うとぞっとします。「これ運んでー」と言いながら、「女性に役割を押しつけるなー」と言う無自覚なダブルスタンダード、やってしまいがちだけど、ものすごくグロテスクですよね。

弱者とされてきた側だから「お茶くみさせるな!」と大きな声で言える(人もいる)けど、強者とされている側が「それは押しつけだ」とか「できません」と拒否するのは、これもまたなかなか難しいことだろうと思います。ちょっと誇張かもしれないけど、弱い側は、「強いがゆえの"義務"だろ?」くらいに思ってるフシがある(とくに体力的なものは)。でも、お茶くみも荷運びも等しく、なにかの属性で担当が決まってるわけじゃないですね。

稼ぐことも養うことも産み育てることも「義務」じゃないし、それができないから人間の価値が劣るわけじゃない。そこで価値を計るのは、「家の繁栄」を最優先にする人の考え方ですね。抗うべきはここなのだと思います。

もちろん、どれだけ弱者性があったとしても、現在のこの果てしなく男性優位な社会で男として生きる以上、「男としての特権」は捨てられませんし、その自分の特権性や暴力性に無自覚で、女性全体を逆恨みしてミソジニーを拗らせているような男はガンガン糾弾されるべきだと思います。

しかしそれは「男」という属性だけで判断した場合の話であって、例えばそれが「女性の健常者」と「男性の障害者」であれば、どちらがマジョリティか?という単純化され過ぎた質問は途端に意味をなさなくなります。

他にも、例えばGSMや人種マイノリティから見れば、シス女性であってもマジョリティ性や特権性が発生しますし、子供や老人に対しても権力勾配が発生しますし、貧富の差や外見上の格差もあります。「当人が望んでいなくとも社会が特権性を与えてしまう」という意味では、資本主義的ルッキズムが蔓延る今の社会では、いわゆる「美男美女」だけでなく、外見上の不利益を被らなくて済む人間にも特権性がある面があると言えなくもないのではと思います。

世の中には様々な人がいますので、全ての面において圧倒的強者と、全てにおいて圧倒的弱者の間の関係である場合以外は、複雑なのが当たり前だと思います。

そういう多面的な構造について話す上で必要となるのがコンテキストだと思うのですが、コンテキストも一つではないので、属性の数とコンテキストの数の組み合わせで、様々な形の権力勾配と、様々な差別やハラスメントや暴力が発生する余地が生まれます。それが同じ人同士の関係性の中で双方向に発生したりします。

それぞれが与えられた特権に対して相応の義務が発生するのはその通りなのですが、それは社会的責任や、特定の属性と特定のコンテキストにおける他者との関係性の中の話であって、個人の能力や資質や特性や境遇や環境とは関係ありません。

「重い荷物を運ぶ」という、特権性とは無関係な作業が「男としての義務」となってしまうと、その恣意的な「義務」を果たすことができない男は「男としての義務を遂行しない傲慢な人間」か、「男としての能力が不十分な価値のない人間」のどちらかにされてしまいます。

おっしゃるとおり、こういう役割の押し付けを無くすためにも、また、このような男女二元論的なフレームワークから一刻も早く脱する為にも、家父長制を倒すしかないのだと思います。

いわゆる「美男美女」は、「お前、特権を持っているだろう」と勝手に妬まれたり逆に軽んじられたり、特権どころか不利益を被っている場合もあると聞きますし、「痩せている」が褒め言葉とは限らないのと同様、強(者)/弱(者)の基準すら実は曖昧で一方的ですね。
「自分から見えているもの」で人は物差しを作ってしまうので、自分が〇〇だから損した、じゃあ〇〇でない人は得しているはずだ、と考えてしまいがちだけど、そうとは限らない。

世間で「一般的」に使われている物差しを疑え、自分の物差しを人に当てるな、ってことかなあ、と思います。

「痩せているのは良いことだ」という一般的な評価や価値観は本当に「真」なのか、自分が太っていて、痩せたいと思っている、それがどんな理由であれ本人の自由だけど、同じように太っている人に「痩せなよ」と言ったり、痩せている人を過剰に羨んだりするのは境界を踏み越えてて、あくまでも「痩せてるほうがいい」という自分の物差しは自分にだけ適用しとけ、みたいな。

自分の物差しを使ってしか、相手の立場を想像してみることもできない、というところに一人の人間ができることの限界があるけど、だからこそ、相手に勝手な想像を押し付けずに、ちゃんと聞いたり話したりすることが大事なんじゃないかなと思います

どうしても譲れない物差しはあると思いますし、人権とかも、そういうもので測るべきなのかなと思いますが、資本主義はそういうものとは無関係な、「痩せている」や「背が高い」という、本来価値中立な差異でしかないことをあたかも無条件に良いことであるかのようにイコールで結びつけることで「価値観」をどんどん乗っ取って人々に優劣を付け、羨みや嫉みといった感情を利用してなんでも商品化して消費させる方向にいってしまいがちです。

それとは別に、容姿のような、当人にはどうすることもできないことが多い要素によって、実際に大きく優劣がついてしまう差別的なこの世の中で、自分に与えられたものを利用してなんとか生きていこうとする人を責めることもできないですし、おっしゃるとおり、「みんなが望むものを持っている」というだけで嫌な目に遭うことも多いのだろうなと思います。

ただ、強い側にいる人間が、弱い立場にいる人々の境遇について無関心で傲慢な態度をとっていたり、「ブス」とか「デブ」とか「チビ」とか「キモい」などのような言葉を使っていじめたり、排除したりするならば、それは批判されて当然だと思いますし、「痩せている=普遍的に良いこと」と決めつけて他人に自分の価値観を押し付けたり、自分の価値観で他人をジャッジしたりするのも問題だと思います。

さらに言えば、自分には特権性があるということをきちんと認識している人まで属性だけで傲慢な強者と決めつけてして糾弾するようなことも問題だと思います。

ルッキズムに限らず、様々な社会不正義の問題についても同じようなことが言えるような気がします。

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