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 「千葉雅也さんにとっての第一次世界戦争」

 千葉さんの「インターネットで旧来の世界が焼き払われていくというのが僕ら日本のロスジェネにとっての第一次世界大戦」という比喩に対して私は「いささか想像力を欠いているのでないか」と懸念を表明しました。

 しかし「想像力」というものは意外とあてにならぬもの。そこでより具体的でアクセスしやすい資料を提示します。

 例えば、前世代までは大学生の「常識」であったレマルクの『西部戦線異状なし』。これニ度にわたって映画化されている。また同じく西部戦線末期の仏軍の崩壊寸前状態を描いたキューブリックの『突撃』。尚、仏では徴兵忌避・命令拒否は法的に「敵前逃亡」と同じと見做されますので、原則「銃殺」。

インターネット時代に大量の若者が「銃殺」されたとは寡聞して知らない。

A.ブルトンは「地獄の西部戦線」に医学生として従軍、この経験からシュルレアリスムは誕生します。『シュルレアスム宣言』は1924年。

もう一つ付け加えると、近年再評価著しいB.ウルフの『ダロウェイ夫人』は1925年です。この頃にはドイツ語圏ではフッサール、ハイデガーの現象学が台頭。『存在と時間』1927年。

サルトル世代はこうした「戦間期の精神」の中で登場した。

少しでも参考になれば、ということで。

訂正と「戦間期の精神」、そして『勉強の哲学』の著者、千葉さんについて

『シュルレアリスム宣言』(正)

尚、日本のシュルレアリスム研究はブルトンとアラゴンがWWIの際、共に医学者として「地獄の西部戦線」に従事したこととシュルレアリスムの「(反)美学」の関係にほとんど着目しない。「西部戦線」では「人間の尊厳」、「生命の有機的統一」などは、霰のような砲弾の嵐によって、文字通り「バラバラ」の肉片へと砕け散っていたのです。

これこそがまさに「シュール」レアリスムたる所以。単なる「言語遊戯」ではない。この感覚がアルトーの「器官なき身体」を通じて『アンチ・オイディプス』にまで至る。

B.ウルフ(誤)
V.ウルフ(正)

『ダロウェイ夫人』かつては「意識の流れ」という小説手法の新技法の面から論じられた。

しかし内容的にはPTSD(友人の爆死のフラッシュ・バック)に苦しむセプティマスの飛び降り自殺とダロウェイの内面(死への衝動含む)との交差です。

ナチスの「ブラックリスト」にも入れられていたヴァージニアは1941年WWIIの最中入水自殺しました。

「戦間期の精神」とはブルトン、ウルフ、ジョイス、アルトーと向き合うこと。

さて、千葉雅也さん、これらのテクストについてどのくらい「勉強」されたのだろうか?

訂正)とブルトン、アラゴン、魯迅

ブルトンとアラゴンは「医学者」ではなく、「医学生」として西部戦線に従事。

その凄惨な体験の後、「医者」への道は捨て、「作家」となる。

この点では、日本帝国主義との対決という課題を前にして、医学を捨て、作家・思想家となった、東アジアの魯迅との「同時代性」があるとも言えましょう。(実際、ほぼ同世代)。

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