「地域コミュティ論」の両義性ー「神社」の役割
1980年代以降の新自由主義では、行政が福祉から撤退する際の正当化言説として、「福祉国家から福祉社会」へ、「官から民へ」などという一見口当たりの良い言葉が「意図的に」流通されるようになる。
近年の「公共性」論、「地域コミュティ論」にも、その側面はある。「地域コミュニティ」の中心として「鎮守の森」などが持ち出されてくるとこれはもう赤信号。
先日、神社本庁常務理事、鶴ケ岡八幡宮宮司の特任教授のことを書いたが、これは神道組織の頂点。
底辺には、「地域コミュティ」の名望家としての神主が配置されている。首都圏などでは、旧大地主が神主を兼ねていたところも多い。
農地改革はあったものの、千葉、埼玉、神奈川の一部などの大地主は郊外開発に伴う地価の高騰で、べらぼうな「資産家」(十億レベル)になった。
かつての自民党は、この人たちが取り仕切る「地域コミュニティ」を基盤とした。
ここでは当然強固な「家父長制」秩序が支配する。
であるから、「地域コミュニティ論」も「民主的秩序への再編成」と行政の「福祉」からの撤退への批判、この2点が備わっているのか否か、という視点からの再検討が必要だろう。