今日はホールドオーバーズ見てきたのです。すごく良くできてる。アレクサンダー・ペインは間違いなくうまい人だし「今」らしくもなっている(リアルに70年の映画だと絶対に存在してしまう種類の小骨を抜きまくっていながらも再現度の高さではかなりのもので、画面のざらつかせ方とか音使い以上にオープニングとエンディングの「つくり」と撮影におけるズームアウトのそれっぽさにうなった。あんなズームアウト久々に見たわ…)しかも嫌われ者の先生にポール・ジアマッティを置いてある時点で盤石ー!って感じだ。クリスマスストーリーで、先生と生徒と給食のおばちゃんによるブレックファストクラブでもある。名シーンには事欠かないし、台詞もよく練られている。
でもな、なんか私はこの映画にも密輸と同様の距離感があった。何なんだろう。感覚が鈍ってるのかな…
『密輸 1970』概ね楽しめたんだけど、私この監督の映画ってどうも「それ以上」にならないんだよな……そんな複雑にせんでも…100分で撮れる話に絞ってから120分にしようやーって思いがちで(全部見てるわけではないのだが)。筋を無駄にややこしくしなくても「勝つこと」が最初からわかってる話なんだから!という意味で今のところ『ベテラン』が「んな無茶な」の割り切り方が上手でいちばん好きなのは変わらず。筋を「実はこうでした」を繰り返してごちゃつかせるよりもひっくり返しを最終戦一発に絞って、主役たち以外を含めての事情のある女たちのキャラクター映画にしてあったほうが正直好みだったかな(ヨム・ジョンアつながりでいうと『明日へ』は本当にここがうまかった)。
とはいえこのびっくりするほど元気さと(私にはちょっと過剰に思えるけど)「楽しませます!」精神は嬉しいもので、あんな間髪入れないビンタ応酬とか久々に見られたし、韓国アクション映画おなじみ手近なものでドーン!が海中にも出てくるのに笑ったし、とにかくギターのチャカポコチャカポコが素晴らしく、あれが鳴るだけで話が暗くならないんだよな。そしてみんな声が大きい。
あとチュンジャという名前。74年に30代(だよね?)だと「子」がつけられてた時代に生まれた人たちの話になるんだよなー
秋津温泉を見たのです。メロドラマ、なのかなー。男女の腐れ縁という感じはあまり受けなくて、死にかけの魂が入れ替わっていってしまう戦後の呪いの話なのかなーとか。恋愛なのかな…ってとこがあんまりピンとこなかったけど、恋愛映画だと思わなければ気に入らないところもない、という印象。「土地の人」ではない人たちの話、なんだよな…
闊達な娘さんらしく雪道を足袋で走ってくのとか、川辺で下駄を脱いでひょいひょい歩いてくのとか、その身体運動と横たわり静止する身体にそのあと必ず映り込むようになる煙草の煙、茉莉子さまは当然お美しいわけですが、衣装も手がけてらしたのか。徐々に「赤」が消えていくのがよかったですね、そのうえでのあの終盤の赤く染まるもの。赤い椿のような、紅色の大輪の牡丹のような、まばゆいばかりの娘さんがなんでこんな男に…という視点で見たらそれはそう。なんだが「あのとき」を一瞬でも経験してしまったらそうなるよねとも思う。生かしてしまったのが運の尽きなんだよなあ、愛は呪い、呪いは愛…
序盤の汽車のとこがすごいよかった。みんなが飛び降りる中ひとり空を見ている、あのどうなってもよさと甘美でさえある死の気配。あれは文学の映像。と比較すると鏡や格子の多用はやや意味が目立つか。全体にロングの画がよかった。
『ハハハ』を見たのですが(ホン・サンス2本め)くだらないともちがうな、どうでもよすぎて、かなりおかしかった。まだ飲むんかい!がひたすら続く2時間、男女6人恋物語withユン・ヨジョン先生!「男ふたりが飲んで喋ってる」形式を使ってこういう結構生々しくキモい夏の恋バナ(基本的に恋はキモいものだと思うので…)が「そういうことがあってもおかしくなさ」として立ち上がってくるのすごいね。観客だけが知っている、をフックにして引っ張ってないとマジでどうでもいい話になるところ、この形式をとることで「まあそんなもんさな」な着地にしてるのがお見事だと思いました。喋ってる人間は知るよしもないこと、という「外側」が映っているのが面白い。話している内容と一致しているわけではない、謎視点。
長回しが目的というよりただひたすらグダった人たちの「感じ」の醸成に貢献している感じなのおかしい。シグニチャの謎ズーム(なんだこれってとこで変なズームがくるの、あれは話を聞く時の身を乗り出す感覚だろうか)がマジで謎なのもおかしい。なるほど確かに「街の上で」だし、スワンバーグ。だらしない男たち(まともに働いている様子がなく、女の人にイイナア…とフラフラしまくっている)の話ではあるんだけど、女もたいがい変なので、これくらいみんなが妙ならOKOK
『フィリップ』なかなかよかった。意外な展開で推進するのでなく、そもそも話の枠が一筋縄じゃいかないやつというか。
予告を見てなかったんだけどこれは事前になにも知らず見て正解だったかも。想像していたどぎつくてひねくれた感じ(チラシだとそう思うじゃないですか)の映画とだいぶ違ってすごいまっとうな反ファシズム映画だと思う。確かに奇妙な味付けもあるんだけど。いやこの映画にこんな冷え冷えしたデジタルなスコアがついてるとは思わなかったよ!音楽すごくよいです https://www.youtube.com/watch?v=4KJg8vV0NF8&ab_channel=RobotKoch
出自を隠してホテルでフランス人として働きながら復讐としてドイツの女たちを籠絡するフィリップ、という構造を作ることで国家主義とセクシズム/ミソジニーの切り離せなさを浮かび上がらせているのだがここはかなりトリッキー。その行動に嫌悪感を持たずにいることは難しいのでこの状況でロマンスを成立させちゃうの?というスリルのあたりはウーン?と思ってしまう。が、そこからの。
こどもたちの描写とか若者たちの地下ジャズパーティのとことか空襲シーンであまり見たことのない描写があったのとか(画面の向こうからただグワーッと煙が押し寄せる、あれ何かしら元ネタがあるんだろうか)色々良いシーンあったけどラストシークエンスがまあ見事だったわね。
今日は『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』と『フィリップ』を見てきました。
『ハロルド~』のほうはみんなに応援されながら長距離を歩くおじいちゃんということで『君を想ってバスに乗る』みたいな話かな?と思ってたら全然角度が違っていた。我々は過去からも現在からも予定された未来からも逃れられない、みたいな話で結構シビア。You will not die, You will not die.の歩みの言葉が消えていく。大事なのはそこではなくて。
「本能的なことって案外難しいものよね」とか台詞がいい感じ(原作者レイチェル・ジョイスの脚本)。光が綺麗な撮影は大好評だった『コット、はじまりの夏』のケイト・マッカラ。ノーマル・ピープルでへティ・マクドナルド監督と組んでたのね。
勢いで家を出て歩き出したら独りになる、考える、外の景色が見える、なにを見ても何かを思い出す、否応なく過去の傷と向き合うことになる、というのが思いの外厳しく描かれている。
こういう話には珍しくお金の話が結構ある(「予算内でやってるし」)。
とはいえ英国人情ものの伝統(だと思う)困ってる人には四の五の言わせず親切にすればいい感を外さないのが嬉しい。「人間は基本的には親切なものよ」
『まだ明日がある』、素晴らしかったな。パオラ・コルテッレージの抑圧の中でパキパキ動き回る人の身振りが本当に見事なんだよなあ、良いなあ。そしてこれが初監督なのも本当にすごいなあ。この物語を音楽劇として見せるというのが素晴らしい。
『陸軍中野学校』は現代劇のときの雷蔵様のよくわからない人の顔×やりすぎてないほうの増村保造でさすがの面白さだった https://www.youtube.com/watch?v=-L2da51etws 2週間限定の無料公開中。明日?明後日あたりまでのはず
フランス映画のこどもさんでは妹ちゃん、韓国映画のこどもさんでは弟くんが良いキャラのことが多い気がしている。どっちにしてもおにいちゃんやおねえちゃんにくっついてく小さい子をみているのは楽しいし幸せ。わたしも妹ちゃんからつきまとわれていて、面倒だけどまんざらでもなかった
『イン・ベイン むなしい愛』を見たのですがあまりにもすべてが合わない映画だった、久々にこんな「何でこんなの見てるんだ」を感じた(見始めたら最後まで見ますが) 短編でよかった。これはペシミスティックな顔、パセティックな気配を見せようとしてるのかもしれないが、こんなん悪意しかないじゃんと思う。
口直しに『トムボーイ』を見て、やはりセリーヌ・シアマのぶつかりにぶつかるこどものからだの捉え方は良いわねーとホッとした。10年以上前なので(今のSNSを見ていると特に)どうしてもあやうさは感じるけど、それでもやはり夏はこどもさんのものだよねって気持ちになれる嬉しさ。とにかくお子さんたち何も考えず大人になったらしない距離の詰め方でペタペタするんだよな。女の子が男の子のふりをすることの「背景」なしに「前景」だけで描くのがいい。ところどころにこの年代でも「男の子社会」が既に「男社会」の振る舞いに寄るんだなあと見せつつ、こどもはこどもなのでそこまで大人社会の投影はしてないのも好ましく。君と一緒ならどこへでも!の余韻の付け方とかさすが。
フランスのこどもさんの映画はもちもちしたほっぺと手足でトテトテ動く上の子にくっつきがちな妹ちゃんが素晴らしいことが多いですね。6才と5才半の会話の社会性!夏休み映画のよさにあふれていた。
『2/デュオ』は絶対トリガーワーニング入れたほうがいいと思ったけど(マジでこの映画の精神的DVの厭さはやべーもんがある、そのわけのわからない当たり散らし方といつなにが原因になるのかわからなさが凄い緊張感で厭すぎるのよ)90年代の一部の邦画のやたら尖った実験精神と諏訪さん(根っからまっとうな監督代表みたいな人ですよね)の真面目で丁寧な「みんなで作る」が組み合わさって、ただただ異様なものができているのが面白くて、自由だなーオイ!とギャー!怖いよー!でも私は(直接経験したわけじゃないけど間接的に)知ってるんだよこの感じー!を繰り返して心がひび割れた。疲れた。大丈夫って言うひとは絶対大丈夫じゃない人。カメラ位置の関係でどんな顔をして聞いているのかわからないところがずーっとわからないまま続くのとかも超怖い。
設定を決めて即興で展開を作っていくというインプロ要素を取り入れた映画は色々あると思うけど、ここまで「フレームがあることを意識させては、劇映画とドキュメンタリー/自然と不自然の境界線を妙なタイミングで溶かす」試みがなされているのすごいわね。演じる存在の視点で答えているのか、キャラクターとして答えているのかインタビューパートの曖昧さとか、柳愛里のアッ…アッ…の声とか忘れがたいわね…
『アンデス、ふたりぼっち』は本当に「ふたりだけ」の度合いがすごくてびっくり。ボリビアの『UTAMA』を思い出さずには居られない話なのだが、あちらは「男衆」「女衆」がある世界だったが、それがないからかどちらもえらそうなところ、保護すべき対象としているところが全然ないのが興味ぶかかった。
そして生活のハードモードがすぎて二度びっくり。序盤ヒョイヒョイッと顔を出すリャマかわいいねー、などと見つつもこれはどんどん大変なことになってく話だろう、とわかっていたが、さすがにちょっと想像できないレベルだった。
5000メートルを超える高地で撮影している自然の凄さもさることながら、とにかくこれはおじいさんおばあさん、そして動物をひたすらに見ていればいい、そういう映画。佇まいの素晴らしさ、不思議な儀式の動き、唱えられる祈りの言葉。
演技としてはあまりにも朴訥とした「台詞を喋っている」感の強いぎこちない言葉の感じ(当然アイマラ語がわかるわけではないのですが、聞き慣れた「感情の乗った」リズムの言葉は語られない、と一言めからわかる)に「大丈夫かね」という気持ちになったが、いや違うのだ、これはこの人たちはこのように実際語るのであろう、とわかった(実際はわからないけど、映画としてはそれでいいのだ、って感じね)
勝手がわからない