13歳の少女を慰安婦にした映画とか、少年少女が日本軍に虐殺される映画なんか絶対売れないから企画の段階でぽしゃる、というかそもそも作ろうともしないだろうけど。
”火垂るの墓”とかはウケて”反戦映画”とかいって日テレで繰り返し繰り返し流してるわけでしょう。
関東大震災の大虐殺を福田村事件にフォーカスしてしまう、というのもまあ、そんな感じなんだろうな、と。
向き合えるわけないもの。
で、そういうと個人の資質が問われるわけですが。
ここで、例えば日本とドイツを対比させると、やっぱり社会がある程度のカバーをしてるわけですよね。
教育とか。
同じ人間だから向き合いたくない人間だってドイツには沢山いるでしょうけど、自分もまた歴史の一部であり、その一部の責任を負うが故に、歴史を学ぶ必要がある、という事を学ぶわけで。
なんか書いてて疲れてきたんでちょっと離れますが。
日本が好きか、と問われると、そんな単純な質問に答えられるわけがない、というのが私の答えで。
住んでる場所に愛着のない人間がどれだけいるのだろうか、と問いたいのですよ。
頑張ってほしいのですよ、日本に住むマジョリティの人々には。
誰にとっても良い社会になってほしい、とは願ってますが、まあ、どうなんでしょうね。
@upasampada 『この世界の片隅に』の映画を見て、「なんだ戦時中も面白おかしく生きていたのだな」と誤読してしまう人が多かったくらいなので、同様のことになってしまいそうです。
反差別、というのも、何段階かのレイヤーがあるんだろうなと。
いまそこで、人の顔を踏ん付けている人がいるので、やめろと非難する、場合によっては罵倒してでも止めさせる、というのも必要な行為だと思うのですが、二の次三の次の手段だと思うんですよね。
そもそもそんな事、誰であってもしない方がいいし。
ミャンマーで出家させてもらって自分の内面と向き合ってみて理解したことは、まあ、当たり前の話なんですけど、誰でも差別するんですよ。
でも自分が差別するのは正当化する。
相手が悪いから、とか。
そういう自己正当化をやめて、残念ながら自然と差別してしまう生き物に生まれてきてしまったのだから、それを認めて、自分の差別する心と向き合う、気付かないうちにやっていたらやめる、少なくとも立ち止まる、という事がどうしても必要なんじゃないかなと思ってるんですが。
言うは易しで、私がそのように行っているか、というと、穴があったら入りたいというか、高い所から飛び降りたい衝動に駆られるわけですが、まあ、でも、試行錯誤しながら向き合ってゆくしかないので。