今日はね、熱海駅からすぐの来宮駅から梅園方面に登る道の脇から、ちょっとそれた所にひっそりと佇んでいる、丹那トンネル殉職者慰霊碑に行ってきましたよ。

地元で仕事がなかった曽祖父が海をわたり出稼ぎにきて、丹那トンネルを掘っていた際、落盤事故があり。
遺骨を引き取りに来た曾祖母と祖父は、結局地元では食べてゆけないので、日本で暮らすことになったそうで。

あるとき落盤事故と曾祖母、祖父の歳を調べてみたことがあって。
そうしたら、曾祖母は30代後半、祖父は12,3歳だったんですね。

大酒飲みだった祖父は私が生まれる前、肝臓を悪くして50代前半で亡くなっていて。
いっぽう、曾祖母が亡くなったのは私が中学1年生だったかと思うので、1990年代はじめくらいまで存命で。
ただまあ、最後の数年は認知症で徘徊と妄想が酷くなってしまったので、施設に入ってもらう事になってね。
今から考えるともう少しマシな方法があったんだろうとは思うのですが。

さておき、私が小学生3,4年だったかと思うので、亡くなる2,3年前、施設に入る前だと思うんですが、曾祖母が大磯の線路脇を歩いていたらしくて、保護されたんですが。
夜中に父が運転する車で迎えに行ってね。
その当時は訳もわからず、わー夜のドライブだーなんつって無邪気なものだったんですが

なんかあとになって色々と、当時はよく知らなかった、なんかこう、ボケてしまって皆に迷惑かけた困ったバアさん、位にしか思ってなかったんですね曾祖母の事をね。

それを色々と考えてみると、30代後半で出稼ぎしてた連れ添いが事故死し、保証もなく、殉職者の名簿に名前すらなく、幼い10歳にもならない娘をカナダに養子に出し、中学生になろうかという長男と日雇いの肉体労働をして、学もなく、必死で生きてきたのだなと思うと、なんだか無性に悲しくなってきて。

なんという無理解な曾孫だったのだろうかと。

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まあ、すべては妄想なのですが、ひょっとしたら曾祖母は、大磯の線路脇を歩いてたあのとき、丹那トンネルに来ようとしてたんじゃないかなあ、と。

わからないし、今となってはすべて過ぎたことで、詮のないことですが、なんかこう、思い立って行ってみたのです。

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