「地域コミュティ論」の両義性ー「神社」の役割
1980年代以降の新自由主義では、行政が福祉から撤退する際の正当化言説として、「福祉国家から福祉社会」へ、「官から民へ」などという一見口当たりの良い言葉が「意図的に」流通されるようになる。
近年の「公共性」論、「地域コミュティ論」にも、その側面はある。「地域コミュニティ」の中心として「鎮守の森」などが持ち出されてくるとこれはもう赤信号。
先日、神社本庁常務理事、鶴ケ岡八幡宮宮司の特任教授のことを書いたが、これは神道組織の頂点。
底辺には、「地域コミュティ」の名望家としての神主が配置されている。首都圏などでは、旧大地主が神主を兼ねていたところも多い。
農地改革はあったものの、千葉、埼玉、神奈川の一部などの大地主は郊外開発に伴う地価の高騰で、べらぼうな「資産家」(十億レベル)になった。
かつての自民党は、この人たちが取り仕切る「地域コミュニティ」を基盤とした。
ここでは当然強固な「家父長制」秩序が支配する。
であるから、「地域コミュニティ論」も「民主的秩序への再編成」と行政の「福祉」からの撤退への批判、この2点が備わっているのか否か、という視点からの再検討が必要だろう。
吉田忠智
社民党支持だけど正直言って社民党代表の頃から嫌い。
代表になった経緯がオープンリーゲイの石川大我(当時豊島区議)を代表選で破っての代表就任だった。
あの時に社民党は石川大我を代表にして新しい家族の形に法的な裏付けを与える法整備を公約にしていけば支持層が大きく変わった可能性があると期待した。
でも選ばれたのは「国会議員先生」の吉田忠智。
正直社民党に幻滅した。
福島瑞穂が女性を中心にした支持層獲得を目指す方向だったのに、労組票を背景にした吉田忠智や又市征治が邪魔をしたと思っている。
だからこいつらが立憲民主党に合流すると言った時は喜んだ。
そして、大椿ゆう子副党首が吉田忠智の補選への立候補による議員辞職を受けて繰り上げ当選。
それはいい方向だと思う。
大椿ゆう子の再選問題はともかくとして。
そして大分補選で吉田忠智はややリードなものの接戦。
正直言って落選しても「ザマァ見ろ」と思うだろう。
当選したら「まぁ護憲の議席が守れてよかったね」でしかない。
立憲民主党が泉体制で改憲へのアシストをしているので期待はしてない。
何事も外の人の立場から発言してます。