児玉まりあ文学集成、微妙に褒める人がいるからちらっと読んだが、マンガとして下手なのがもうだめだとおもった。文字が好きで視覚像嫌いな人にうけてるだけなのでは。
そもそも貧民=ポピュリズム=トランプ支持のあいだの等号記号が全部「短絡」で、ポピュリズム(人民主義)がトランプしか選択肢がないわけない。
そこらへんを操作してる時点で「こういうのが支持者のイデオロギーなのね」になる。
貧民じゃなくても人民主義の大義に賛同しうるし、トランプ支持者の言葉を見てると中産階級が偽りの敵(既得権益云々)に向かって突進してる語りが多い。よくこれで貧民がどうのこうの言えるなあ、と思う
あと約400人で10,000人です。
署名と賛同をお願いします。
【署名】「帰る国」のない若者の永住許可を取り消さないで!
https://chng.it/JLvspgQ5YP
切り抜き画像っぽい絵だけを作る作家が生まれている。https://x.com/noreal_koma/status/1854109471741731083?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
こんな世界があるのか。長谷川ゆかり覚えた。https://x.com/eda_mame_ko1/status/1852952111278911837?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
TLで柏の概念がどうのこうのと複数人が話してるから千葉でオフ会でもやるのかなと思ったら拍の概念だった
これに特化したAIを動かしたら何か地獄の蓋が開きそう https://x.com/ushidamooo/status/1853933368012066925?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
近代的主体性vs現代思想で捉えられやすいから、見失われている論点ってあって、ドゥルーズガタリや後期フーコー、晩年ガタリの主体性の問いの回帰がけっこう脱落しているんだと思う。
ドゥルーズはまず主体とかだるい系の人が好んで振り回したところがあり、その後「フレキシブルな主体」とネオリベの相性の良さについての批判が00年代に起きて、その後気づいたら、一方で、脱政治的に主体の問いが消えていて(日本社会の主体性発露忌避と適合的)、他方で、10年代後半以降はレペゼンと主体化の経路が一気に整備されたあと、フレキシブルな主体化とその環境ごと問う議論が更新されて、情動理論もその一つ、という感じになっているなか、こういう変遷の文脈整備をしている人いなくね?という壁にぶち当たっている。
ドゥルーズガタリ主体化論とガタリ主体性論とかを10年代以後フェミニズム状況と架橋するプレイヤーがいないのが問題なのかもなと思うに至った(英語圏ではそれなりにいそう)。バトラーもそこで蝶番になりそうなのに。
あまり書き物ができてない。