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こういう広告は会員登録とかすると消せたりするのだろうか。広告というより嫌がらせみたい。

よい記事。でてくる広告が記事で批判されている内容そのもので消耗すること以外は。

「女呼ぼうぜ」キャバクラを幻視する男
p-dress.jp/articles/9209?s=09

“そこで振り返って改めて気づいたのだが、女性のいるところでは「女子」とか「女の子」とか「女性」と言っていたものが、男性だけの空間になると「女」に変わる男性というのが一定数いる。気づいたとき心底ぞっとした。おジャ魔女のときと一緒だ。「女」を見下すのは「かっこいい」のだ。というか、思い返せばおジャ魔女を観ていた頃もうすでに、いた。女子がいる場といない場で「女子」の呼び方が変わる男子は、8歳そこらの頃にはもうすでにいたのだ。”

ほんとうのリーダーのみつけかた
iwanami.co.jp/book/b515739.htm

“日本人が置き去りにしてきたもの──それについてここ数日ずっと考えていた。何なのかはおおよそ見当はついても、それを呼ぶ、他の言葉がないものかと、ずっと考えていたのだ。が、やはりそれは、ヒューマニズムとしか、言いようのないものなのだった。”

この年月、日本人が置き去りにしてきたもの
初出『図書』二〇一五年一〇月号

本当に、ヒューマニズムから遠く離れたところにいる。でも、懐かしむべき時代があったとも思わない。できることをする。

見たことはないけど、「神と共に」という韓国のドラマのタイトルを、ここを読むと思い出す。

第4章 私たちは何に従うべきか

従順さのどこがいけないのかchikumashobo.co.jp/product/978

コンスキエンティア(conscientia)、英語のコンシエンス(conscience )の訳語「良心」

“コンシエンスはラテン語でいえばコンスキエンティア(conscientia)で、この単語は「~と共に」を意味する「コン」と「知識」を意味する「スキエンティア」の二つが合体したものです。
 つまり「~と共に知る」という意味です。
 そこで問題なのは「何と共に知る」のか、ということです。
 ヨーロッパの思想的伝統では、おもに二つの理解があり、一つは「神と共に知る」、もう一つは「自分自身と共に知る」となります。”

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再読。
ここのくだりは良心を育てていく過程についてかなと思う。

ほんとうのリーダーのみつけかた
iwanami.co.jp/book/b515739.htm

“あなたのなかで、自分を見ている目がある。いちばん大切にしないといけないのは、そしてある意味で、いちばん見栄を張らないといけないのは、いいかっこしないといけないのは、じつは、他人の目ではなく、この、自分のなかの目です。”

“だれよりもあなたの事情を知っている。両親よりも、友だちよりも、いわんや先生たちよりもあなたのことをすべて知っている。あなたが、そういうことをせざるをえなかった、あなたの人生の歴史についてだれよりも知っている。しかも、あなたの味方。いつだって、あなたの側に立って考えてくれている。”

“そう、あなたの、ほんとうのリーダーは、そのひとなんです。”

“自分のなかの、埋もれているリーダーを掘り起こす、という作業。それは、あなたと、あなた自身のリーダーを一つの群れにしてしまう作業です。チーム・自分。こんな最強の群れはない。これ以上にあなたを安定させるリーダーはいない。これは、個人、ということです。”
 

「ケア」という言葉に接することが増えて自分でも使っているけど、使い方に注意が必要だとも感じる。

図書館から帰り道、本を入れるトートバッグを買い替えようと思っていつも忘れる。

人権とは「思いやり」ではない 異質な人への尊厳を大切にするためにdigital.asahi.com/articles/ASR

「(前略)優しさや思いやりを養うことがあたかも人権教育だという考えが根強く、人権の内容について教える本来の人権教育がなされていないことが問題の一つだと思います」

 ――どういうことでしょうか。

 「私はこれを『優しさ・思いやりアプローチ』の教育と呼んでいます。思いやりの気持ちが向かうのはもっぱら、自分が仲間だと感じている人、助けたいと思える人でしょう。しかし、人権を持つという点では仲間であってもなくても同じです。だれにでも普遍的な人権があり、あらゆる人間の尊厳が大切にされるべきであるという視点が、このアプローチからは抜け落ちてしまいます」

「メディアの責任も大きい。例えば、弱者の問題を取りあげるとき、お涙ちょうだいではなく、人権という普遍的な基準に照らして何が問題かを伝える。政府が人権を保障する義務を果たしているのか、権力を監視するパブリック・ウォッチドッグとしての役割をもっと自覚すべきです」

能登半島地震・志賀原発 避難ルート「のと里山海道」は一時全面通行止め 避難計画は“絵空事”だった
dot.asahi.com/articles/-/21070

“「実際には多くの家屋が倒壊し、下敷きになった住民もいるかもしれない。死傷者も複数発生し、火災発生もありうる。道路の損壊も広範囲に、複数個所に及ぶ。津波被害も発生しているかもしれない」

「周辺市町は地震の災害対策本部を設置しているはずである。消防や警察はこうした事態への対応で奔走している。こうした中での複合災害発生である。原子力災害への対応がどこまで可能か」

「重大事故が起こっても、あたかも住民が皆安全に避難できるかのような、まやかしの訓練」

 今回の地震の40日ほど前に、「志賀原発を廃炉に!訴訟原告団」などの市民団体は、そんな声明を出していたが、その危惧は的を射ていたようだ。”

【全文・主な署名者】世界の識者「辺野古ノー」 ストーン監督ら400人が声明
ryukyushimpo.jp/news/entry-266

 “要するに、裁判所は、国が法律を私物化し、地方自治体の自治権を踏みにじることを事実上認めたのである。日本政府は2024年1月12日に大浦湾の埋め立て工事を開始する予定である。”

 “他県に住む方々は、自らの地域にこのような事態が降りかかることを是認できるだろうか。… 沖縄が初のケースで、今後沖縄以外にあり得ないという認識の下の無関心であろうか。”

 “これは植民地主義的無関心である。県外の人々は気にもかけないし、米国市民の圧倒的多数は自国政府が沖縄で何をしているかさえ知らない。”

自分の投稿の引用ってこの仕方でいいのか、もうひとつわからない。

民主主義と災害nobunagai.blogspot.com/2024/01

 “実際には、飢饉の問題は民主主義がその本領を発揮するほんの一例にすぎませんが、多くの点で最も分析しやすいケースだと言えます。政治的・市民的権利は経済的・社会的破局の防止に、積極的な役割を果たすことができます。物事が順調に運び、すべてがいつものように滞りない状態にある場合には、民主主義が手段として果たす役割が切望されることはあまりないかもしれません。しかし、何らかの理由で、状況が急変するような場合には、民主的な統治が生み出す政治的インセンティヴが大きな実践的価値を持つのです。”

アマルティア・セン『貧困の克服』(大石りら訳、集英社新書、2002年)

地方の長年の過疎化と資源のなさと東京一極集中と初動の遅さは、関連しあっているから、今は政府の遅さを批判するタイミングではない、という考え方には頷けない。政権与党の方針でここまで来たのではないかと思う。

 何事かに困っている人が困った人として扱われるのは個人的な経験でもよくあって、「大したことではない」かどうかは本人にしかわからないし、同じ事が違う人に起こっても困っている程度は人による。その人が困っていることをそのまま受け止めたい。大したことではないよね、みたいなプレッシャーもいらない。
委細を含めて相談しづらいことはたくさんある。

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『からくりからくさ』
梨木香歩の作品ではじめて読んだ小説。何度となく読み返してきて、親しみ深い。他の著作を読むきっかけになったから。
だからなのか、作中マーガレットのポジションというか、作者の扱い方に寂しさを覚えることが増えた。色々と背負せ過ぎているようで。

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