“[……]そしてその声は告げる、ヨーロッパは何世紀にもわたってわれわれに嘘を詰め込み、悪臭で膨れ上がらせたのだと、
なぜなら、人間の仕事はもう終わったとか、
われわれにはこの世界で何もすることがないとか、
われわれは世界に寄生しているのだとか、
われわれは世界に従うだけでよいのだとか、
そんなことはまるでほんとうではないのだ
そうではなく、人間の仕事はいまやっと始まったところだ
そして人間はまだ、自らの熱情の片隅で凝り固まったあらゆる禁制を征服しなければならない
そして美と知性と力はいかなる人種の独占物でもない
そして誰もがともに征服に参加できるのであり、いまやわれわれは知っている、太陽はわれわれの大地の周りを回転し、ただわれわれの意志のみが定めた場所を照らすのだということを、そして、すべての星はわれわれの全能の命令によって天から地へと落ちるのだということを。”
[*11]エメ・セゼール『帰郷ノート/植民地主義論』砂野幸稔訳(東京:平凡社、2004年)、102–103。
読んでないまま奥の方にしまっているのもあるし、今年こそ陰干ししたい。いい加減埃を払いたい。
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これも。
『帰郷ノート/植民地主義論』
https://www.heibonsha.co.jp/book/b160689.html
これ、立ち読みでうろ覚えなんだけど、ホロコーストとはヨーロッパがアフリカにしてきたことを、ヨーロッパ自身にしたからこそ、あれほど衝撃を与えたのだというエメ・セゼール(又はファノン)の文章があって、やっぱりちゃんと読みたい。
『アフリカ哲学全史』https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480076366/
第1回 カリブ海作家と「記憶」との諍い|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉|中村達
https://note.com/kashiwashobho/n/na5b5d70c1b01
“もし、アーレントの思想において明らかなように、西洋が「記憶」というものを記録や文書、記念碑といった物が積み重なって構築できる直線的な時間の中でのみ受け入れるのであれば、すなわち人類の歴史を不可逆な川の流れとして認識するのであれば、カリブ海の人々は常に「非歴史性」を抱えた存在、そして永遠に「独自の歴史の記憶を、記憶に価する事蹟を持たない」他者という烙印を押されることになる。そのような「決定論的な歴史認識」は、「我々を、実に永久に、歴史の奴隷であり続けるように運命づけてしまう」。それゆえ、ボウはこのように力強く主張する。「もし歴史が『達成したこと』や目に見える記念碑の数々であるなら、我々は歴史を持たず、歴史の外側にいることになる[*26]」。”
第1回 カリブ海作家と「記憶」との諍い|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉|中村達
https://note.com/kashiwashobho/n/na5b5d70c1b01
“それゆえファノンはこのように言い放つ。「当たり前だ、人工衛星スプートニクの時代に人が飢えて死ぬなどとあっては滑稽だ、と言われるかもしれない。だが原住民大衆にとって、その説明は月の世界とはさほど関係がない[*8]」。月の世界へ届くほどの人類の華々しい文明の発展の裏側には、植民地支配によって虐げられ続け、呼吸のできる住家もなく飢えて死んでゆく「地に呪われたる」人々がいる。西洋列強による支配から独立し、彼らはようやく「地球から脱出する一歩」ではなく「地球を人間の条件とする一歩」を踏み始めたのだ。”
第1回 カリブ海作家と「記憶」との諍い|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉|中村達
https://note.com/kashiwashobho/n/na5b5d70c1b01
“ファノンいわく、西洋の植民地支配に虐げられ、非人道的な奴隷制によって人間としての尊厳を破壊され、年季奉公制によって使役された人々とその子孫たちにとって、人工衛星の打ち上げに「地球から脱出する」という楽観的で贅沢な希望を見出すことなどできない。なぜなら彼らは「地に呪われた」状態であり、地球を自分たちの「人間の条件の本体そのもの」、「努力もせず、人工的装置もなしに動き、呼吸のできる住家」にすることすらできていないからである。”
“暴力を使うことができるようなとき、相手の顔色をうかがったり、相手の今のおもいとか、希望とか、おかれた状況などをいっさい省略できます。これをしてほしい、といったとき、相手を説得したり誘惑したりするのには、あの手この手が必要ですが、暴力をちらつかせながらであれば、かんたんにさせることができます。”
[中略]
“つまり、このヒエラルキーの形成と維持にかかわる暴力は、そのまま「解釈労働」を省略できる能力なのです。
それをふまえて、「自発的隷従」について考えてみましょう。”
#読書
09.自発的隷従論を再考する
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=1107&ct=8
“ここで導入したいのが「解釈労働」という概念です。
[中略]わたしたちは、いつも他者と接触しながら生活していますよね。そして、つねにその他者がなにを考えているんだろうとか、なにを望んでいるんだろう、どう感じているんだろうと推測を働かせています。というかそういう傾向をもっています。ようするに、その推測の努力が「解釈労働」です。
[中略]いっぽうに、それをたえまなく行使しなければならない人びともいれば、ほとんどそれをなしにすませられる人びともいる。そして、このような不均等な配分は、あきらかにヒエラルキーにおける上位/劣位の区分と重なっています。
[中略]としても、なぜヒエラルキーの上下が「解釈労働」の不均等な配分につながることができるのでしょう。それを可能にしているのが暴力なのです。”
#読書
09.自発的隷従論を再考する
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=1107&ct=8
“たとえば、「それでも大衆は戦争を欲望した」といった語り口が、日本では二〇一〇年代に流行します。これは、大衆をたんに被害者としてみるような議論、への批判として根強いものです。大衆みずからが率先して戦争体制に順応した、それどころかみずからリードしたという契機を重視しようとする議論です。
[中略]
ただ、このような問いは、ひとつにはある種の責任の無化ともつながります。たとえば、支配層の臆面もないその免責ヴァージョンが、「一億総懺悔」でしょう。
[中略]
大衆がみずから、みずからを抑圧するもの、みずからの不利益になるもの、自由を束縛するものにみずから「服従」する。あるいは、その「服従」を欲望する。これはいったいどういうことか。”
#読書
09.自発的隷従論を再考する
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=1107&ct=8
“いずれにしても、「解釈労働」が、権力者への愛ないし欲望とみえるような現象をもたらすことはまちがいありません。しかし、その解釈労働を強いるヒエラルキーは暴力と無縁に存在するわけではありません。したがって、それは上からの抑圧か下からの欲望か、といった二者択一の問題ではない。不断の暴力がヒエラルキーを構成し、そのヒエラルキーが「解釈労働」を人びとに強います。そしてそのテロルの環境が生成されるヒエラルキー上位者への人びとの感情の備給、あるいは「欲望」の喚起が、不断にそれを「崇敬」や「愛情」のようなものへと転化させる条件になります。ここからすると、「大衆は抑圧されているのではなく欲望したのだ」といった問いの立て方は、けっしてよい問いの立て方ではないということがわかります。”
#読書
09.自発的隷従論を再考する
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=1107&ct=8
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