第四章 生者にとっての悲嘆可能性

この世界はどんな世界か?
-パンデミックの現象学-
ジュディス・バトラー 著,中山徹 訳
seidosha.co.jp/book/index.php?

 “自分は悲嘆されるに値しないという意識をもって生きることは、自分が不必要な人間集団に属していることを理解することであり、また、基本的なケア制度に無視されるなかで、あるいはその恩恵にあずかれないなかで、自分は見捨てられたと感じることである。この種のメランコリアは、未来が取り除かれたという感覚に内在している。この感覚は、手の届かない医療を得ようとして返済不可能な借金を背負い込んだか、住所不定と不安定収入の状況に置かれたかで、セーフティ・ネットから永久にこぼれ落ちてしまったことに付随するものである。”

 “この生が守るに値しないとみなされた場合、この生には価値がないことになるのか。それとも「価値」そのものが、われわれが根本的に疑わなければならない評価基準に乗っ取られているのか。生にはいかなる意味での価値が付与されているのか、また付与されるべきなのか。価値とは、いかなる評価基準になじむものなのか。”
 

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第四章 生者にとっての悲嘆可能性

この世界はどんな世界か?
-パンデミックの現象学-
ジュディス・バトラー 著,中山徹 訳
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 “私の考えでは、非暴力の政治を求める闘争は、命の平等な価値を求める闘争であると同時に、致命的な結果をもたらす論法に抵抗する闘争でもある。ここでいう致命的な論法とは、持続的に人々に不必要なものというレッテルを貼り、命に保護に値しないもの、喪に値しないものというレッテルを貼る(あるいはそうしたレッテルを貼らずにおく)死政治的(ネクロポリティカル)な算定術である。”

 “(前略)非暴力とは、個々の暴力行為に反対するだけではなく、死んでもかまわない人々を設定するという方針に立つ暴力的な制度、政策、国家に反対すること、あるいは、人々が監禁状態のなかで死んでいく状況を放置する政策に反対することでもあるからだ。”
 

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