【寄稿◎遠藤比呂通】
金顕球先生にティリッヒを学ぶ――『人権という幻』と『国家とは何か、或いは人間について』のあとがきから
keisobiblio.com/2023/10/18/ess

 “金牧師 遠藤さん、あなたは、「虫けらのように殺された」ことがない。「虫けらのように殺された」在日の私が、日本人のために祈るようになるのに、何年かかったと思いますか。それ「にもかかわらず」祈るから、祈りなのでしょう。それがわからなければ、ティリッヒもわからない。彼の神学は、絶望の深淵から紡ぎ出される、それ「にもかかわらず」生きる勇気に基づいているから。”

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あとがきたちよみ
『国家とは何か、或いは人間について』
keisobiblio.com/2021/02/17/ato

 “その一つは、丸山が旧制高校に在学していたときに、特別高等警察に逮捕された経験です。ドストエフスキーのいう「懐疑のるつぼのなかで鍛えられた信仰」を参照して、「国体」がこのような懐疑に耐えているのかという疑問を丸山は日記に書きました。それを示されながら、「おまえは君主制を否定するのか」と問い詰められた際、「否定したつもりはありません」と答えようとしたら、いきなり猛烈な罵声と鉄拳が飛んできたという体験です。
 丸山はこの体験を反省するなかで、戦前から戦後の巨大な思想的転換の意義がどこにあるのかを知ったといいます。戦前に疑問を抱くことと否定することの区別がなかったのは、君主制=天皇制を受け入れるか受け入れないかの選択の余地がなかったからです。そして、彼は戦後に生きる人びとに、こう問いかけます。疑問に思うことさえ認められなかったときに天皇制を受け入れたのと、天皇制を否定する選択肢があるにもかかわらず天皇制を受け入れるのと(積極的にであれ、受動的にであれ)、その意味はまったくちがうのではないかと。ここから、象徴天皇制を受け入れることの責任の問題がでてきます。”

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