「何故に人間は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」(『啓蒙の弁証法』岩波文庫、七頁)

 “この問いの発見は、西洋の言説において揺らぐことのなかった文明と野蛮の図式それ自体を突き崩します。「みずから招いた未成年の状態から抜けでること」(カント)であるところの西洋における〈啓蒙〉のプロジェクトは、私たちの理解では、ダーウィンの進化論によって完成を見たはずでした。しかし、ヒトラーとナチ党による政権掌握と独裁は、人間が「未開」から「文明」へと進歩してきた、という未来志向の進歩主義史観を覆します。”

野蛮の言説
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 “アドルノとホルクハイマーはこの問いを相関関係のうちで捉えました。つまりナチズムとは、古い時代の〈野蛮〉ではなく「一種の新しい野蛮状態」だと捉えたのです。実際、本書執筆時には著者たちが知りえなかったガス室を用いた大量殺人は、死の合理化を推し進めた帰結でした。つまりそこには明らかに「文明」が絡まりあっているのです。こうした論理を導出することで、『啓蒙の弁証法』は「啓蒙」それ自体が「野蛮」(本書では「神話」という語で語られます)との絶えざる弁証法的関係にあり、「人類」は決して「野蛮」から逃れることができないことを提示したのです。この意味で『啓蒙の弁証法』とは、西洋が前提としてきた文明の側から見る〈野蛮の言説〉それ自体を切り崩す認識を秘めています。”
植民地主義からホロコーストへ 
第一一講 ナチズムの論理と実践

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 “「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とは、これまでの指摘にあるとおり、「詩」に代表される文化的営為を指しています。この評論(『プリズメン──文化批判と社会』一九五五年)は、文化がますます形骸化し、商品化していることを批判することがひとつの主眼になっています(中略)。しかし、『啓蒙の弁証法』の著者アドルノは、文化の頽落、野蛮化を批判すればそれで事足りるとは思っていません。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という文は、その後の「そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識をも侵食する」と切り離すことができません。つまりは、文化的営為の野蛮化を指摘するアドルノの言葉さえ、さらなる野蛮のなかに落ち込んでいく、という徹底的な自己批判の意識に貫かれているのです。”
植民地主義からホロコーストへ 
第一一講 ナチズムの論理と実践
 
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