きのう餃子を作ったあとラフを上げたのですが、きょうみたらふだんは気をつけているのに間違えてはならないところで間違いを見つけてしまいました。歳を取ると1日にあれもこれもはやはり無理ですね。 さて汗顔の思いで下げてはみたものの、リアクションもいただいていたのに同じラフ画にちょこちょこ修正しただけでお茶を濁すのもどうかと思い、ペン入れしてしまいました。下げたきのうの記事部分はサイトに転記しました。 #たゞ玉響の夢 sozertsaniye.blogspot.com/2024/11/2411...

先般の三連休も今度の土日もずっと仕事続きのなか、しばらく前に去年から頑張っていた「無電源モバイル環境」を断念して当地の県庁所在地に出た際たまたま見つけた中古格安タブレットがようやく扱いの勘所が分かってきたのと、半月ほど前に仕事で赴いた先でたまたま二回りほど若い人のクリスタを扱っているさまを拝見する機会があってツールの使い方など二三勉強になるところがあり、寸暇をかき集めて2ページのこんなものを描きはじめました。 #たゞ玉響の夢

性に関わるこの種の問題の深刻さは、大学の援団出身新任教師N氏が、女子をパンツ姿で校庭に出させた行為に当時「熱血指導」以外の思いが全くなかったとしても、「性的邪念が『本当に』なかったのか?」という疑念は現に半世紀近く経とうと、N氏本人を含め誰にも払拭できない点にあります。 そして大規模校の校長で定年を迎えるまでのN氏の教職人生全体も「他の児童にも何らかの行為をしていたかも」という疑念が拭えません。 疑念が払拭できない以上、スカートを脱がされた本人の心には意識するしないに関わらず傷として残り続けますし、当時何とも思わなかった私ですら、老いたN氏に会うのに二の足を踏み続けることになるわけです。

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現場10年のブランクののちに、思いがけず実家のある県で古巣の現職に私が復帰したことを知った上記公民館長退職後のN氏から「いつでも居るから家に顔を出してよ」と連絡がありましたが、いまなお腰重くなかなか伺うことができていないのは、仕事が月月火水木金金で日々走り回っているせい…なだけではなく。

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小学4年のとき、体操服を忘れた同級のかわいい女子Mさんが担任の男性教諭N氏に「ブルマがないならパンツで授業を受けろ」と怒られ、スカートを脱がされたブラウスとパンツ姿でまる1時間校庭で体育授業を受けさせられたことがありました。 当時は田舎のアホな子どもで忘れ物のたびに殴られながらもN氏は好きでしたから、Mさんちょっと恥ずかしいだろうなぐらいの受け止めでしたが、そんな私でものちに校長まで昇進して退職し、公民館長も歴任したN氏を思い出すたびにその出来事が脳裏に蘇るぐらいですから、授業中悲しそうな顔をしていたMさん本人がその後の思春期以降、どのようにあの事件を心に抱えていったかと思うに心が痛みます。 [参照]

橘思默/創作協会セゼルツァーニエ出版所  
先週仕事で伺った高校で「今どきは胸に校章ではないのだな」と思いながら生徒達の体操服姿(但し男子)を見て、ずっと手つかずだった現代の府立紹鷗森高校の体操服を決めることにし、響子の時代には避けられぬあの問題にまつわる種々の記憶も思い起こしつつ描きました。「体操服とあの頃」sozertsaniye...

先週仕事で伺った高校で「今どきは胸に校章ではないのだな」と思いながら生徒達の体操服姿(但し男子)を見て、ずっと手つかずだった現代の府立紹鷗森高校の体操服を決めることにし、響子の時代には避けられぬあの問題にまつわる種々の記憶も思い起こしつつ描きました。

その当時は、「男の○○」「女の○○」「男なら○○」「女なら○○」とテレビCMで性別アピールを連呼するばかりの何とも雑なセールスに、「健康美」という単語を免罪符とばかりに男目線のやりたい放題、かてて加えて女にもそれを甘受するのが当然と刷り込ませたいかのような中身の、ほぼ男性作のテレビ番組や雑誌、漫画、流行歌もあふれていましたから、当時の「先進社会」の自意識とは裏腹な、未だ野蛮で歪んだ世の中でありました。

高校3年間同級で私を漫研掛け持ちにさせたNさんのように、高校生の当時からそうした「常識」を批判視していた、先見の明ある人もいるにはいましたが極少数派、大方は無批判で踊らされておりましたから、我ら「この世代」の総体としてはやはり、ずれた価値観を元にずれた現状把握をしている連中の多い世代ではないかと思う、この頃です。
「体操服とあの頃」
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人生とは、出会った大小ひとつひとつの出来事と、それを咀嚼したものを、こつこつと積み上げたものですね。

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私は太古の20代はじめ、高卒現業職から転じて大学に進んだのですが、学生研究室に課長島耕作の単行本があり、その中身のあまりのファンタジーぶりにアホらしとのけぞっていたところ、「えっ就職したらこんなもんなんやと思ってたけど…違うんや…」と、年下の先輩諸氏をいたくガッカリさせてしまったことがあります。

いつの世も物事の善し悪しをさておく「大人の事情」はございますが、人としてそれに対してはっきりと一線を引く価値観も、かつての社会にはあったような気がします。

いまにして思えば30年ほど昔のこと、当時の20代、30代が子ども時代に憧れたものを節操なく買いあさる「大人買い」なる、成人としての自覚も品性もないことばが横行するようになったころから、未来のこの目も当てられない惨状が用意されていたのでは、と個人的に思います。
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阪堺電車の松虫通の踏切近くにある延命地蔵尊です。地蔵菩薩は生まれてくる子を加護する存在で、「新しく生まれてくる子」を守り命を延ばすお地蔵様です。

かつての人々は我が身よりも後生を如何に大切に思ったか。きょうびの日本ならば、現世利益しか眼中にない我ら中高年が人より己の更なる長生きばかりを願いそうなところであります。
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私個人の場合はいずれ訪れる「自身の終焉」以外の人生のあらゆる辛い局面が図らずも四十代のちょうど10年間に集中し、すべてが怒濤の如く過去帳入りしてしまった結果、四十後半以降は俗世の評価に関わることが心底どうでも良くなったいわば「老後」の感覚で、これは当然ながら他者に理解されませんしお勧めもしませんし、私自身が得心さえしておれば良いことです。

本職のてんやわんやが現在進行形で続いており、SNSもだいぶご無沙汰続きの間にベランダの萩はだいぶ咲き切ってしまいました。
新しくなったお札の渋沢栄一像を目にする度に、若い頃目にした「昔から四十を不惑というが彼の人生を見ると四十にして初めて惑うというべきでは」との評は誰だったかしらんと都度思いながらちっとも思い出せぬこの頃、いま還暦前後のある二人の、どちらもええ歳をして何やという見苦しい立ち振る舞いに接し、「初めて惑う」一般的なお年頃が、どうも渋沢の頃よりも随分遅くなっているのではと思ったところです。
「初めて惑う」とは即ち「若者時代の終わりが突きつけられ世界が一変する」時機ではなかろうかと今にして思います。いくら往時にあれほどまでに猛威を振るった新人類世代とて、徒に若さを謳歌盲信するあまり「初めて惑う」時期が遅れ過ぎると、どうも案配がよろしくないようで。

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昔のこと、私が担当していたのは当時大きく国内の耳目を集めていた案件でしたが、ある日ふと「これだけ連日へとへとになりながらひたすら出稿していても、9割9分の人にとってはせいぜい近所の井戸端会議や職場の同僚とかとの世間話のネタにしかならないんやろうな」と思ったことがありました。

それから20年近く経ったいま、その頃の「世間話」がもっともらしい顔で社会に充満し、あまつさえ人類は自ら垂れ流すそれに振り回され自らの首を絞めるがごとき世界になってしまった感があります。

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この夏確信したのは、スマホで労せず座して世界中から手元に入ってくる情報を「自分の周囲半径5メートルの価値観」で加工し言説を垂れ流す行為が、おおかたの世界人類にとっては、さながら昭和日本のプロ野球応援よろしく「暇つぶしや鬱憤晴らしの娯楽」と化しているのだろう、ということです。

だからこそこの世で自分自身が依るべきものは、誰でもない自分自身による体験と自分自身による研鑽と自分自身による考察に基づく自分自身の判断しかないのではありますまいか。
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そういえば2003年といえば、写植メーカーの写研が、早期退職募集による人員整理で事実上写植メーカーとしての活動に終止符を打った年でもあります。 写研は高度成長期からバブル期にかけて、鼻息荒く電算写植で活版印刷の息の根を止めにかかったはずであったのに、まさか同じタイミングで終幕を迎えることになるとは思いもしなかったはずです。 人の世とは思いも寄らぬことの積み重ねであります。

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21年前、2003年1月に解散して消滅した大日本印刷市谷工場金属組版部門の組版に寄せて、台詞の組版はこのような体裁にすることにしました。 ありがたくもDNPがネットで惜しげもなく公開している往年の活字見本帳を基本に、昭和30年前後の講談社「少年倶楽部」、集英社「りぼん」などに見られるDNP活版組時代の台詞組版も踏まえました。 その結果ルビは肩付きとし、また見慣れた「三分ルビ」など、写植になって以降に生まれた組み慣習は除外することになりました。

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漫画「写植」の続きです。20Q近似の14ポで行くしかないかと思いつつも40年余昔の「LaLa」を測って計算すると18Qなので再び悩み、埒があかぬと手持ちの他のアンチゴチフォントと合わせて紙に出してみました。 秀英書体は全般的にボディに対する字面率がほかのフォントよりも高いことは分かってはいましたが、12ポ≒16.9Qの秀英と18Qの他書体の字面がほぼ同じ大きさだと確認でき、12ポ設定にすることにしました。 無論ボディサイズが12ポですから字間は他書体より詰まって見え、活版では金属板だった1ポほどのヘアースペースを挟み込めば他書体と揃いますが、秀英らしさが薄れるのでベタ組のままといたします。

亡母は60年安保後の昭和30年代後半に上京して板橋工場にあった凸版印刷労組の事務局に一時期おりましたので、DNPよりは凸版、といいたいところですが、両社とも見る影もなくもう全くの別物となった60有余年後の今となっては、思い入れるだけ無駄というものですね。

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ただ秀英体のデジタルフォントデータによるDNP社内の電算組版は1980年ぐらいからですし、写研モリサワへの秀英明朝提供も1980年代以降と比較的最近なので、秀英体にこだわるとなるとやはり自由度の高い写植ではなく「DNPの活字」を前提にした設定をしたいものですし、そうした各種物理的制約の中でどう工夫するかがDTP普及以前の組版デザインの根底にあったと思いますので、落としどころを考えてみたいと思っております。 ちなみにDNPの活字は一般的な活字に比べわずかに背が低く、組み付けても面一にならないために、ほかのメーカーの活字との混植はできなかったそうです。

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